静かな波紋 - No side -
湖の砂浜で、シンとフィルの二人は、横に並んで湖面を眺めていた。
空に太陽の姿は無く、辺りは薄暗い。星と月はまだ出ていなかった。
「シン」
ふいに、フィルが名を呼んだ。やんわり微笑み、隣を見やる。
シンは何気ない顔で、静かに見返した。
「ただの確認だけど……人間達がすでに殺されている事も、華月に配慮して、僕が単独で動く事も、わかっていたよね?」
「……うん。魔界では人は生きられないし、フィルは優しいから、そうすると思ったよ」
「それはどうも。でも、君ほど優しくはないよ。
――それで、もう一つ聞きたいんだけど……魔界での魂の救出方法って、捕らわれていたら解放して、妖魔が作った通路か、魔王さんとシンと、僕達主護者しか知らない抜け穴まで導くこと……だよね?」
「そうだけど……どうしたの? 初めてだから不安になった?
だったら大丈夫だよ。通路が壊れる前に、そこから戻って来たから。
……フィルが導いてくれたんでしょ?」
不思議そうに訪ねてくるシンに、フィルはにっこり笑い返し、
「……ただ、確認したかっただけだよ。ちゃんと救出出来たかなって心配だったからさ」
それを聞いて、シンはふふっと笑い、捕らわれていた魂の数は本体の方で調べてあったことと、戻って来た数が一致していたことを、安心させるために伝えた。
フィルは、それならよかった、と安堵したように言って、やはりそうか、と思った。
魂のこと、ではない。リンの行動に対して、だ。
華月達には、リンはシンに頼まれて来たのではないか、と言ったが、それはリンとのやり取りを隠すための嘘にすぎない。
現に、生きている人間であっても魂であっても、救出するには通路まで案内すればいいだけである。フィルどころか、華月にも出来ることだ。わざわざリンに頼むことではないし、頼まれたところで彼女は断るだろう。それがわかっているシンは、そんな無駄なことをしない。
そしてそれは、フィルだけでなく、矢鏡も理解している事だ。
だから矢鏡は、フィルの嘘を聞いた時に一瞬だけ不思議そうな顔をしたが、すぐに"人がすでに死んでいたことを華月に気付かせないため"の嘘だろう、と推察し、あえて何も言わなかった。故に、本当にリンに会った、とも思っていない。
フィルは、矢鏡ならそう考える、ということまで計算していた。そして、確信があったからこそ、リンに会ったことを正直に話したのである。わざと誤解させるために。
何故なら、リンに釘を刺されたからだ。大事なものは自分で守れ、と。
それはつまり、"この事は誰にも言うな。お前だけで行動しろ"ということである。
だからフィルは、リンに会ったことを悟られないよう、遠回しにシンに訪ねた。
リンのせいで見失った魂達が、ちゃんと戻って来たのかどうかを。
「じゃ、そろそろ行くね」
そう言って転移しようとしたシンを、フィルは名を呼び、引き止める。
あまりリンを好いていないため、少々不本意ではあるが――彼女の言葉に従うために。
今は、それしかないと思うから。
「しばらくの間、華月達と一緒にいてもいいかい?」
「…………」
一人が好きなフィルにしては珍しい申し出に、シンは少し驚いた。
だからすぐに付け加える。
「やっぱり華月が気になるからさ。エルナのこともあるし」
と、怪しまれないように、いつも通りに笑って。
だが、フィルは知らない。この時シンが、リンの仕業だ、と悟っていたことを。
シンは気付かないふりをして、優しく微笑み、
「もちろん。任せたよ、フィル」
「……うん」
フィルはつぶやくように応えた。
**
華月が地球に戻って来てから四日後。つまり月曜日。早朝。
華月達が通う私立翠ヶ丘高等学校、校舎二階、二年B組の教室にて。
「――というわけで、今日から養護教諭を担当する、フィル・フィーリアです。
よろしく♪」
水色ティーシャツの上に白衣を羽織り、黒いズボンと黒い靴を着用したフィルが、教卓の前で爽やかに笑った。
教室内は一瞬だけ静まり返り、そして、
「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!? フィル!? なんでここに!?」
ガタンとイスを蹴って立ち上がりつつ、華月が驚きの声を上げた。
他のクラスメイト達は、フィルが入ってきた時からぽかんとしていて、唯一矢鏡だけが平然としていた。
フィルは爽やか笑顔のままで、当然そうに答える。
「なんでって……
今日は君達の担任の佐藤先生がお休みで、人も少ないから、代わりに」
「いやいやいやいやいや! そうじゃなくて!」
華月は慌てふためき、前の席の男子生徒が、
「イケメンが増えたぁぁぁぁぁ!」
と、悔しそうに叫び、
「いけめん……?」
と、フィルが不思議そうに首を傾げれば、
『はぅ……♡』
クラスの半数は占める女子生徒のほとんどが、幸せそうな顔をして倒れた。
華月は混乱した頭で、とりあえず隣にいる矢鏡の襟を引っ掴み、教室の外に全力ダッシュ。そのまま右手の廊下を走り、突き当たりにある図書室のドアを乱暴に開けて中に入った。なぜ図書室にしたかというと、この時間は誰もいないことを知っているからだ。
それでも念のため奥の方へ行き、背の高い本棚の間で足を止め、手を離して矢鏡と向き合う。
「どういうことだ!? 知ってんだろ!?」
矢鏡は乱れた襟元を整えながら、抑揚の無い声で言う。
「シンの指示で、しばらく一緒に行動だってさ。三日前の夜、俺の家に来たんだ。
で、どうせなら華月を驚かせたいって言うから、土日の間にいろいろ資格取らせて、ここで雇った」
「はぁ!? 雇った!?」
「あれ? 知らない? この学校の理事長、俺の父親なんだよ」
「えっ!? マジで!?」
「あぁ。だから、すでにいた養護教員は、丁度欠員が出た別の学校に転任してもらって、代わりにフィルを推薦した」
「何その嘘みたいな話! つか何!?
フィルだけじゃなくて、お前も金持ちだったのか!?」
「あー……まぁ、そうだな。そのおかげでフィルの戸籍と学歴作れたし」
「作ったの!? ま、まさかあれか!? 金に物を言わせてか!?」
「ポケットマネーで足りて良かった」
「なにそれ嫌味!? ケンカ売ってんの!?」
「いや、そういうつもりは……」
そうこうしている間に、矢鏡の後ろ、本棚の脇からフィルがひょいっと姿を現した。
「こんなところで何やってるんだい?」
何気ない顔でフィルが言った。
未だに落ち着けていない華月は、フィルを見るなりわたわたと変な手振りをつけて、
「え、だって、フィルがいるから! 俺もうわけわかんなくて! わけをだな!」
自分でもよくわからないことを言った。
矢鏡は体の向きを九十度変え、フィルを見やり、
「満足したか?」
「それはもちろん。やっぱり華月は面白いね♪」
フィルはとても楽しそうに答えた。
引き続き質問攻めをする混乱状態の華月に、矢鏡がなだめながら説明して、フィルはそれを、あはははは、と笑いながら見ていた。
そして、リンの言葉を思い起こし、少しだけ目を細めた。
あの時、リンはこう言った。
『ディルスから目を離すな』
それはつまり――
これにて、第一章を完とします。
引き続きお楽しみいただければ幸いです。