5-1 通信機っていかにも任務って感じがする
太陽が真上を通り過ぎ、心地よい春風が湖面に小さな波を立てる。
そこそこ大きな湖で、形はほぼ円形。透明度の高い水と白い砂浜が陽の光に照らされて、まるで宝石のようにキラキラと輝いていた。魚は一匹も見えなかった。
幻想的とも言える景色の中に、一つだけ不似合いなものがあった。
波打ち際の水の上に浮かぶ黒い大穴。リンさんと初めて会った時に見たやつと同じもの。
その時は中から黒ローブ男が現れた直後に消えてしまったが、目の前にあるこの穴は、俺たちがここに来る前からあり、今もずっと宙に浮かんだままだ。
「これが"通路"だったのか」
「そうだよ」
穴から一メートルは距離を開け、前から横からまじまじと観察する俺に、真面目な顔のシンが応えた。
「魔族と悪魔だけが使える、魔界と地上を繋ぐもの。一度繋げてしまえば、作った当人が術を解くか死ぬかしない限りは壊れない。妖魔も人間も、私たちでも出入り自由だから、そのままにはしておけない危険なものだよ」
「危険……なのか? 便利そうだけど」
俺が首を傾げて尋ねると、シンはフッと笑ってみせ、
「じゃ、言い方を変えようか。
魔界と地上が通路によって繋がっている限り、妖魔は地上に出放題。このまま放っておけば妖魔がどんどん移り来て、一年もあればフーリ全体が埋め尽くされる。
言い忘れていたけど、集落に張ってある結界はね、上位魔族と上級悪魔なら壊すこともできるの。
――もし、そんな状態で結界が壊されれば……どうなるか、わかるでしょ?」
怒涛の如く押し寄せる悪鬼の大群が町を襲う様を想像し、俺の顔からさぁっと血の気が引いていく。
「それ……さ、人……全滅するんじゃ……」
「だろうね」
おそるおそる口にした恐い考えを、フィルが即座に肯定する。
いつもの爽やかな笑みを浮かべ、
「だから、華月もちゃんと覚えておいてね。たとえ任務の途中でも、よほどの事情が無い限りは通路破壊が優先だから。通路を見つけ次第、作成者を探し出して倒すこと。
大体は自分の住処と繋げるから、探すのに手間はかからないけど……たまに隠れる奴もいるから、その時はシンに相談すれば仲間を送ってくれるよ」
「余力があれば、だけどね」
フィルの説明に続き、にこりと微笑みシンが言った。
次いで、俺の傍まで歩み寄り、黒いUSBメモリみたいな見た目の通信機を差し出してくる。前に矢鏡が使っていたやつと同じ物だ。
「これで通信できるから。華月にも渡しておくね」
俺はそれを右手で受け取り、品定めするように全体を見回しながら、
「でもこれ……どうやって使うの?」
「通信したい相手を思い浮かべながら、横のスイッチを押せば繋がるよ。もちろん、通信機を持ってない人には繋がらないけど。
……試しにやってみる?」
シンは言うなり、俺の返事も待たずに砂浜を駆けて行き、数十メートル離れて止まる。くるりと反転し、ひらひらと手を振った。超かわいい。
俺は言われた通りシンを思い浮かべつつ、スイッチを一度押した。途端。
チッチッチッ――
と、時計の針のような音がどこからか聞こえてきた。
等間隔(多分一秒)で鳴るその音は、シンが通信機を取り出し、俺に見えやすいように肩まで上げて、スイッチを押すと同時に止まる。
『聞こえる?』
そう問うシンの声が、まるですぐ隣で発せられたかのように、とてもはっきり聞こえた。通信によるラグはないらしく、シンの口の動きともぴったり一致していた。
「すっげー……こんな感じなんだ」
『そうだよ。便利でしょ』
感嘆の声を上げる俺に、シンはふふっと笑って応えた。
シンが再びスイッチを押すと、ピッという短い音がして、それきりシンの声は聞こえなくなる。小さく口が動いていたが、ここからでは何を言っているのか分からなかった。
しばらくして、シンがまたスイッチを押すと――
