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「地味で役立たずの婚約者」と罵られ追放されましたが、私が守っていた聖盾の結界が消えた途端に王国が滅びかけているようです。今更泣きついてこられても、もう隣国の騎士団長様の婚約者なので助けてあげません

作者: アウラ
掲載日:2026/01/27

「リーゼロッテ・フォン・シュタインベルク。余は本日をもって、そなたとの婚約を破棄する」


シャンデリアの光が眩く降り注ぐ大広間に、エドワード殿下の声が高らかに響き渡った。


周囲から息を呑む音が聞こえる。何百という視線が、私に突き刺さった。


……ああ、やっと来た。


五年だ。五年間待ち続けた、この瞬間が。


「そなたのような地味で役立たずの女は、この国の王妃にはふさわしくない!」


殿下は金髪を煌めかせながら、勝ち誇った顔で私を見下ろしている。その傍らには、蜂蜜色の巻き毛を揺らす義妹セレナが、控えめを装いながら——目だけは笑っていない微笑みを浮かべて立っていた。


(いやぁ、本当に絵に描いたような断罪シーンだなぁ。脚本家誰だよ)


前世で読んだ悪役令嬢小説そのものの展開に、私は内心で感心すら覚えていた。


鈴木凛子、享年三十二歳。前世は都内の博物館で学芸員をしていた地味なアラサーOLだ。過労死して気づいたらこの世界の公爵令嬢に転生していたわけだけど——正直、この五年間は前世の残業地獄より辛かった。


「お姉様は昔から私のものを奪おうとなさるの……」


セレナが翡翠の瞳に涙を浮かべ、殿下の袖を掴む。


「領地の税収が上がったのも、本当は私が夜通し祈りを捧げたおかげなのに、お姉様が邪魔をして……」


……は?


私が三日三晩徹夜で帳簿と格闘し、前世の知識総動員で灌漑システム改良したあの成果が、お前の「祈り」のおかげ?


「なんと卑劣な!」


殿下が眉を吊り上げる。


「セレナは聖女の力で民を救おうとしていたのに、実の姉がそれを妨害していたとは!」


(いや、検証しろよ。少しは疑えよ。脳みそどこに置いてきたの?)


