5.悪役令嬢、契約する(上)
「クレオード殿下! 待って!」
私はクレオードに追いつくと、彼の背に向かって声をかける。
彼の目の前に停まってあるのが、エメラルド国の客船だろう。他の船とは違い、素材や色味に気を使い、豪華な装飾が施されてある。
「誰だ?」
クレオードはビクリと肩を揺らして、怪訝そうな声を上げながら振り返る。
そして、こちらを認めると僅かに眉を上げた。
「突然呼び止めてしまってごめんなさい」
「君はさっきの……」
「わたくしはマリーゼ・ジルベール」
「ああ、そうだった。あの断罪は散々だったな。君が颯爽と去っていって、ユリウス殿はすごい顔してたよ」
クレオードは苦笑して、「それで、俺に何か?」と訊いてくる。
あれ、おかしい。私に対する憎しみがないわ。
クレオードは心ここに在らずな様子で、声色と表情は硬いが、私に対して嫌悪を示しているわけではない。通常の彼──催眠中の彼ならば、蔑んだ目で「俺の視界に入るな」くらい言ってくるのに。
不思議に思い、クレオードの翠玉の目元に視線を向け、ハッと息を飲む。瞳孔に白薔薇の花紋がない。
セシルの催眠魔法にかかった者の共通点は三つある。
一つ、セシルに対して好意を抱くこと(攻略対象者は恋愛的な意味で)。
二つ、私に対して悪意を抱くこと。
三つ、瞳孔に薔薇の花紋が浮かび上がること。
一つ目は分からないが、今のクレオードは二つ目と三つ目の条件には当てはまらない。
つまり、催眠は既に解けている……!?
「あなた、すごいわね……? 自力でセシルの催眠を解くなんて」
驚いて、話す声が一際高くなる。私が解除を試みるまでもないというわけだ。どうしてかしら。
私が知っている催眠魔法を解く方法は大きく分けて三つ。薔薇恋の魔法辞典に記載されていたものだ。
一つ目、本人が催眠魔法から抜け出そうと強く願った場合。これは、魔法にかけられたことを自覚しなければならないため、難易度は高い。
二つ目、外部から自我への強い干渉があった場合。私が試そうとしていたのはこれ。私はゲームを通して、クレオードのあんなことやこんなことまで知っているから、いくらか衝撃を与えられると考えた。ほとんど賭けだったけれど。
三つ目、解除魔法を使った場合。これが最も難しい選択肢。解除魔法を所持している人間は世界でほんの数人しか生まれないから、探すのが大変なのだ。
クレオードはどうやったのだろう……と考え込む私に、彼はぐっと眉根を寄せて聞いてくる。
「君、あの聖女の能力を知っているのか?」
「もちろんよ。セシルは治癒魔法の他に、催眠魔法を使えるの」
「催眠魔法だと? クソッ、王太子ともあろう者が卑劣な魔法にしてやられるなんて……!」
クレオードは悔しげにぐっと拳を握りしめる。
こんなことを言うなんて、本当に催眠は解けてるみたい。確認のために、私はクレオードに意地悪な質問をしてみる。
「あなた、ついこの間までセシルにご執心だったようだけれど、今は違うの?」
「なんの感情もないさ。偶然、倒れていた聖女を助けて……少し会話をした後、突然頭が霞がかったようになった。それからは、彼女のことしか考えられなくなって……」
クレオードは暗くなった地面を見つめて、サファイア国に来てからの経緯を吐露する。
それを黙って聞いていると、クレオードは突然顔を持ち上げて神妙な顔で私を見つめる。
「そうだ。突然、君のことも無性に腹立たしくなったんだ。聖女を虐める悪女だとずっと思い込んでいた」
「……彼女の催眠魔法はそういう能力なのよ」
話すうちに、今世での辛い過去を、そして、薔薇恋での推しの悲しむ表情を思い出してしまう。
突然向けられるようになった嫌悪と憎悪の眼差しに、どれだけ心を抉られたことか。
催眠中の自分の言動を思い出したのか、クレオードは頭を抱えて深く嘆く。
「最悪だ……父上を押し切って外交期間も伸ばしたし、聖女を婚約者にするという宣言まで……!」
薔薇恋では常に余裕げだった彼の動揺する姿は新鮮だ。
私の読みは当たりだわ。クレオードはプライドを傷つけられて怒っている。
苛立つクレオードの様子に、心の中でほくそ笑む。
「その顔、セシルに操られていたのが余程屈辱だったみたいね」
「屈辱に決まってる! ただの聖女に洗脳された挙句、捨てられたなんてこんな屈辱あってたまるか。それにあの女……俺をとんだ変態野郎に仕立てあげて、非難してきたんだぞ!?」
「まあ、ひどい」
クレオードが言っているのは、ユリウスルートの途中で発生するイベントのことだろう。
半ばヤンデレ化したクレオードからの執着が激しくなり──というか、もはやストーカー扱いされて、セシルはユリウスに頼んでクレオードを遠ざけてもらう……という内容だ。
無理やり好きにさせられたのに、当て馬として雑に追い払われるというのは、なんだか可哀想である。
私はクレオードに詰め寄り、口角を上げて囁く。
「ねえ、彼女に復讐したいと思わない?」
「復讐だと?」
「ええ。わたくしも冤罪に追放された身として、彼女に恨みがあるの。さっきの王宮での話なんて全て冤罪だわ。催眠の解けたあなたなら分かるでしょ?」
「君も聖女にしてやられたというわけか……冷静になった今ならその話も嘘じゃないと思えるな」
クレオードはそう言って私をじっと見つめる。
そして、私の背後に見える王宮に目をやり、低い声で零す。
「復讐とまではいかないが、一泡吹かせてやりたい。俺と同じ分の屈辱を味わってもらわないと」
よし、本音を引き出せた。今がチャンスだ。
「殿下、わたくしと契約しましょう」
「契約?」
「そうよ。その船で、わたくしをあなたの国へ連れて行ってちょうだい」
私は停泊するエメラルド国の船を指差して言う。
「その代わりに、なんでもあなたに協力するわ。セシルを一緒にぎゃふんと言わせてやりましょ! わたくしにいい考えがあるの」
悔しげに顔を歪めるセシルを想像し、私は目を細めた。