6-5 - Shikyou Ⅲ-
翌日。午前六時。
俺に気を使い、夜の間は屋根の上にいたはずのシンが、いつの間にか寝室のベッド脇に立っていて、
「……起きた?」
何故か揺さぶり起こされた。
シンは理由も無くそんなことをする奴じゃないので、何かあったのかと尋ねると、
「起こしてごめんね。でも、どうしても聞きたいことがあって……
さっき、大きな鉄の塊が空を飛んでいるところを見たの。別の世界で見たものとは大きさも形も違うけど……あれも戦闘機でしょ? この国では戦争をしているの?」
浮かない顔をしてシンは言った。
俺は少し考えて、身を起こしてベッドから降りた。シンの前に立ち、その頭を右手で撫でる。
「戦争はしていない。あれはこの世界の移動手段の一つで、飛行機というんだ」
妖魔がいないから、シンが地球に来ることはほぼ無かったらしい。だから、地球のことはあまり知らないそうだ。加えて、地を走る車や列車が存在する世界は珍しくも無いが、空を飛ぶ技術がある世界はほんの僅からしいからな。いくらシンでも、戦闘機しか見たことなくて当然だろう。俺も、地球に来るまでは鉄の塊が空を飛ぶなんて思わなかったし。
学校に行く支度をしつつ飛行機の構造を簡単に説明すると、シンはすぐに納得して、安心したように、そう、と言った。
朝食を終え、いつもより三十分程早いが学校に向かう。家にいてもやることないからな。
住宅地を通り抜け、いくつも連なった山の横を通る土手を歩き、校舎が見えたところでシンと別れた。"あいつ"に気付かれないように、どこか適当な場所から見ているそうだ。
すでに開かれた校門を通り過ぎ、七時四十五分には教室に着いた。クラスメイトは何人かいたが、"あいつ"はまだいなかった。
俺は自分の席に座り、先日、暇つぶしのために買ったドイツの経営学の本を読んだ。
しばらくして――
七時五十五分に"あいつ"が来た。無言のまま隣の席につき、何の本かはわからないが読書を始める。
おぉ……エルナの時は字も読めなかったのに……
その様子を一瞬だけ見て、俺は少し感動した。"あいつ"が本を読んでいる姿なんて、今まで一度も見たことがなかったからだ。
室内のクラスメイトの数が徐々に増えて、そのうち担任が入ってきた。今日の体育は野球をすると言って出て行き、代わりに公民教師が来て一限目の授業が始まった。
気付かれないように横目で隣を見ると、"あいつ"は真剣な眼差しを黒板に向けていた。
やっぱり、"あいつ"が勉強をしていると違和感あるな……なんか新鮮……
そう思った途端――
突然"あいつ"が頭を抱えて項垂れた。次いで、かなり小さい声で、
「……さっぱりわからない……」
と呟いた。
あー……バカなのは変わらないのか……
親友が親友のままのようで、少し安心した。
**
三限目終了後、俺はすぐに教室を出た。次の授業が体育のため、校庭側に建つ二号棟の一階中央辺りにある保健室に行く。『病弱』な俺は、体育に参加しない代わりに、ここで個別授業を受けることになっているからだ。――表向きは。
「おぉ若様」
保健室に入ると、白衣を纏う初老の男が声をかけて来た。彼は校内唯一の養護教諭で、この学校が出来るまでは矢鏡家専属の医者として働いていた者だ。そのため、俺が全くの健康体だということも、ここで個別授業を受けたことがないことも知っている。体育をサボれたり簡単に早退が出来るのは、主に彼のおかげだ。
保健室はそれなりに広く、入り口正面に彼が使う机とイス、それと患者が来た時用のイスがある。右の壁際にはベッドが二つ、間を開けて横に並び、白いカーテンで仕切られ中が見えないようになっている。
因みに、彼が俺を『若様』と呼ぶのは、他に誰もいない時だけだ。
「今開けますね」