だけど私は、顔には一切出さない。伏し目がちに、ただ静かに立っている。


周囲の貴族たちがひそひそと囁き合う声が聞こえた。


「やはり地味公爵令嬢は……」

「聖女様がお可哀想に」

「身の程知らずめ」


——うん、知ってた。


この国の貴族社会なんて、こんなものだ。真実より噂、実力より見た目。五年間ずっと見てきたから、もう何の期待もしていない。


「リーゼロッテ! 何か申し開きはないのか!」


殿下が苛立たしげに叫ぶ。


私はゆっくりと顔を上げた。


「……いいえ、殿下」


静かに、淡々と。


「申し開きなど、ございません」


「ふん、やはり認めるか」


「ええ。ですから——」


私は腰に下げていた古びた盾に、そっと手を触れた。


代々シュタインベルク家の女子が受け継いできた、装飾品とも武具ともつかない小さな盾。錆びついて、誰もが価値のないガラクタだと思っていたもの。


でも私は知っている。


前世で古代遺物を専門に研究していた私には、この盾が何なのか——最初から分かっていた。


「では、この盾もお返しする必要はございませんね」


私の言葉に、一瞬、場が静まり返った。


「……盾? そんなガラクタがどうした」


殿下が鼻で笑う。


その瞬間——。


盾が、淡い光を放った。


同時に、王城全体が微かに震える。


「な、何だ……!?」


「地震か!? 何が起きている!」


悲鳴が上がる中、セレナの顔から血の気が引いていく。


「な、何……この光は……!?」


私だけが知っていた。


これは地震じゃない。


五年間、私が密かに維持し続けてきた王城の結界——いいえ、王国全土を覆う聖なる加護が、今、解除され始めたのだ。


「私が何をしていたか」


私は静かに微笑んだ。


「これからお分かりになるでしょう」


殿下は何が起きているのか理解できず、きょろきょろと周囲を見回している。


——ああ、すっきりした。


五年間、耐えて、耐えて、耐え続けた。


前世で過労死するまで働いて、転生先でも報われない努力を続けて。


もう十分だ。


もう十分頑張った。


私は踵を返し、大広間を後にする。


誰も、私を止められなかった。



◇ ◇ ◇



舞踏会場を出た私を待っていたのは、白髪交じりの栗色の髪を綺麗にまとめた女性——乳母のマルグリットだった。


「お嬢様」


彼女は私の顔を見て、全てを察したようだった。


「……ついに」


「ええ、マルグリット」


私は小さく頷いた。


「終わったわ。全部」


「お嬢様がどれほど耐えてこられたか、私は全て存じております」


マルグリットの茶色の瞳に、涙が滲んでいた。


「よく……よくぞご無事で……」


「泣かないで。これからが本番よ」


私は彼女の手を取り、歩き出した。


王城の廊下を進みながら、私は手の中の盾を見つめる。


古びた金属の表面に、今は淡い燐光が脈打っていた。まるで——そう、まるで心臓の鼓動のように。


『——やっと、解放してくれるのですね』


「……っ!」


頭の中に、声が響いた。


優しく、それでいて荘厳な女性の声。


『待っていました。真の巫女よ』


瞬間、私の頭の中に映像が流れ込んできた。


——古代の王国。聖なる盾を掲げる巫女たち。魔物の大群を退ける結界。そして、代々の巫女が命を削りながら守り続けてきた、この地の歴史。


(これが……聖盾の記憶……)


前世の知識では、断片的にしか分からなかった真実。それが今、鮮明に理解できた。


「盾の巫女」は、シュタインベルク家の女子にのみ受け継がれる血筋。


聖盾と契約できるのは、この血を引く者だけ。


そして私は——五年前、この盾に触れた瞬間から、無意識のうちに王国の結界を維持し続けていた。


魔物が国境を越えてこなかったのも。


疫病が蔓延しなかったのも。


豊作が続いたのも。


全部、全部——。


「私のおかげだったってわけね」


自嘲的な笑いが漏れた。


『貴女の献身は、盾が全て記録しています』


声が続ける。


『けれど、もう苦しまなくていいのです。貴女が望むなら——』


「ええ、分かってる」


私は盾を胸に抱いた。


「この国に、もう義理はない」


マルグリットが小さく息を呑む。


「お嬢様、まさか……」


「マルグリット」


私は振り返り、真っ直ぐに彼女を見つめた。


「私についてきてくれる?」


彼女は一瞬だけ目を見開き——それから、深く頭を下げた。


「どこまでも、お供いたします」


「ありがとう」


私は懐から一通の手紙を取り出した。


三年前から続けてきた、学術的な文通。古代遺物について、歴史について、互いの見識を交換し合った相手。


——隣国ローゼンクライツ王国の騎士団長、アルベルト・ヴァン・ローゼンクライツ。


最後の手紙には、こう書いてあった。


『貴女が決断する時が来たら、いつでも国境へ。私が必ず迎えに行く』


「行くわよ、マルグリット」


私は歩き出す。


「新しい人生を、始めに」


背後で、王城が再び揺れた。


結界が、音を立てて崩れ始めていた。



◇ ◇ ◇



国境に辿り着いたのは、三日後の明け方だった。


道中、馬車の窓から見えた光景は酷いものだった。


——街道に出没する小型の魔物。

——原因不明の病で倒れる家畜。

——井戸水が濁り始めた村。


五年間維持し続けた結界が消えただけで、これだ。


(まあ、私が支えてた分が一気になくなったんだから、当然よね)


少しだけ、胸が痛んだ。


民に罪はない。彼らは何も知らずに暮らしていただけだ。


でも——。


(私一人が犠牲になり続けるのが正解だったとは、思わない)


