8-6 おまけ ―矢鏡の苦労①―
『僕の読み通りなら、月曜日に学校に行けば、その様子が見られるから』
この推測が正しかったことを矢鏡が知ったのは、放課後になってからだった。
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月曜日。
フィルの推測の正誤を確認するため、矢鏡は朝から、気付かれない程度に華月の様子を窺っていた。普段と違う事が起きないか、周りの人間達を含めて観察する。午前が終わった時点での変化が、クラスメイト二人が華月を避けるようになったことだけだったため、いくらフィルでもたった数日間だけで地球人達の動向まで理解するなんて無理だ、あの推測は間違っていたのだろう、と早々に判断しようとしていた。
しかしすぐに、やはりフィルの頭脳を甘く見るべきではない、と自身の考えを撤回する。
「今日は華月を一人で帰らせてね。そうすれば接触してくると思うから」
昼休み、いつものように相談室で昼食を取っていると、テーブルの向かい側に腰掛けたフィルからそう指示された。
矢鏡は食事の手を休め、三白眼を彼女に向ける。抑揚の無い声で、わかった、と短く返事をすると、フィルは相変わらずの爽やかな笑みを浮かべ、その後の手順を説明した。
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矢鏡はフィルの指示通りに行動した。
帰りのホームルームが終わると同時に、さぁ帰ろうぜ、と華月に誘われた。それを適当な嘘をついて断り、華月が校舎から出るまで待つ。そして、人間達に見られないよう注意しつつ、フィルとの集合場所である体育館裏に向かう。楓の木が規則的に立ち並ぶその場所は、部活動が始まる頃合いには誰かが来たりもするが、それまでは滅多に使われることが無く、また、校舎や屋内プールから死角になっているためかなり人目につきにくい。だからこの場所を選んだ。ここでなら、少々術を使っても人間達に見られることは無いと踏んで。
校内をぐるりと囲む西洋風デザインの石壁に一番近い木の下でフィルと落ち合い、肉体強化を使って壁を飛び越え山に入る。二人は枝を飛び伝い葉で姿を隠しつつ、自宅に向かう華月を追った。その後ろをぞろぞろついていく、人間十人の様子を見ながら。
土手に差しかかったところで、人間十人は早足で距離を詰めていき、先頭にいた一人が華月を呼び止めた。矢鏡とフィルは大分離れた木の陰からその様を覗き、いつの間にかフィルが華月の制服に仕込んでいた盗聴器を使って会話を聞いた。
「ね、言った通りだろ?」
人間達との話が終わり、華月が踵を返してから、フィルは矢鏡に笑顔を向けた。
隣に立つ矢鏡はジト目を返し、
「……お前が華月を好いてること、広まってるじゃないか」
「偶然だけど、噂好きの人間に聞かれてしまったからね」
「わざと聞かせたんじゃないだろうな? このためだけに」
「ははは。まさか」
完璧な作り笑いを浮かべるフィルに、矢鏡は長い溜め息を吐いた。
「いつも思うが……本当に凄いな、フィル。ここまで予測出来るとは」
「それはそんなに難しいことではないよ。どの世界でも、人間が取る行動なんて限られているからね」
「そんなことが言えるのは、お前みたいな天才だけだよ」
「おや。僕が天才だったら、シンは何になるんだい?」
「神だろ」
「あぁ……確かにそうだね」
そう言ってフィルはふふっと笑う。
この時矢鏡は、華月の背中を見つめる生徒達が放つ異様な雰囲気に気付いていた。
しかし、それがどんな事態を引き起こすのかはわかっていなかった。
**
矢鏡は困っていた。次の日のことである。
昼食後に教室に戻ると、
「悪い矢鏡、シャーペン貸してくんねぇ?」
一足先に自分の席に座っていた華月からそう頼まれた。
席に着いた矢鏡は、自分の筆箱からペンを取って華月に差し出し、
「失くしたの?」
と尋ねると、華月は弱ったように笑った。
「あー……気付いたら無かったんだ。多分、さっきの美術の時に置いてきたんだな。もう授業始まるから、後で取りに行くよ」
