8.悪役令嬢、母国を旅立つ(下)
一度だけ、ユリウスが微笑みかけてくれたことがある。魔女戦争が終わった年の、彼の誕生日だ。
私はユリウスに小さな手作りのクリームケーキを振舞った。当時はセシルが召喚されて数ヶ月前が経った頃で、ユリウスの気を引こうと必死だった。
今まで料理などしたことがなかった私は何度も練習して、ようやく見栄えのよいものが完成すると、それを彼の自室へと持っていった。
拒まれるだろう、と悲観しながら。
だが、どういったわけか、ユリウスは怪訝な顔をしつつもケーキを食べてくれた。
「美味い」
果実の乗ったケーキの欠片を飲み込んだユリウスが、口角を緩めてそう言った。夢だと思って頬を抓ったけれど、夢じゃなかった。
そのとき、私は胸がきゅっと痛くなるのを感じた。
人生の中で一番幸せな日だった。甘くて、優しくて、初めてユリウスの温もりを感じられた日。
当時の私は知らなかったけれど、あの時のユリウスは既にセシルの催眠にかかっていたはず。
なのに、どうして──。
「──ゼ。マリーゼ・ジルベール」
突如、微睡みの中に鮮明な声が響き、ハッと瞼を持ち上げる。すると、こちらを覗き込む翠玉の瞳と目が合った。
「ぎゃあっ! ヘンタイ!」
私は思わず情けない声を上げて、シーツをかき寄せて壁際に退く。
すると、私を覗き込んでいた男──クレオードが目を見張り、ため息を零す。
「なんだ、その反応は。ノックしても起きないから、寝坊助を起こしに来てあげたのに」
「起こしにって……えっ、もう朝!?」
「そうだ」
やれやれと首を振るクレオードに、今度は私が驚く番だった。
王宮にいる時はいつも早起きをして、念入りに身支度を整えていた。誰かに起こしてもらうまで起きられないなんてのは初めてだ。
クレオードが部屋のカーテンを開くと、窓の外から太陽の光が差す。窓の外に視線を向けると、アクアブルーの空がきらきらと輝いているのが見えた。
「そろそろ準備した方がいい。あと半刻もすればエメラルド国に着く」
「そうなのね……ごめんなさい、起こしに来てくれたのに」
起こしに来てくれた優しい彼を"ヘンタイ"という不名誉な名で呼んでしまったことを反省する。
ユリウスの婚約者でありながら、彼と同じ部屋で夜を共にしたことはなく、こういったことには慣れていないのだ。
私がしゅんと項垂れると、クレオードは「いいよ」と小さな笑った。
身なりを整える間に半刻はすぐに過ぎていき、船はエメラルド国の海岸へと辿り着いた。
ガレージに立つと、その風土がよく見える。
エメラルド国はサファイア国と違って、自然豊かだ。遠くの方に高い山々や木々がそびえ立ち、全体的に緑がよく映えている。
この国の空気はどこか優しい。息を吸うだけで、少しずつ心の澱が溶けていくようだった。
「悪いが、俺にとってはサファイア国よりも素晴らしい国だよ。きっと君も気に入る」
景色を眺める私に、クレオードが自慢げに言った。自国のことが大好きで、誇りを持っているのだろう。
船が停止してからは忙しなかった。初めて訪れた国に感慨を覚える余裕すらない。
港で船から降りた途端、クレオードはなにやら険しい顔をした側近に出迎えられ、「陛下がお待ちです」と近くに用意されていた馬車に押し込まれたのだ。
私が呆然と突っ立っていると、馬車の中からクレオードに引っ張られて相乗りすることになった。行く宛てもないので、私は大人しく彼に着いていくことにする。
馬車が出立すると、向かいに座ったクレオードの側近が眉を釣り上げて捲し立てる。
「殿下! なぜ戻ってこなかったんですか!? 帰国予定は七日前ですよね? 聖女がどうやら、こうやらと言い訳してたみたいですけど、王太子としての自覚はあるんですか!?」
「フィンクス、悪い。今回も迷惑をかけちゃって。でもまあ、そう怒るなよ。後で全部説明するから。こっちにも事情があったんだ」
「また言い訳ですか! 僕は心配してたんですから……!」
「悪かったって。俺はいい側近を持ったなあ……」
「もう、そう言えば僕が折れると思ってるんでしょう!」
側近──フィンクスはかなりご立腹な様子だ。亜麻色のくせっ毛をした可愛らしい顔立ちに似合わず、顔は怒りに染まっている。
「それで、このお嬢さんはどなたです? 噂の聖女ですか? 僕は聞いてませんけどね!」
今度は、フィンクスの視線が私に向けられる。
上から下まで値踏みするような眼差しは失礼な気がするが、主人が勝手に帰国を遅らせた挙句、得体の知れない女を連れて帰ってきたのだから、腹を立てても仕方ないだろう。
「あーいや、この方は俺の恩人なんだ。王宮でもてなしたい」
「恩人って、何かあったんですか?」
「まあ、色々」
「はあ……殿下はいつもはぐらかして……」
笑って誤魔化すクレオードに、フィンクスは胡乱な眼差しを向ける。
殿下、ナイスアシストよ。
私は居場所作りを始めなければならない。ひとまず宮殿に招いてくれるというのならば、こちらとしても助かる話だ。