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【2022年 冬見功介 26歳】

 先日、瀬戸内海の島を巡った時に描いた絵を仕上げていた。いつもと変わらぬ雨の絵。功介は筆を置いて溜息を吐いた。

 床に落ちたイーゼルの影の角度が変化した頃、アトリエのドアが躊躇いがちに開いた。

「ああ、良かった。休憩中でしたか」

 勝手知っているようで、東田久美は功介の方へ歩いてきた。そして前に置かれた絵を見つめてきた。

「この前の家島ですか?」

「ええ」

「いいですね」

 功介の胸の奥がチリッと痛んだ。

「冬見さん、雑誌の絵の仕事が入りました」

「ああ」

「それで……、出来れば、出来ればですよ……、その……、雨、以外の絵を描いてくれたら、有り難いと……。いえ、もちろん無理ならいつもので良いと先方も……」

 久美にこう言われるだろうと思っていた。先程自分の絵を褒めた時の声音で、功介は感じ取っていたのだ。

「俺の絵は、マンネリって事ですかね?」

 久美の顔が青ざめ、慌てたように反論してきた。

「そんな事はありません。コウの、あっすいません、冬見さんの絵は相変わらず人気です。ただ、冬見さんの新しい一面を、最初に雑誌で取り上げたいみたいで……」

 久美に気を遣われ、心臓が握り潰されるような苦しみに襲われた。

「東田さん、大丈夫、分かってますから。どんな絵も雨にしてしまうって言われてる事くらい」

 突発的に功介は絵筆を握り、原色の黄色の絵の具を取った。

「こうなったら、これから描く絵には全部雷を描き入れましょうか。次は“雷の画家”って言われちゃうのかな。ハハッ」

「やめてください!」

 そう叫ぶと久美が功介と絵の間に入ってきた。

「いいじゃないですか。こんな絵、何枚でも描けるんですから」

「冬見さん、怒りますよ」

 久美の目は吊り上がっていて、既に怒っていた。普段はやり過ぎたと矛を納めるのだが、この日の功介は尋常ではなく、自分でもどうしようも出来なかった。

「東田さんも、こんな凋落しかけている男のマネージメントなんて止めた方が良いと思いますよ。このままだと心中です。早く、もっと才能のある人の所へ行った方が良いんじゃないですか」

「コウ!」

 目の前に不動明王が現れたのではないかと思うような勢いだった。功介はイスの上で身を引いた。

「そんな事言わないでください。私は、儲かるからマネージメントをしているんじゃないんです。好きなんです。コウの絵が。私が人生に失望しかけたあの日、たまたま入ったカフェの壁にコウの絵があったんです。泣いて良いんだと言ってくれているみたいで、私はカフェで大泣きして、立ち直れました。このように人の心を打つ絵を描ける人は絶対素晴らしい人だ、一緒に仕事したいと思ったのです。だからやってるのです」

 少し救われたような気がした。先程絵を駄目にしようとしたのを止めたのは、絵を守ったのではなく、自暴自棄になった自分を制する為。そして久美は絵を見ているのではなく、常に自分を見てくれていると改めて実感出来たからだ。

 功介は溜息と共に自暴自棄になっていた気持ちを吐き出した。そして拳を固く握り締めていた筆を置いた。

 それを見た久美も安堵の息を吐き、体の緊張を解いていた。

「東田さん、描いてみますよ。どんな絵ですか?」

「日本アルプスの絵が欲しいみたいです。出来れば……晴れの……」

「2年前行った時の写真と想い出がありますから、それを基にやってみます。でも、描けなかったらすみません」

「雑誌社にもそう言っておきました。冬見は、……雨の画家だからって。あっ、冬見さん、先程はあの、呼び方間違えてすみません」

 自分の失態に身を縮める久美に向かい、功介は気にするなと手を振った。

 しかし、自分に描けるのだろうか。別の絵を。あの時から1枚も描けていなのに。

 ――高校時代、えいりと付き合っていた頃はいつも彼女を目で追っていた。

 授業の合間に校舎の中を歩いていても、何処かにえいりの姿がないかと鵜の目鷹の目で探した。そしてその姿を捕らえると、とても幸せな気持ちになった。

 えいりと肌を合わせた後絵を描こうとした時、目を瞑って耐えないといられないような頭痛に襲われた。目や頭がどうにかなるのではないかという不安に襲われたが、えいりが帰ってしばらくしたら治まった。

 その後、えいりの画像を見たり、えいりの事を考えると頭痛がぶり返しそうになった。功介は自分の症状が治まるまでと、夏休みの間えいりと会わない事にした。

 2学期が始まり、学校でえいりを見かけると強烈な頭痛が起きた。他の時では何も無いので、えいりを見る事によって自分が興奮でもするからだろうかと疑った。

 頭痛は一向に収まらなかった。その内、えいりの姿を見る事が怖くなった。あれ程求めていたえいりの姿は恐怖の対象になり、いつしか嫌悪が芽生えた。

 そして、えいりと別れた。

 その日から、目を指すような頭痛が治まった。これで良かったのだと思った。またえいり見て頭痛がぶり返すのも怖かったので、功介は卒業までえいりを避け続けた。

 自分の望み通り美術大学に進学した功介は、高校時代より更に精力的に創作活動にのめり込んでいた。1年生後半に出した展覧会で、功介は佳作に選ばれた。しかし、『力はあるが独創性に欠ける』というありがちな批評が付けられた。