言いつつペンを受け取り、サンキュ、と礼を述べた。
それからすぐに授業が始まり、華月は開いた教科書に集中する。
教室内の生徒と同じように、矢鏡も黒板を見やり――そこでふと、一人の女生徒が華月を見ていることに気付いた。一番廊下に近い列の前から三番目に座る女生徒は、矢鏡が視線を向けるとはっとしたような顔をして、すぐに机上に目を落とした。肩まで伸ばした髪が垂れ、女生徒の表情を隠す。
怪しく思った矢鏡はその様をじっと見やり、もしかしたら華月が筆箱を失くしたのではなく、彼女が盗んだのではないか、と考えた。しかしこの時点ではただの予想でしかないし、全く別の件である可能性もあったため、特に何かをしようとは思わなかった。
五限が終わった直後、次は実験だ、とはしゃぐ宮間に連れ出され、華月が教室からいなくなった。次々と理科室に向かうクラスメイト達とは違い、彼女は席を立とうとはしない。恐る恐る首を回し、ちらりと矢鏡を見ては慌てて前に戻すということを繰り返す。
それで確信した。彼女が盗んだ、と。一瞬、華月なら自分でなんとかするだろうから放っておいてもいいかと考えたが、注意くらいはしておいた方がいいという結論を出した。
六限が始まる五分前には、教室の中には矢鏡と彼女以外誰もいなくなった。
丁度いいと思い、矢鏡は席を立った。そして確証を得るために、華月の私物を盗んだのか、と率直に問おうとした。だがその前に――
がたっとイスを蹴って彼女が立ち上がり、青ざめた顔を矢鏡に向けた。濃い灰色の布で出来た簡素な物――華月の筆箱を机の奥から取り出し、頭を下げながら矢鏡に差し出す。
「あの! ごめんなさい! わ、私……悔しくて……ちょっと困ればいいなと思っちゃって……その……」
しどろもどろに言いながら顔を上げ、矢鏡の顔色を窺う。
矢鏡が僅かに目を細めると、彼女はゆっくり俯いて、
「すみませんでした……」
消え入りそうな声で、申し訳なさそうに謝った。
この様子なら、わざわざ声をかけなくても華月に返すだろう、と判断した矢鏡は、無言のまま教室を出た。数人の生徒が行き交う廊下を歩みながら、短い溜め息を吐く。
(……まずいな。何とか隠さないと……
華月がいじめられるようになったことを知ったら、あの腹黒が何をするか……)
一番の心配事はそれだった。
**
矢鏡はかなり焦っていた。また次の日のことである。
三限目終了後、トイレに行くと言って教室から出て行く華月をなんとはなしに目で追った。ガラスを挟んだ向こう側を左に向かって歩いていき、数秒後には視界から消える。
その次の瞬間――
小さな黄色い丸が、華月の後を追うようにそこそこの速さで教室前を横切っていった。ほぼ同時に廊下から何人かの驚きの声が上がったが、それに気付いたクラスメイトは廊下側先頭の席にいた男子生徒三人だけで、他の生徒達は雑談に夢中で聞こえていないようだった。その三人の男子生徒は一旦会話を止めたが、西を一瞥しただけですぐに次の授業の話に戻った。
矢鏡は音も無く立ち上がり、後方のドアから廊下に出た。西階段の方を見やる。
二年A組の教室前に十人程の生徒が集まっていた。その中心には矢鏡に背中を向ける華月の姿があり、他の生徒は戸惑った様子で華月の周りに立っていた。その場の全員の視線は、西階段辺りの床に転がっている硬式テニスボールへと注がれている。
一目でそれだけ確認した矢鏡は、次に反対方向へと目を向けた。廊下に散らばる、なんだなんだ、と首を傾げる生徒達を見やり、それから中庭、二号棟へと順に視線を移した。
そして、見つけた。見つけてしまった――
二号棟の三階、西階段付近にあるパソコン室の前にフィルがいた。ドアの横に立ち、華月がいる場所を真顔で見下ろしていた。
矢鏡の顔からさっと血の気が引いていき、全身からは冷たい汗が噴き出す。
フィルはしばらく西を見つめ、やがてその眼を矢鏡に向ける。ほんの僅かに目を細め、左に向かって歩き出した。階段辺りの壁によって、すぐにその姿は見えなくなる。
まずい、と矢鏡は思った。不安と焦りが襲い来る。
