婚約破棄されたので王太子殿下に聖女の力をお渡ししたら「王女」と「聖太子」に分裂しました。わたくしも分裂しようと思います。
「こんなこと有り得るはずがない。たかが婚約を破棄したくらいで、こんなことがあってたまるか!」
頭を抱えてうずくまるドレス姿の女性がいた――正確には違うが。
彼の性別は本来男性であり、この国の王太子なのだから。しかし今は、人格以外はすべて女性だった。
では失った男性の身体はというと、目の前に立っている。
自分が浮かべたこともないような麗しい笑みで、背後から後光が差していそうな穏やかさで。
――やあ、僕は聖太子。すべては神の思し召すがままに。
そんな挨拶をしてきたこいつの中身は、一体どこの誰なのだろう。
少なくとも王太子の一部とかではない。自分自身を僕と称したことなど、これまでの人生で一度たりともなかった。
「聖女の力を受け取ったんだぞ?聖女の!それで何でこんな意味不明なことが起きるっ!?」
「ご説明しましょうか」
淡々とした声にびくりと顔を上げると、元婚約者である聖女が頬に手を当て小首を傾げていた。
仕草は上品なのに、相変わらずまるで感情の読み取れない目をしている。
ごくり、と王太子は知らず息を呑んだ。
「まずは王太子殿下」
聖女は右手を差し出す。
「そして聖女の力」
今度は左手を差し出す。
「――んっ。"王太子聖女"。混ざったので発光して、うにょうにょして、王女と聖太子に分裂しました」
「ペンパイナッポーアッポーペンだろそれは!!違う、俺はこうなった理由を知りたいんだよっ」
理由の方でしたか、と今度は逆の角度に小首を傾げた聖女――力を譲渡したので元聖女か?――は、決まりきった聖句を読み上げるように返答した。
「王女殿下が、貴様との婚約は破棄するが聖女の力は惜しい、と仰ったのでお渡ししました」
「王女殿下と呼ぶな!それも違う、俺が知りたいのは――」
確かに惜しいと言った。寄越すと言うから聖女の力も受け取った。
だが王太子が本当に知りたいのは、そんなことではない。
俺は元の男の姿に戻れるのか。最終的には、その一点のみである。
「大丈夫ですよ。王太子殿下」
「ほ、本当か!?」
「お任せください。わたくしも分裂いたしますから」
「いたすなーッ!!」
思わず出した大声は、高くて甘くて女性の声で、王太子は泣きたくなる。
しかしどういうわけか聖女は目を閉じて、その叫びに聴き入っているようだった――。
「騒々。母入室。何事」
「うるさいですよ。廊下まで響くのでつい来てしまいましたが、これは一体どういうことですか?と仰っています」
そこへ現れたのは、王太子の母でもある女王陛下だった。
他国から嫁いで数年で夫が亡くなり、一人息子が成人するまで暫定君主を務めているのだが、この国の言葉は単語で喋るのが精一杯。
そんな彼女の通訳をしたのは、聖女だった。
「は、母上――俺が!俺が貴女の息子ですっ!」
「マミー助けてヘルプヘルプ。聖太子なんかに次期国王の立場を譲らないで。と仰っています」
「俺の通訳は要らんだろ!?というか何だその意訳はっ」
女王陛下はまず、騒ぎ立てる王女になった王太子を見て、それから爽やかに紳士礼をする聖太子を見た。そして小さく頷いた。
「我歓喜。娘待望。明日希望」
「まあ、すっかり可愛くなったではないですか。娘が欲しかったので実に喜ばしいこと。それに、未来に希望が持てそうな後継者まで。これでこの国も安泰ですね。と仰っています」
