8-1 オセロ - No side -
「弱ったなぁ……」
フィルが言った。
その対面にいる矢鏡は下げていた視線を上げ、全く弱っているようには見えない爽やか笑顔のフィルを見た。
矢鏡の屋敷の二階の中央辺りにはビリヤード専用の部屋と、その隣にテーブルゲームから家庭用ゲーム機器まで様々なゲームが揃う娯楽部屋がある。二人はその中の端の方に位置する長方形のテーブルを挟み、簡素な木の椅子に座っていた。
フィルと佐藤がデートをした日の夕食後のことである。
フィルの服装はデート時のままで、矢鏡はジャケットとネクタイを外し、白い長袖シャツに黒いスラックスだけという楽な格好をしていた。
フィルは視線を横に向けており、矢鏡と目を合わせようとはしない。軽く顎に手を当て、まるで独り言のように呟く。
「まさか、早々に気付かれるとはね。やっぱり君、頭良いねぇ……」
「……フィルが言うと嫌味にしか聞こえないな」
矢鏡は数ミリ程眉根を寄せてそう言い、机上に置かれた物を一瞥する。
二人の間には正方形で緑色の盤と、片面が黒色でその裏が白色の円形の駒があった。駒は盤の横に置かれた縦に長い木箱の中に入っていた。
矢鏡は木箱から駒を一つ取り、黒を上にして盤の上に置いた。すでに置かれていた駒を二つ裏返してから、視線をフィルに戻す。
「因みにそれは、どの話をしている?」
「ん? どれって……僕の"特別な人"の話さ」
フィルは矢鏡を見返して、くすりと笑った。
矢鏡が怪訝な顔をしていると、フィルは自分の腰に手を伸ばし、ズボンのポケットから何かを取り出した。
「これ、なーんだ?」
にこにこ笑いながら、見えやすいよう顔の位置まで上げる。
手のひらにすっぽり収まる大きさの、やや厚みのある黒いカードだった。
矢鏡はそれを見て、僅かに目を開いた。どうやら驚いているらしく、しばしそのまま動きを止める。やがて、思い出したかのように急に自分の服を探り始め、シャツの胸ポケットに目的の物を見つけるとすぐに取り出し、指先で摘まんでじっと見つめた。
「……本当に油断ならない奴だな。いつの間に入れた?」
それは円柱の形をした、一番細い注射器の針より尚細く、長さが数ミリ程度の小さな金属片だった。
実はこのカード、見かけは違うが矢鏡が持っていた盗聴器と同じ物である。この小さな金属片で声を拾い、カードから発せられるという仕組みだ。因みに矢鏡は、腕時計の留め具にこの金属片を組み込んでいた。
フィルはいつもの爽やかな笑みを浮かべ、カードを盤の横に置いた。
「昨晩、君が寝ている間に入れさせてもらった。華月の考えを予想してそのシャツにしたんだけど……当たって良かったよ。これ一つしか持ってないし」
「……服装を当てるまでなら納得できる。だが、クローゼットに入ってる全く同じシャツの中で、これを当てられたのは不思議でならない」
「難しいことではないよ。僕は君のことも、ある程度は理解しているつもりだから。
例えば、君はなかなか几帳面な性格で、クローゼットに並んだシャツを右から順番に着ている――とかね」
「…………」
フィルの解説に、矢鏡は少しばかり表情を変えた。嫌そうな、気味悪そうな顔である。
フィルは楽しそうにふふっと笑って、木箱から取り出した駒を盤の上に置いた。矢鏡が先程裏返したものも含め、七つの駒が白に変わる。
その様をぼんやり眺め、
「……俺、お前のそういうところ嫌い。人を小馬鹿にするところ」
「そう。僕は君の無神経で臆病なところが嫌いだよ」
フィルが即座にそう返すと、矢鏡はやや俯いて、大分間を開けてから小声で、そうか、と言った。
フィルは矢鏡に気付かれないよう声を殺してしばらく笑い、
「でも正直で真面目なところは好きだよ♪」
明るい口調で付け足した。
矢鏡はちらっとフィルを見やり、長い溜め息を吐く。