そう言って、彼は机の引き出しから銀の鍵を取り出し、この部屋の左隣にある相談室の鍵を開けた。相談室は縦に長い小さめの部屋で、保健室からも廊下からも入ることが出来る。本来は生徒の相談に乗るための場所だが、そういう生徒が滅多にいないため、体育の時などに使わせてもらっている。
俺は礼を言って、相談室の中に入った。
「では、私は隣にいますから」
彼はそう言い残し、ドアを閉めた。
この部屋の窓は北を向いていて、昼間であっても薄暗い。いつもは電気をつけて、部屋の中央にある長テーブルで暇つぶしのために勉強をしているのだが、今日は電気をつけずに窓際に立った。ここからなら校庭がよく見えるし、向こうからは逆光で見えにくいから"あいつ"に気付かれることもないだろう。
一分も経たずに、クラスメイト達と担任が校庭に出てくる。最後尾あたりに"あいつ"の姿があった。体育倉庫に集まり、全員で野球の準備をしている。
その様子を眺めていると、
「ディルスは参加しなくていいの?」
シンが天井を擦り抜け右横に降ってきた。
さすがシン。この部屋には防音が効いていることを見抜いたようだな。……まぁ、そうでなければ、隣の部屋に人がいる状況で声を出すことはしないか。
俺は小さく息を吐き、
「常人に合わせるの面倒なんだ」
校庭を見ながら正直に答えた。
シンはふふっと笑って、"あいつ"に目を向けた。
「合わせられない子があそこにいるけど……?」
「あいつはほら……俺と違って特殊だから」
「んー……確かに、いろんな意味で特殊だね。魂もそうだけど、あれだけの力を宿した肉体は全世界の中でもそうないよ」
「だろうな……」
校庭では、西と東に別れたクラスメイト達が、それぞれ試合を始めようとしていた。"あいつ"がいるのは東側で、どうやらトップバッターをやるらしい。金属バットを右手に持ち、やや困ったような表情でバッターボックスに移動した。
……? なんであんな顔をしているんだ? 運動は好きなはずだが……
考えている間に、クラスメイト全員が"あいつ"に注目し始めた。一瞬、"あいつ"が嫌そうな顔をした。
――あぁ、そうか。確か"あいつ"……
あることを思い出したところで、ピッチャーが"あいつ"に向かってボールを投げた。
そして――
カッキーン
綺麗なフォームで"あいつ"が打った。打たれたボールは凄まじい速さで山の方に飛んでいった。その場にいる全員が山を見やり、動きを止める。"あいつ"だけが不安そうな様子で、周りの顔色を窺っていた。
「……やると思った」
「何を?」
俺がそう呟くと、シンは首を傾げて尋ねてきた。俺はシンを見返して、
「あいつなら全力で打つと思ったんだ。加減をすれば、目立たなくて済むのにな」
「……あの子、目立つの嫌いだったの? エルナは凄く目立ってたけど……」
「いや、目立つこと自体は嫌いじゃない。その後に騒がれるのが嫌いなんだ。
地球には妖魔がいない分、異様なものに慣れていないからな。あいつの身体能力はここでは目立ちすぎて、必要以上に騒がれるんだよ」
そこまで言うと同時に、固まっていたクラスメイト達と担任が動きだし、ほぼ全員が"あいつ"を取り囲んだ。口々に何かを言っているようだが、ここからでは聞き取れない。けど、完全に困惑している"あいつ"を見れば、何を言われているのかは想像がつく。あの様子だと恐らく――部活の勧誘だろうな。運動部には熱心な奴が多いし、今"あいつ"の両肩を掴んだ担任は熱血漢な野球部顧問だ。
「人気者だね」
明るく笑い、シンは言った。
俺は一度シンを見て、すぐに視線を"あいつ"に戻した。
しばらく静寂が続き――
「そっくりだね、あの子」
唐突に、シンが言った。
俺は反射的にシンを見て、俺と目が合うとシンは小さく微笑んだ。
「貴方の親友――セロの"彼"に」