「んなっ!母上ェ!?」
ひっくり返った声を上げる王太子には構わず、女王陛下はにこやかに微笑みながらドアへと向かう。
するとすかさず聖太子がエスコートを申し出て、二人は仲良く退室して行った。
唖然とその後ろ姿を見送った王太子は、やがて我に返りサッと青ざめる。
退室間際の母の口元が、確かに「政略結婚」と動くのを見た。その駒はきっと――自分だ。
「くそっ!どうすれば良いんだ、このままでは他国に嫁がされてしまうっ」
「それは困りましたね」
「せめて困った顔をして言え!こんな時まで無表情で、人形か貴様は!」
とうとうソファに倒れ込んで嘆く王太子を見下ろしながら、聖女はうっすらと口を開く。
そこから覗いた赤い舌の先が、ゆっくりと唇を撫でていった――。
「聖女の力を返せば、いや聖太子が持っているのか。今から他国の言語を習得?無理だ、才女と名高い母上でも苦労しているのに」
「王太子殿下」
「俺では単語すら並べられん。だが会話が無理なら寂しく孤立は確定的に明らか――どうする?どうすればいい?」
「王太子殿下」
「せめて国内の貴族の誰かに、いや待て、俺は何故王女として結婚することを受け入れかけている?」
「王女殿下」
「その呼び方はやめろと言っただろうがッ!!」
聖女の呼びかけをあえて無視していた王太子だったが、たまらず叫んでしまう。
しかし聖女は怯えの一欠片も見せず、まるで完璧な答弁をする官僚のような態度で言った。
「わたくしも分裂すれば、万事解決いたします」
「いたさんっ!いたしてたまるか、勝手に増えるな!俺は今、どうやって聖太子を蹴落とすか考えるのに忙しいんだ。貴様はその辺の庭で、地面のミミズでも眺めていろっ」
そう吐き捨てた王太子は、目の前のティーカップとソーサーを乱暴に持ち上げる。
冷め切った紅茶で喉を潤し、カップを左手のソーサーに戻そうとしたところで、突然彼の全身が輝きだした。
「はっ?な、何だこれは!?」
「聖太子殿下が消えたので、聖女の力が移動しました」
「奴が消えただと?どうして急に」
「邪魔だったのでしょう?」
だから消しました、と冷めた紅茶よりも温度のない声で言われて――理解した瞬間、王太子は総毛立った。
聖女は窓の外を見ている。外の、庭を這うミミズを。
「雌雄同体。分裂が駄目なら、残るは性転換ですね」
「えっ?」
「わたくしが男性になります。新たに婚約を交わす方が簡単ですから」
そう言って視線を向けてくる聖女。王太子は反射的に顔を伏せた。心臓が激しく鳴る。
きっと聖女は、じっと自分を見つめている――深く暗い沼の底のような、あの目で。
「それでは」
「ま、待て!待ってくれっ!婚約破棄、そう婚約破棄だ!あの婚約破棄を、撤回させてくれ――!!」
「――はっ!」
ソファの上で跳ね起きた王太子は、何度も室内を見回した。聖女の姿はない。
背中にじっとりと嫌な汗をかいているのを感じながら、恐る恐る両手を見ると、そこにあるのは毎日見慣れた若い男の手指だった。
それでも安心できなくて、鏡を覗き込む。そしてようやく息を吐いた。
「夢だったか。狭いソファで昼寝なんかするものじゃないな」
喉の渇きを覚えてローテーブルの上のティーカップに手を伸ばし、中身が空なことにギクリとする。
自分は寝る前に、これを飲み干しただろうか?