前世で過労死した時も思った。誰かが声を上げなければ、システムは変わらない。私が倒れて初めて、職場の労働環境は見直された——らしい。


この国も同じだ。


私がいなくなって初めて、気づくことがある。


気づいた時にはもう遅いかもしれないけれど、それは私の責任じゃない。


「お嬢様、国境の門が見えてまいりました」


マルグリットの声に、私は顔を上げた。


——そこには、漆黒の軍馬に跨った一人の騎士が立っていた。


黒髪に、深い紺碧の瞳。精悍な顔立ちに、鍛え抜かれた体躯。


「……アルベルト様」


私が呟くと、彼は馬を降り、真っ直ぐにこちらへ歩いてきた。


「リーゼロッテ嬢」


低く、落ち着いた声。


「約束通り、迎えに来た」


三年間、手紙でしか言葉を交わしたことがなかった。


会うのは、三年前の国際会議以来、二度目。


あの時、彼は私を見抜いた。


無能な婚約者の影で、必死に王国を支えている地味な令嬢の正体を。


『貴女は、隠れるには惜しい人だ』


あの時の言葉を、私は忘れていない。


「……ありがとうございます」


私は深く頭を下げた。


「ご迷惑をおかけします」


「迷惑?」


彼は——初めて、口元を緩めた。


「貴女の価値が分からぬ者など、放っておけばいい」


その言葉に、不意に視界が滲んだ。


……泣くな。泣くな、私。


五年間、誰にも認められなかった。


父にも、義母にも、婚約者にも。


努力は全て無視され、功績は奪われ、存在を否定され続けた。


それでも耐えてこられたのは——。


『貴女の論文、拝読しました。実に興味深い考察です』


『この遺物についての貴女の見解を聞かせてください』


『貴女と語り合う時間が、私の数少ない楽しみです』


——三年間、変わらず私を「対等な知性」として扱ってくれた、この人がいたから。


「団長! 追手が来ますよ!」


背後から駆けてきた赤毛の青年騎士——副官のクラウスが叫んだ。


「王国の騎士団、かなりの数です!」


振り返ると、砂塵を上げて近づいてくる一団が見えた。


先頭には——金色の髪を靡かせた、一人の男。


「リーゼロッテェェェ!!」


エドワード殿下の絶叫が響く。


「待て! 逃げるな! 戻ってこい!」


アルベルト様が、静かに私の前に立った。


「リーゼロッテ嬢」


「はい」


「私の後ろに」


言われるまでもなく、私は彼の背に庇われる位置に移動した。


その背中は——広くて、温かくて。


五年間、誰にも守ってもらえなかった私を、今、この人が守ろうとしてくれている。


「リーゼロッテ!」


馬を止めたエドワード殿下が、血走った目で叫んだ。


「国に戻れ! お前がいないと、結界が……!」


「今更気づいたんですね」


私は静かに言った。


「五年間、ずっと維持し続けていたのに。『ガラクタ』と仰っていた盾の力を」


「そ、それは……!」


「『地味で役立たず』だったんでしょう?」


私は微笑んだ。


穏やかに、でも確実に——突き刺さる言葉を選んで。


「役立たずなら、いなくても困らないはずですよね」


「っ……!」


殿下の顔が蒼白になる。


「頼む……戻ってきてくれ……!」


「お断りします」


きっぱりと。


一切の迷いなく。


「もう遅いんですよ、殿下」


アルベルト様が、冷たい声で告げた。


「我が国の賓客に、何かご用ですか?」


「賓客だと……!?」


「ええ。リーゼロッテ嬢は、正式にローゼンクライツ王国の保護下に入られました」


彼の背後から、隣国の騎士団が隊列を組んで現れる。


その数、優に百を超える。


「こ、これは宣戦布告か……!」


「まさか」


アルベルト様は鼻で笑った。


「自国の民を虐げ、追い出しておいて、他国に保護されたら『宣戦布告』? 随分と都合の良い論理ですね」


「ぐ……っ」


殿下が言葉に詰まる。


「お引き取りください、王太子殿下」


アルベルト様の声が、戦場で鍛えた威厳を帯びた。


「これ以上は、我が国への侵犯と見做します」


「くそっ……!」


殿下が唇を噛み締める。


その目には、怒りと——僅かな後悔が滲んでいた。


(遅いよ、殿下)


私は心の中で呟いた。


(五年前に気づいていれば、こうはならなかったのに)