 口惜しさをバネに次々と描き上げていく功介だったが、酷評が気になり、どれも誰かの真似事のように感じてしまったのだ。

 とても分かり易いスランプに陥った。

 どうしたらいいか分からなくなった功介は、師事する教授に相談した。

「うーん」

 腕を組み、頭を傾げて教授は悩んだ。

「そうだねぇ……、気分的な問題だと思うんだけどね。だから、ちょっと気分を変えてみた方がいいかもしれないね。夏休みに写生旅行に行く予定なんだけど、アシスタントとして同行してみないかい? もちろんアシスタントだから旅費は私が出すから」

 それで解決するとはとても思えなかったが、自分の悩みを真摯に考えてくれる教授に好感が持てた。

「はい、こちらこそお願いします。……でも教授、何でそんなに良くしてくれるんですか?」

「教え子は皆可愛いものなんです。その中でも……」

 教授は辺りをキョロキョロ見た。人気が無く、教授は安心したような顔になった。

「冬見君は有望だと思っているんです。ですから、こんなところでつまずいて欲しくないんです」

 胸が熱くなった。教授の期待に応える為にも、一日も早くスランプから脱け出さないといけないと思った。功介は大急ぎでパスポートを取得した。

 大学が夏休みに入ってすぐ、教授、専属アシスタント、功介の3人は成田空港から飛び立った。目的地はモロッコだった。

 異国の街並みに感動し、とても刺激を受けた。そして一行はサハラ砂漠へ向かった。日本では決してお目にかかれない、見渡す限りに拡がる砂漠を前にしばし呆然としていた。

 2、3日砂漠を旅し、今日は街に帰るという朝、功介はベッドを抜け出して夜明け前の砂丘に上がった。

「冬見君、どうしたの?」

 功介は驚いて振り返った。7歳上の女性アシスタントが砂丘の坂を上ってきていた。

「砂漠を見にきました。笹岡さんこそどうしたんですか?」

「トイレに起きたんだけど、誰かが出ていく音が聞こえて。見たら冬見君だったから」

 そういう事かと功介は頷いた。

「で、どう? スランプから出れそう?」

 功介は驚き、目を大きく開いて瞳を左右に揺らした。

「な、何でそれを……?」

「6年先生のアシスタントやってきてね、何人か学生を写生旅行に連れてきたのを見てきたわ。皆スランプだったから、冬見君もそうかなって」

「そうなんですか……。でも、その通りです。それで、その人達はどうなりましたか?」

 慄える声で功介は尋ねた。

「皆だいたいスランプを脱出したわ。その後、だいたい活躍してるわね」

 笹岡が言った3人の名前は、若手画家として注目されている者達だった。功介は驚き、一筋の光が自分を射しているように感じた。

 自分もその例に名を連ねられるのか、多くの画家の卵のように埋もれてしまうのか、功介は不安で顔を俯かせた。

 すると笹岡が『はい』と言ってスケッチブックを渡してきた。何の事だか分からず、功介は立ち尽くしてしまった。

「こ、これは……?」

「ねぇ、わたしの絵描いてよ」

「それ、どういう意味ですか?」

 心臓が体の中で暴れ始めた。正直、ここ数ヶ月絵を描くのが怖くなっていた。素人に見せるならまだしも、絵の事を深く知る笹岡に見られるのだから。

「えっ? 興味があるから、かな。高校の時に描いた絵とか、賞を貰った展覧会の絵とかめっちゃ良かったよ。だから、わたしも描いて貰いたいなって思って」

 なるほどそういう事かと納得した。鉛筆を握る手に力を込め、鉛筆の先をスケッチブックに近付けた。

「あー、ごめん。ちょっと嘘かも。もちろん興味があるのは本当だよ。でもね、興味があるのは冬見君本人になの。今はちょっとスランプみたいだけど、凄い才能があると思うんだ。わたしなんか、比べものにならないくらいの。だから、ずっと冬見君の事を見ていきたいと思って」