「……やっぱりからかわれてる気しかしない……」
「君もなかなか面白いからね。一番は華月だけど」
その言葉に呆れ顔をする矢鏡を一瞥し、フィルはにこりと笑う。
「まぁそんなことより。――あれは駄目だよ、ディルス」
「……? 何のことだ?」
「昼間の話さ。華月に教えようとしただろう? 鈍いから気付かれずに済んだけど」
「……あぁ、お前があいつを特別に思っていることか」
「そう。困るんだよね、それを華月に伝えられると」
「それくらい、いいんじゃないか? 恋心を抱いてるなら別だが、一番好いてるって程度なら伝えた方が良いと思う。あいつ、率直に言わないとわからないくらい鈍いし」
矢鏡が不思議そうに言うと、フィルは視線を逸らし、
「君にヒントを与えたのは間違いだったな……」
ぼそっと小声で呟いて、静かに溜め息を吐いた。
「確かに恋心ではないよ。……でも、一番好きなんて単純なものでもない」
わけがわからず眉をひそめる矢鏡を見やり、フィルはにっこり微笑んだ。
それが感情を読ませないための完璧な作り笑いなことくらい、矢鏡にはわかる。
「彼が大切なら余計なことはしない方が良い。僕のは情愛なんて綺麗なものじゃなく、暗くて醜い欲望だからね。もし彼がそれに気付いたら、多分歯止めが利かなくなる。
――そうなれば、困るのは君だよ。親友がいなくなるのは嫌だろう?」
「……お前、あいつに何かする気か?」
「何もしないよ。気付かれない限りはね」
「…………。もし気付かれたら何をする気だ?」
「知りたいかい?」
「………………いや、やっぱいい。聞かない方が良さそうだ」
若干青ざめた矢鏡が、小さく左右に首を振る。
「賢明な判断だね」
フィルはくすりと笑い、まるで他人事のように言った。
それから矢鏡は再び箱から駒を取り出し、盤の上に置いて黒で挟んだ白い駒を裏返した。フィルも同じように行っていき、徐々に盤の上の駒が増えていく。二人は交互に打ちながら話を進めた。
「――まぁ、そういうわけだから。ただの人間が伝えるのはいいけど、君は駄目だよ」
「……人間はいいのか」
「うん。だって、付き合いの浅い人間達がどう言ったところで彼は信じないからね」
「そうか? 単純だから信じると思うけど」
「おや? これは意外だな。長年連れ添った君なら、彼の事をよく理解していると思ったのに……気付いていなかったんだね」
「……何に?」
「誰に対しても普段通りの対応をしているからわかりにくいけど、あの子はかなり警戒心が強いんだよ。よほど気が合わない限り、簡単には心を許さない。
――信じられなければ自分の目で確かめてみなよ。僕の読み通りなら、月曜日に学校に行けば、その様子が見られるから」
「……わかった」
言って矢鏡は小さく頷いた。
パチッと軽い音を立て、フィルが最後の駒を置く。対応する駒をいくつか裏返し、逆の手で頬杖をついた。
矢鏡はフィルをじっと見つめ、
「フィル」
「何?」
フィルがにっこり笑う。
矢鏡はわずかに頬を引きつらせ、盤の上に視線を落とした。
「さすがにこれは無いだろ……」
升目を埋め尽くす駒は、全て白になっていた。黒面を上に向ける駒は一つとして無い。
「初めてやって……これは無い……」
呆然とした口調で、矢鏡はもう一度言った。
フィルは済まし顔を作り、
「でも君強いね。全部白にするの、なかなか難しかったよ」
「あのな……これそういうゲームじゃないから……」
「おや、そうなのかい? 全て自分の色にすれば勝ちだと思ったよ」
「違う……というか、普通は一色に出来ない。だから自分の色の駒が多い方が勝ちなんだ」
「へぇ。それじゃああまり面白くないね、簡単すぎて」
あっさりそう言うフィルに、矢鏡は完全に呆れた目を向けた。
「……お前それ、同じことを華月に言ってみろ。絶対に怒られるから」
フィルは数秒考えて、ごめん、と素直に謝った。