突然、シンに呼ばれた気がした。
声が聞こえたわけではない。ただ、そんな感じがしただけ。
その感覚は、エルナと初めて会った時に感じたものと似ていた。だから少し驚いたけど、フィルたちは別の意味で捉えたことだろう。エルナについては完璧に隠しているからな。
今度は俺がスイッチを押し、またピッと短い音が鳴る。
『逆だとこんな感じね。わかった?』
「うん。ありがとう、シン」
再び聞こえたシンの声にそう返し、シンは通信を切ってから俺たちの方に戻ってきた。
にっこり笑顔で俺を見上げ、
「じゃ、私は行けないから。何かあれば連絡して」
「えっ!? シンは行かないの!?」
驚いて聞き返すと、シンは困ったような顔で小さく頷いた。
魔界には邪気が充満していて、霊体だとその影響をもろに受けるからだって。
邪気の影響ってなんぞ? と思ったそこの君。
安心してくれ。ちゃんと聞いたから。
矢鏡曰く、実体化の維持に通常の二倍の通力を消費したり、術の発動が不安定になったり、威力が弱まったりしてしまうらしい。人によって多少の誤差はあるものの、ほとんどの人がまともに戦えなくなるんだってさ。
但し、人間であれば話は別で、肉体によって魂が守られているから邪気の影響は受けないらしい。
つまり、今は人間である俺たちが魔界に行っても問題ないが、通力の残りが皆無である今のシン(霊体。しかも分身)では、行った途端に通力を使い果たし、消滅してしまうという。
あー……じゃあ、一緒に行っても意味が無いのか……
少々どころかかなりショックだが、そういうことなら仕方ない。
シン一人残していくのも心配ではあるが……俺たちが湖に着いた時、そこら辺をたむろしていた悪鬼たちは全滅させたし、襲われることはないだろう。
一応辺りを見渡して、敵の姿が見えないことを確認していると、シンが俺の名を呼んだ。
その声に視線を戻すと、シンは薄く笑って左手を差し出してきた。手の平を上に向け、そこに乗せられた物を俺に見えるようにする。
それは小さな四角い箱だった。大きさはサイコロと同じくらいで、色はキレイな薄紫。中心部には白っぽい玉があり、わずかに透けて見える。
「魔族を倒したらこの通路は消えてしまうから、戻ってくる時はこれを使って。転移するための術が掛けてあるの」
俺は左手で小箱を摘まみ上げ、
「……使い方は?」
「この場所を思い浮かべながら箱を壊すだけ」
シンの簡潔な説明に、俺は不安げに眉根を寄せた。
「壊す……のはいいけどさ、それ危なくない?
だって、壊せるってことは、衝撃かなんかでも壊れるってことだろ?
もし途中で壊れたらどうすんの? 転んだ拍子に、とか……」
物質召喚で消しておくつもりだが、万が一壊れたら困るからな。まだ転移は使えないし。
しかし、心配は無用だったようで、
「それは大丈夫。転移するつもりでないと、絶対に壊れないようにしてあるから」
シンはにっこり笑ってそう言った。
うむ。それなら安心だ。
……まぁ、どのみち持ち歩くには邪魔だから、通信機と一緒に消しておくけどな。
「それと、効果範囲は半径一メートルだから、使う時は気をつけてね
普通の転移なら一緒に移動する相手を選べるけど、これだと出来ないからね。
必ず、三人が範囲内に入った状態で使うように」
「りょーかい」
俺が短く返事をして、
「じゃ、行ってくる」
と、後ろで矢鏡が言った。
シンの笑顔を最後に見て、俺たちは通路に入っていった。
**
自分以外、誰もいなくなった砂浜で――
シンは一人、波の音だけを聴いていた。
目の前に浮かぶ通路を眺め、ふいに、視線を左に向ける。
眼に映るのは、白い砂浜と湖と、湖の周りを囲む背の高い木々だけだった。
シンはその内の一本、丁度左真横の一番手前にある木を見つめ、わずかに目を細める。
クスリと――誰かが笑った。