「まさか。いや、まさかそんな」
ただの夢に違いないはずだ、と否定しながらも、王太子は部屋を出て王宮内を彷徨い歩いた。
すれ違うのは使用人たちばかりで、母の姿も聖女の姿も――もちろん聖太子の姿も見かけることはない。
やはり杞憂だったか、と来た道を戻ろうとしたところで、母と聖女が中庭でお茶会をしているのに出くわした。
風に乗って、二人の話し声が聞こえてくる。
「娘希望。揃衣服。揃装飾。大憧憬」
「何の話をしている!?まさか、俺を王女に――」
咄嗟に怒鳴り込んだ王太子に向けられたのは、呆れたような母の視線だった。
聖女は何事もなかったかのように話す。
「女王陛下は娘も欲しかったとのことで、わたくしにお揃いのドレスを仕立てないかとお誘い下さったのです。アクセサリーもお揃いのものを、と。ずっと憧れていたそうです」
「な、なんだ!そうだったのか。俺はまたてっきり」
「我悲哀。即着席。良聖女。進展祈念」
「妙な勘違いをするなど、嘆かわしいこと。少しは落ち着いて、代わりに席に着いてお茶会を続けるのです。お前にはもったいないくらいの婚約者なのですから、もっと話す機会を持って、理解と仲を深めることを願っていますよ。と仰っています。恐縮です、女王陛下」
「え゛!それは、あの、いや――はい。承知しました」
席を立った母親の怒りを買うわけにもいかず、王太子は渋々といった表情で聖女の対面に着席した。
立ち去る女王陛下が見えなくなるまで礼を取ってから、聖女は新しく紅茶を淹れ始める。
せめて侍女か護衛でも居てくれれば良いのにと思っても、人払いされている中庭には誰も現れない。
王太子にとっては気まずいことこの上ない二人きりの時間が、しばらく続いた――。
「女王陛下の祖国では、上流階級の間で婚約破棄が流行しているそうです。どう思われますか」
「はっ?」
置かれた紅茶を、どうにか飲まずに済ませられないかと頭を悩ませていた王太子は、聖女の言葉に思わず顔を上げた。そして後悔した。
こちらを見つめていた彼女と思い切り目が合ってしまい、慌てて視線を逸らす。
たまたまそこにあった薔薇のアーチを白々しく凝視しながら、王太子はなんとか答えを返した。
「そ、それはけしからんな!婚約破棄なんて最低な行為が流行るなど、世も末だっ」
「王太子殿下は、わたくしとの婚約を破棄したいと思ったことはありませんか」
ヒュッと喉から出た音が、聖女の耳に届かなかったことを願う。
血のように赤い薔薇の花びらを、意味もなく一枚一枚数えながら、王太子は必死に考えをまとめた。
「あ、あるわけがないだろう!?王太子として、俺は聖女の貴様と結婚し、この国を治める王になる!それ以外にどんな選択肢があるというんだ!」
「例を挙げ」
「なくていいっ!そんなものはない、ないんだよ!仮に婚約破棄をしたところで、今より良くなることは絶対にない――腹を、くくるしかないんだ」
覚悟を決めたような発言とは裏腹に、王太子の声は震えていた。
ついにはその指先までもが震えだし、ティーカップの中の紅茶に波紋が広がるのを見て、聖女は頬に手を当て小首を傾げる。
「そろそろ風が冷たくなってきましたか。お茶会は室内に移動して続けませんか」
王太子はぎこちなく視線を戻し、聖女を真正面から見ないよう気をつけながら、微かに頷く。
そして立ち上がると、のろのろと片手を聖女に差し伸べた。
「エスコートしてやる。感謝するがいい」
「ありがとうございます。ですがご無理はなさらずとも」
「うるさい!早く手を出さないかっ」
王太子の脳裏には、夢の中で華麗なエスコートを見せていた聖太子の姿が浮かんでいた。
あの程度、俺には造作もないことだ。
そう自分で自分に言い聞かせ、全身に鳥肌が立つのをどうにか堪えながら聖女を待つ。
先程とは逆の角度に小首を傾げた聖女は、静かに席を立つと、そっと王太子の手を取った――指先が触れた瞬間、王太子の背中が緊張に強張る。
二人が一歩を踏み出した時、ふいに強い風が吹いた。
真っ赤な薔薇の花びらが、逃げるようにいくつも地面を転がって行く。
それらをつい目で追った王太子。
その時落ちた聖女の小さな呟きは、音を立てる風に攫われて――彼の耳に拾われることはなかった。
「わたくしが男性になる選択肢でも良かったのに」