**
その後、シンは再びどこかに行った。
俺は昼休みが終わる頃に教室に戻り、午後の授業を受けた。隣では"あいつ"がずっと頭を抱えていた。
放課後になると、教室の外と中には人溜まりが出来た。もちろん"あいつ"を中心に。
複数の人間が近付いてくる気配を感じ取り、逸早く教室から去った俺は、二号棟の二階の廊下から人が集まっていく様を眺めた。どちらの建物も中庭側に廊下があってよかったと思う。人が多すぎて"あいつ"の姿は見えないが、様子はわかりやすいからな。
人混みが出来ている理由は、多分部活の勧誘のためだろうが……まぁ、それ自体はどうでもいい。"あいつ"の力が狙われるのは、どこに行っても同じだ。
「あの子困ってるようだけど……助けなくていいの?」
いつの間にか隣に来ていたシンが言った。
慣れているから驚きはしないが、本当に神出鬼没だな……
俺はシンを見もせずに、
「大丈夫だよ。あれだけの数に囲まれれば、我慢できずに逃げるから」
言ったと同時に、人混みの隙間から弱り顔の"あいつ"が出てきて、ほぼ全力で中央階段に向かって走り出した。人混みの半分がその後を追う。
「さすがだねディルス」
「伊達に親友やってない」
感心したようなシンにそう返し、俺達も外に向かった。人間達には見られないよう、途中で銀の指輪を左手の中指に嵌める。
一階の連絡通路だけは壁が無いので、そこから中庭に出て、広範囲を見渡せるように二号棟の屋根の上に飛び乗った。シンが俺の横に並ぶ。
「悪いけど俺急いでるんで!」
丁度その時、下の方から慌てたような声が聞こえてきた。反射的に声のした方を見ると、"あいつ"が体育館の横を通って校庭に走り出てきた。
「待って! 話だけでも聞いて!」
「頼むよ転校生! 一緒に陸上やろう!」
「ちょっ……! マジ速すぎ……!」
などと叫びながら、二十人程の生徒達がその後を必死に追いかけている。だが、"あいつ"の足の方が圧倒的に速いため、両者の距離はあっという間に開いていく。
"あいつ"は真っ直ぐ裏門へと向かい、すでに引き離された生徒達の前で、高さ二メートルはある鉄門を軽々と飛び越えた。生徒達は歓声を上げ、そこで追うことを諦めた。"あいつ"はそのまま、学校を囲む石壁を更に囲うようにある小道を、時計回りに走って逃げた。その後、学校の東側にある太い川にかかった橋を渡ったところで速度を落とし、住宅地に伸びる土手を歩いていく。
俺達は山の中腹辺りに場所を移し、土手を歩く"あいつ"の背中を見送った。
「んー……」
隣に立つシンが唸った。
「どうした?」
「もしかして、あの子……」
俺の問いに、シンはまるで独り言のように呟き返し、じっと"あいつ"を見つめながら近付いて行こうとする。
「待てシン、これ以上近付くと――」
制止の言葉を言い終える前に、"あいつ"が素早く振り返った。
俺は慌ててシンを抱き寄せ、すぐ傍の太い木の後ろに隠れた。肉体強化を使ったから、多分ギリギリ見られなかったと思う。
俺はなんとなく頭上を見上げ、ため息を吐いた。
「……これ以上近付くと、あいつは気付くよ。今のあいつは剣士じゃないから、俺達の気配を感じ取ることは出来ないだろうが……勘が良いからな」
そう言うと、シンは顔を俺に向け、
「……ごめんね。もう少し近付けば魂が見えやすいから……つい」
申し訳なさそうに言った。
俺はシンを開放し、"あいつ"が住宅地に向かって歩き出したことを確認してから、
「まぁ……見つからなかったようだし、それはいい。
けど、どうしたんだ? あいつの魂に気になることでもあったのか?」
「…………」
シンはすぐには反応せず、微妙な間を開けてから、
「……ごめん、なんでもない」
にっこり笑って答えた。
嘘付け、と思った。一瞬追及してやろうかと考えたが、意味が無いから止めた。