拝み屋オボロの別条:濡れ縁の影
「ここ最近、毎晩足音がするんです。誰もいないはずなのに……」
そう言って相談してきたのは、真斗の同級生の祖母だった。
話を聞いた時点で、真斗はなんとなく“あの人”の顔を思い浮かべていた。
案の定、その日の夕暮れ、古びた家の縁側にオボロは座っていた。
どこから入ったのかは誰も知らない。
気づけばそこにいる。
それが拝み屋、結環朧月──通称、オボロだった。
「……また祀り忘れですか?」
真斗が問いかけると、オボロはぴくりとも動かず、ただ笑った。
「祟りじゃない。
けれど、“忘れられた”ってのは、時によう似た顔を見せるんですわ」
縁側の板は、濡れていた。
誰かが歩いたような、ぽつぽつとした痕。
けれど雨は降っていない。
家の者は皆、外に出ていないという。
「この家のご先祖さんのひとり、毎晩縁側に水を撒いてたそうですな。
夏でも冬でも、欠かさず。水を撒いて、静かに手を合わせてから、部屋に戻るんやと」
「そういう話……聞いたことあります」
「けど、今はもう誰もやってへん。
水を撒くことも、手を合わせることも。
“そういう祀りがあった”ことすら、忘れられてもうた」
そう言いながら、オボロは懐から白い布に包まれた器を取り出した。
中には、澄んだ水。
そこへそっと指を差し入れ、祈るように、けれどどこか雑談でもしているような声で呟いた。
「“忘れられた”ってことは、“もうない”ってことやない。
思い出せば、また繋がる。
その結び目がほころばんように、ちょっと縫い直すだけ」
水を縁側に撒く。
静かに、音もなく、ただ一筋。
それだけで、あの濡れた足音は止まった。
「祓うんじゃない、整えるだけです」
ぽつりと、オボロが言う。
真斗はその横顔を見ながら、ふと、遠くから聞こえるような拍手の音を聞いた気がした。
風もないのに、木の葉が揺れていた。
“そこにいたはずの誰か”が、ようやく部屋に戻ったのだろう。