7.悪役令嬢、母国を旅立つ(上)
「お嬢様、お手をどうぞ」
「ありがとう」
私はクレオードに手を取られ、傍に停めてあったエメラルド国の客船に乗り込む。
船の中には、船長と乗組員が数名待機していた。私の存在に皆驚いていたが、クレオードが「俺の客だ」と一言説明すると、すぐに歓迎してくれた。
やがて、船が出航し、夜の海を掻き分けていく。翌朝にはエメラルド国に到着するらしい。
私はえも言われぬ解放感を覚えながら、デッキの手すりに凭れて、遠ざかっていくサファイア国の灯りを見つめる。
あの国は息苦しかった。辛い過去を思えば、未練などない。
家族の私を見る目が変わったのと同じように、私の家族への愛も薄れていった。彼らのせいではないと分かっていても、どうしようもないのだ。
ふと、隣に並んで海を眺めていたクレオードが、「そういえば……」と口を開く。
「君、王宮にいた頃とは随分と印象が違うな。いつもむくれた表情をしていたから、怖い女だと思っていた。催眠にかかっていたときは、君のことは憎い敵にしか見えなかったし」
クレオードはそう言って、意外そうな表情を浮かべた。
むくれた表情だったのは、王太子の婚約者として常に気を張っていたのと、セシルのせいだ。
今世の過去と、前世で何度も目にした推しの悲しげな表情を思い出して、私は無意識に当時と同じ表情になる。
「本当はわたくしだって笑えるわよ」
「じゃあ、笑ってみせてくれよ」
不貞腐れて言った私に、クレオードはにやりと笑う。
なにがそんなに楽しいのよ。いいわ、渾身の笑いを見せてあげる。
私はコホンッと咳払いをした後、手を口元に添えて、声を上げる。
「おーほっほっほっ!」
すると、クレオードは堪えかねたように「ぷふっ」と吹き出した。
「なんだそれ、顔が怖いぞ……恐ろしい高笑いじゃないか」
「あ、あなたが見せてみろって言ったんじゃない……!」
「ちょっとからかっただけだよ。さっきまでは自然に笑えてたのに、今のはなんだ……ふふっ……」
私が怒ると、腹を抱えていたクレオードは目尻を指でなぞって「ああ、おかしい……」と呟く。
過去の自分に訂正を入れるわ。
薔薇恋をプレイしていたときは、クレオードは余裕のある素敵な大人だと思っていたけど、それは一面にすぎない。本当はよく笑い、意地悪に人をからかってくるちょっと厄介な男だ。
「……まあいいわ。しばらくはあなたに助けてもらうつもりだから、私の笑顔を見る機会だっていくらでもあるでしょう。光栄に思いなさい」
私は拗ねるのをやめて、改めてクレオードに告げる。仲良くなれたのはいいことだ。
この先、この男には色々と助けてもらうつもりなのだから。
「はいはい。一応、俺は王太子なんだけどな」
クレオードはまたくすりと笑う。
船から見えるサファイア国は、もう随分小さくなってしまっていた。宮殿はまだ明かりが点っている。
沈黙の後、クレオードは海を眺めたまま問う。
「名残り惜しくはないのか?」
「ないわ。覚えてるのは辛い記憶だけだもの」
笑って言ったつもりだったのに、胸の奥が少しだけちくりと痛む。
クレオードは、ただ静かに「そうか」とだけ呟いた。
気がつけばもう深夜だ。様々な疲れもあって、あくびが口をつく。
船内には客室がいくつか備え付けられており、私はそのうちの一室に案内された。
「朝になれば起こしてやろう」というクレオードの言葉を信じて、私はふかふかのベッドに横になり、目を閉じる。
今日一日で、マリーゼ・ジルベールとしての人生が一転した。本来ならば、追放されて物語から退場し、あとは没落の一途を辿るのみだった。
けれど、前世を思い出してこの世界の仕組みを知った以上、そうはならない。そうはさせない。
薔薇恋には存在しなかった悪役令嬢マリーゼのアフターストーリーが幕を開けたのだ。