「……覚えていろ」


捨て台詞を残し、殿下は踵を返した。


砂塵の中に消えていくその背中を見ながら、私は深く息を吐いた。


「リーゼロッテ嬢」


アルベルト様が振り返る。


「我が国へようこそ」


彼が差し出した手を、私は取った。


大きくて、温かい手だった。


「……ありがとうございます」


「礼には及ばない」


彼は——本当に、優しく微笑んだ。


「貴女が望むなら、この剣は永遠に貴女の盾となろう」


……ずるい。


そんなこと言われたら、泣いてしまうじゃない。


「団長!」


空気を読まないクラウスが割り込んできた。


「団長があんなに笑うの初めて見ましたよ! え、何ですかその顔! 照れてます!?」


「クラウス」


「はい!」


「後で腕立て千回な」


「えええええ!?」


騎士団から笑い声が上がる。


私も、思わず笑ってしまった。


——ああ、そうか。


これが、普通の生活なんだ。


笑って、冗談を言って、守られて。


五年間忘れていた感覚が、少しずつ蘇ってくる。


手の中の盾が、ぽう、と温かく光った。


祝福するように。


「さあ、参りましょう」


アルベルト様が、私の手を引いた。


「貴女の新しい居場所へ」



◇ ◇ ◇



リーゼロッテが国境を越えてから、一週間が経った。


王都アストリアは、混乱の極みにあった。


——魔物の襲撃が相次ぎ、近郊の村が三つ壊滅。

——謎の疫病が蔓延し、死者は日に日に増加。

——作物は枯れ、井戸は涸れ、民衆の不満は爆発寸前。


「なぜだ……! なぜこんなことに……!」


エドワードは玉座の前で、頭を抱えていた。


「殿下、民が王城に押し寄せております!」


「聖女様に祈っていただければ……!」


「そうだ!」


エドワードは顔を上げた。


「セレナだ! セレナの祈りがあれば、きっと……!」





王城の大広間に、民衆が集められた。


中央には、純白のドレスを纏ったセレナが立っている。


「皆様、ご安心ください」


セレナは『聖女』らしい微笑みを浮かべた。


「私の祈りが、必ずや災厄を払いましょう」


民衆から期待の声が上がる。


「聖女様……!」


「お願いします……!」


セレナは目を閉じ、両手を胸の前で組んだ。


(大丈夫、大丈夫よ……)


彼女は心の中で呟いた。


(今まで通り、祈るふりをすれば……。姉様がいなくなった今、私が本物の聖女として認められるはず……!)


「天よ……この地に平穏を……」


セレナが祈りの言葉を唱える。


一秒。


五秒。


十秒。


——何も、起きない。


「……聖女様?」


民衆の間に、ざわめきが広がる。


「なぜ、何も……」


「おかしい、今まではすぐに光が……」


(え……? なんで……?)


セレナの額に、冷や汗が浮かんだ。


今まで、彼女が『祈り』を捧げた後は、必ず何かしらの効果があった。


作物が実り、病人が癒え、魔物が退いた。


だから、皆がセレナを『聖女』と呼んだ。


でも——。


(まさか、あれ全部……姉様の……?)