あの顔はよからぬことを考えている時の顔だと、矢鏡は知っている。それがどれだけ面倒か、矢鏡にはよくわかっていた。
(どうにかして止めないと……)
二号棟の三階をじっと見上げたまま、矢鏡は思考を巡らせた。
フィルならこの後何をするか、それに対しどうすればいいか、ちゃんと止めることが出来るのか――そこまで考えて、ふと思う。
(いや待てよ……フィルはバカじゃない。地球では実験もせずに大人しくルールに従っていた方がいい、と悟っているはずだ。なら、大したことはしないか……)
心配は無用――そう結論を出した。
丁度その時、
「あれ? 矢鏡、何で廊下にいんの?」
いつの間にか左隣に立っていた華月が、不思議そうに尋ねてきた。
矢鏡は華月を見返して、
(でもまぁ……一応華月に伝えておくか)
フィルが何かするかもしれない、と忠告しようとした。だが――
「やぁ矢鏡君♪ ちょっといいかな?」
口を開き、言葉を発するその前に、後ろから掛かったフィルの声によって止められる。
振り向けば、フィルはにこにこ笑顔を浮かべ、中央階段から歩み来ていた。
あまりにも不自然なタイミングに、矢鏡は僅かに頬を引きつらせた。
「あ、フィルおはよう」
「おはよう華月」
固まった矢鏡とフィルに見惚れる生徒達を微塵も気にすることなく、華月とフィルは呑気に挨拶を交わした。
フィルは矢鏡の前で足を止め、
「校長先生が呼んでいたよ。僕も用があるから、一緒に行こうか」
「…………あぁ」
その言葉は嘘だとすぐにわかったが、今ここでそれを指摘しても良いことは無いと悟り、矢鏡は大人しくついて行くことにした。
**
「おかしいと思ったんだ。昨日の朝、華月が追いかけられていたから。
――で、どうして教えてくれなかったんだい? 華月がいじめられていること」
保健室に入るなり、フィルが言った。部屋の奥まで進み、振り返ってにこりと笑う。
その端正な顔を見て、矢鏡は先程出した結論を撤回した。後ろ手でドアを閉め、
「……教える意味が無いだろ。華月なら自力で解決する。地球の事をよく知らないお前が手を出すべきじゃない案件だ」
「そうかな? でも原因を作ってしまったのは僕みたいだよ?」
「確かに、お前が安易な発言をしたせいだが……」
「ならむしろ、僕が解決するべきじゃないかな? 地球人の思考を理解しきれず、日本人が取る行動を予測出来なかったせいなんだから」
「……だとしても、フィルは動くな。手荒な真似をする気だろ」
「別に殺しはしないよ」
「それでも駄目だ」
言って矢鏡は深い溜め息を吐いた。
「……妖魔がいないからか、地球は面倒なくらい規則が多い。それを破ればどうなるか……利口なお前ならわかるだろ」
「まぁね。でも、友が困ってるんだ。見過ごすことは出来ないよ」
「……気持ちはわかる。俺も見過ごしたいわけじゃない」
「へぇ……それなのによく我慢出来るね」
「俺は、あいつの生き方には関与しないことにしてるからな」
「あぁ、それには同意するよ。あの子には自由が似合う」
フィルの言葉に、矢鏡はこくりと頷いた。
フィルは顎に左手を当てしばし考え、やがてふふっと明るく笑った。顎から手を離し、天井を指すように人差し指をぴんっと立てる。
「――じゃあこうしよう。
とりあえず、人間達に仕返しするのは我慢するよ。でも、限界がきたら行動する。もしそれが、地球でやってはいけないことなら、君が僕を止めてくれ。多分その時、僕は冷静ではないだろうから大変だと思うけど、頑張って止めるんだよ♪」
「……頑張っても、フィルを止められる気がしないんだが」
「最初から諦めてはいけないよ、ディルス」
「…………わかった。尽力する」
「頼んだよ。――あぁ、それと」
言ってフィルは、にっこり微笑んだまま左手に長針を現した。
途端、青ざめる矢鏡。
「君、また寝てないだろ。僕の目は誤魔化せないからね」
フィルがそう言い終える前に、矢鏡は踵を返し部屋から出ようとした。しかし一歩踏み出したところで高速で投げられた長針が肩に刺さり、瞬時に意識を失った矢鏡はそのまま前のめりに倒れた。