今になって、セレナは気づいた。


自分には、最初から何の力もなかったことに。


全ては、姉が陰で結界を維持していたから。


自分の『祈り』に効果があったように見えたのは、ただのタイミングの問題だったのだ。


「聖女様、なぜ何も起きないのですか!」


民衆の声が、詰問に変わる。


「待って、待ってください、これは……!」


「もしかして、今までのも全部嘘だったのか!?」


「姉のリーゼロッテ嬢が全部やっていたんじゃないのか!?」


「嘘よ!」


セレナは叫んだ。


「私は聖女なのよ! 姉様なんかに、そんな力あるわけ——」


「証拠がある」


凛とした声が、広間に響いた。


振り返ると、入口に一人の女性が立っていた。


白髪交じりの栗色の髪。質素だが清潔感のある使用人服。


——マルグリット。


リーゼロッテの乳母だった女だ。


「な、なぜお前がここに……!」


「お嬢様の名誉のために、証言しに参りました」


マルグリットは、一歩一歩、広間の中央へ進んだ。


「お嬢様が——リーゼロッテ様がどれほど耐えてこられたか。どれほどこの国のために尽くされたか。私は全て存じております」


彼女の手には、分厚い帳簿の束があった。


「領地経営の記録です。全てお嬢様が管理されていました。セレナ嬢は、署名すらなさっていません」


「そ、それは……!」


「こちらは、結界の維持記録。お嬢様が毎夜、聖盾に祈りを捧げていた証拠です」


「嘘よ! 全部嘘!」


セレナの目が血走る。


「お前なんか、ただの使用人じゃない! 誰がそんな証言を信じるのよ!」


「私が信じます」


新たな声。


今度は、大臣の一人だった。


「私も以前から不審に思っておりました。セレナ嬢の功績とされるものに、実態がなさすぎると」


「私もです」


「私も」


次々と、声が上がる。


「なっ……!」


セレナの顔から、完全に血の気が引いた。


「殿下! 殿下、助けて!」


彼女はエドワードに縋りついた。


「私を信じてくださるわよね!? 私は聖女で、姉様に虐められていた可哀想な妹で——」


「……セレナ」


エドワードの目は、虚ろだった。


「余は、ずっと騙されていたのか」


「違うの! 違うのよ、殿下!」


「触るな」


冷たく、突き放す声。


「お前のせいで、余はリーゼロッテを失った。この国を守る聖盾を失った」


「そんな……!」


「詐欺罪で投獄しろ」


エドワードは背を向けた。


「嫌ああああああ!!」


セレナの絶叫が、広間に響き渡った。


「私は聖女なのよ! 聖女なの! こんなの嘘よ! 嘘!」


兵士たちに引きずられていく彼女を、誰も助けようとしなかった。


——因果応報。


その言葉が、広間の誰もの胸に浮かんでいた。



◇ ◇ ◇



ローゼンクライツ王国、王都フリューゲル。


私は、美しい庭園を眺めながら紅茶を飲んでいた。


隣国に来て、一ヶ月が経つ。


「リーゼロッテ嬢」


アルベルト様が、執務室から顔を出した。


「アストリア王国から使者が来ている」


「……そうですか」


予想はしていた。


あの国が、もう限界だということは。


「会うか?」


「ええ」


私は立ち上がった。


「最後のけじめをつけましょう」





謁見の間に通されたのは——。


「リーゼロッテ……」


エドワード殿下、その人だった。


一ヶ月前とは、見違えるほど憔悴している。


金色の髪は乱れ、目の下には濃い隈。華やかだった衣装は埃にまみれ、王族としての威厳は影も形もない。


「……久しぶりですね、殿下」


私は静かに言った。


「随分とやつれたようで」


「頼む」


殿下が、膝をついた。


「戻ってきてくれ……!」


「……は?」


「お前がいないと、国が持たないんだ……! 魔物は増え続け、疫病は止まらず、民は飢えている……!」


殿下の声は、完全に懇願のそれだった。


「お前の功績は認める……! セレナに騙されていた……! 全て、余が悪かった……!」


(ふうん)


私は内心で冷めた目を向けた。


(追い詰められたら、やっと認めるんだ。五年間、何度訴えても聞いてくれなかったのに)


「だから……だから戻ってきてくれ……!」


殿下が、床に額をつけた。


王太子が、土下座している。


一ヶ月前なら、想像もできなかった光景だ。


「……殿下」


私は静かに言った。


「一つ、聞いてもいいですか?」


「な、何でも答える……!」


「あの舞踏会の夜」


私は微笑んだ。


「私を『地味で役立たず』と罵った時、殿下は何を思っていましたか?」


「それは……」


「五年間、私がどれだけ努力しても、殿下は一度も認めてくださらなかった」


「……」


「セレナの嘘を、何の疑いもなく信じた。私の言葉には、一度も耳を傾けなかった」


「余は……余は愚かだった……!」


「ええ、そうですね」


きっぱりと。


「愚かでした」


殿下が顔を歪める。


「でも、もう遅いんですよ」


私はそう言って、左手を差し出した。


そこには——銀色に輝く指輪。


「私はもう、隣国の騎士団長の婚約者ですので」


「な……っ!」


殿下の顔が、絶望に染まる。


「婚約者……だと……?」


「ええ」


アルベルト様が、私の傍らに立った。


「正式に婚約いたしました。来月には、結婚式を挙げる予定です」


「そんな……そんな馬鹿な……!」


「何がおかしいのですか?」


私は首を傾げた。


「殿下が婚約を破棄なさったのでしょう? 私は自由の身になったんです。誰と婚約しようと、殿下には関係ありませんよね?」


「っ……!」


反論できないのか、殿下は唇を噛み締めた。


「アストリア王国がどうなろうと、もう私には関係ありません」


冷たく、でも穏やかに。


「ご自分の国は、ご自分でお守りください」


「待ってくれ……! 頼む……!」


「お引き取りを」


アルベルト様が、私の肩を抱いた。


「これ以上の面会は、私の婚約者が望んでおりません」


「くっ……!」


殿下は、拳を震わせた。


「……覚えておけ、リーゼロッテ」


「何をですか?」


「余は……余はまだ諦めていないからな……!」


「……そうですか」


私は肩を竦めた。


「お好きにどうぞ。ただし——」


聖盾が、腰元で光を放つ。


「この盾は、もう二度とアストリア王国を守りません」


殿下の顔が、完全に蒼白になった。


「さようなら、殿下」


私は背を向けた。


「もう二度と、お会いすることはないでしょう」





謁見の間を出ると、アルベルト様が私の手を取った。


「よく言った」


「……ありがとうございます」


私は——ようやく、深く息を吐いた。


「これで、本当に終わりですね」


「ああ」


アルベルト様が、私の手に口づけた。


「もう、貴女を傷つける者はいない」


その瞬間——。


聖盾が、まばゆい祝福の光を放った。


「わあ……」


光の中で、私は彼を見上げた。


「盾が、祝福してくれているみたいです」


「そうだな」


彼は、優しく微笑んだ。


「貴女が幸せになることを、盾も望んでいるのだろう」


五年間、誰にも認められなかった。


努力は奪われ、存在は否定され、心は踏みにじられた。


でも——。


「アルベルト様」


「何だ?」


「私、幸せです」


涙が頬を伝った。


「やっと、幸せになれます」


彼は何も言わず、私を抱きしめた。


強く、優しく、温かく。


——これが、私の新しい人生。


五年間の我慢の果てに、ようやく掴んだ幸せ。


「リーゼロッテ」


彼が、私の名を呼ぶ。


「これからは、私が貴女を守る。永遠に」


「……はい」


私は彼の胸に顔を埋めた。


「よろしくお願いします——アルベルト」


初めて、敬称なしで呼んだ。


彼の腕に、少しだけ力がこもった。



◇ ◇ ◇



——三年後。


アストリア王国は、見る影もなく衰退していた。


魔物の脅威に晒され続け、国土の三分の一を失った。


疫病と飢饉で人口は激減し、かつての栄華は完全に過去のものとなった。


エドワードは廃太子となり、全ての称号を剥奪されて辺境へ追放された。


最後まで『余は悪くない』と叫んでいたという。


セレナは詐欺罪で投獄され、獄中で精神を病んだ。


『私は聖女なのに』と、今でも繰り返し呟いているらしい。


フリードリヒ公爵は、領地の没落と共に全てを失った。


娘が全てを支えていたと知った時には、全てが手遅れだった。


『リーゼロッテ、すまなかった』——その言葉は、ついに届くことはなかった。





ローゼンクライツ王国、王都フリューゲル。


「リーゼロッテ様、こちらの書類にご署名を」


「はい、ありがとうございます」


私は微笑みながら、騎士団運営の書類に目を通した。


アルベルトとの結婚後、私は『盾の聖女』として王国の守護を担っている。


聖盾の力で結界を張り、民を守り、国を繁栄させる。


かつてアストリア王国でやっていたことと同じ——でも、今は違う。


「お疲れ様」


アルベルトが、執務室に入ってきた。


「そろそろ休憩しないか」


「あら、もうそんな時間?」


「ああ。お前は働きすぎだ」


彼は呆れたように笑い、私の肩を揉んでくれた。


「……ふふ」


「何がおかしい」


「だって」


私は振り返り、彼を見上げた。


「前は、どれだけ働いても誰も気にしてくれなかったから」


「……」


アルベルトの表情が、少し曇る。


「もう、あの頃の話はしなくていい」


「いいえ」


私は首を横に振った。


「覚えておきたいの。あの五年間があったから、今の幸せがあるって」


「リーゼロッテ……」


「それに——」


私は彼の手を取り、自分のお腹に当てた。


「この子にも、いつか話してあげたいから」


「……!」


アルベルトの目が、大きく見開かれる。


「まさか……」


「ええ」


私は微笑んだ。


「三ヶ月です」


「っ……!」


彼は——生まれて初めて見るほど狼狽えた顔で、私を抱きしめた。


「本当か……! 本当なのか……!」


「本当ですよ、旦那様」


「っ……ありがとう……!」


彼の声が、震えていた。


「リーゼロッテ、ありがとう……!」


「こちらこそ」


私も彼を抱きしめ返した。


「幸せにしてくれて、ありがとう」


窓の外では、陽光が美しく差し込んでいた。


聖盾が、祝福の光を放つ。


穏やかで、温かい光。


——これが私の、新しい人生。


五年間の苦難を乗り越えて、ようやく辿り着いた場所。


もう、誰にも奪われない。


もう、誰にも傷つけられない。


愛する人と、生まれてくる子供と、私を慕ってくれる人々と。


——永遠に、幸せに。


「旦那様」


「何だ」


「愛しています」


「……俺もだ」


彼の腕の中で、私は目を閉じた。


前世で過労死した時、こんな未来が待っているなんて思わなかった。


報われない努力を続けて、疲れ果てて、全部諦めかけていた。


でも——。


(もう一度、頑張ってよかった)


心からそう思えた。


聖盾が、最後にもう一度、優しく光った。


『おめでとう、盾の巫女よ』


その声を聞きながら、私は穏やかな眠りに落ちていった。



——こうして、地味な公爵令嬢は。


愚かな王太子に捨てられ、陰謀に巻き込まれ、国を追われ。


その果てに、真の幸せを掴んだのだった。


めでたし、めでたし。

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