 一体何を評価されているのだろうかと、功介は混乱していた。その目が中央に寄り、左側が細くなった。

「あー、一応、告白、してるんだけど……。分かり辛かったかな。冬見君、わたしと付き合ってみない? あー、やっぱり、7つも上の年増じゃ嫌?」

 この時、功介はやっと気が付いた。2年間自分はえいりとの失恋を引きずっていたと。

大学に入学し、教授の指導を受ける間に笹岡にも色々と世話になった。笹岡は自分で言う程絵の才能に乏しい訳でもなく、一緒に切磋琢磨していくに相応しい相手と思われた。

  それに何より、今実感してしまったえいりへの想いを断ち切るには、新しい恋をするのが一番なのではないかと思った。

 受け入れられるかどうか不安そうにしている笹岡に微笑み掛けた。笹岡の顔にちょっと安堵の気配がよぎった。

 砂漠を背景にして笹岡の絵を描き、仕上げたスケッチと共に返事をしようと思った。『こちらこそお願いします』と。

 この2年間忘れていた頭痛が襲ってきた。あまりの痛みに目を瞑りそうになった。しかし再び開けた時同じ景色が見えなくなっていたら恐ろしいと思い、目を細めるに留めて、必死で耐えていた。

 霧が出てきたのであろうか、細い光が滲んで見えた。痛みが薄れていき、その隙を突いて功介は目を開けた。

 その直後、驚いて大きく目を開いた。笹岡と砂漠を打つように雨が降っていたのだ。

「さ、笹岡さん、雨ですよ。砂漠に、こんな大雨が降るんですね……」

 目の前の衝撃的な光景に、笹岡に抱いていた淡い想いなど吹き飛んでいた。

「えっ、どういう事? 雨なんて降ってないわよ」

 功介は驚いた。こんなに雨が降っているのを否定されたから。しかし、よく見ると笹岡の言葉が正しいのかもしれないと思った。

 雨が降っているにも関わらず、笹岡の髪も服も体に貼り付いていない。砂も崩れていないし、砂を踏む感覚も変わっていなかった。

 功介は自分の手を見つめた。雨粒は見えないし、当然濡れてもいなかった。スケッチブックを見た。そこには水の染み1つ無かった。

 勘違いか何かの間違いかと思い、絵を描き始めようと再び笹岡と砂漠の方へ目を向けた。しかし、そこには雨が降りしきっていた。

 驚いたが、この不可思議な光景に功介は心を奪われてしまった。もう笹岡の姿は目に入らず、朝日に照らされる砂漠とオアシスと、それを洗うように降る雨を描いた。

 この光景が消える前に必死で描いた。すぐ傍で笹岡が何か言っていたが、功介の耳には全く入ってこなかった。

 1時間程で、功介はスケッチを仕上げた。これがあればキャンバスにも転写出来るだろうと、空を仰いで詰めていた息を吐いた。その空からは雨は落ちてきていなかった。

 こんなに目の前の景色に集中出来たのは、高校1年生の美術部の写生会以来だと思った。そして、それと同時に自分に足りなかったのは、目の前のものを描きたいという気持ちだったと気付いた。いや、上手く描き、賞を取りたいという気持ちが余計だったのかもしれなかった。

 教授の写生旅行は終わり、功介は雨と砂漠のスケッチを基にして絵を描き上げた。そしてそれは大賞に選ばれた。

 功介は“マグリットの再来”ともてはやされた。

 受賞した事で周りから称賛された。美大生の受賞という事も話題になり、功介は時の人となって沢山仕事が舞い込んできた。

 教授との写生旅行、その後仕事を捌くのを手伝ってくれた笹岡に親しみを覚え、2人は付き合うようになった。

 しかし、画壇への階段を駆け上がる功介に対し、何時まで経っても画家としての芽が出ない笹岡が功介に嫉妬するようになった。

 2人の仲は徐々にギクシャクし、もう取り返しのつかない溝が出来上がった。結果、功介が大学を卒業すると同時に関係が切れてしまった。

 絵の仕事が入ってきた事、笹岡との恋愛は功介にとっては些末事だった。あの砂漠の日から、功介の目に異常が起きていた。

 それは雨が見えるという事だった。功介は雨の風景を描くが、それは実際そのように見えるからで、オリジナルの演出ではなかった。

 但し、雨が降って見えるのは絵を描こうと思った時だけで、平時は他の人と同じ様なものが見えていたのだ。

 病院をいくつも回っても原因は分からず、医師は首を捻るだけだった。功介も、仕方が無いといつしか諦めるようになった。

 展覧会で大賞を取ったのが雨の絵だったのでクライアントは雨の絵をほしがるのでむしろ好都合だし、普段は雨が見える訳でもないので気にしなくていいと思った。

 何より、目が光を失うよりはずっとマシだから。

 ――あの日から功介は好きな絵を描いてきた。

 賞を意識していないし、自分のレベルも上がってきたので満足のいく作品を次々と創出した。しかし、少し前からネットでは『雨の絵しか描けないポンコツ画家』と呼ばれたり、クライアントからは雨以外の絵を求められるようになった。

 そうは言われても、自分ではどうしようも出来ず、功介が一番悩んでいた。

 何時か多くの人に飽きられ、仕事が無くなる。ネットで『昔にこんな人いたね』などと話題になるかもしれないが、すぐにそれも無くなるだろう。そして、全ての人から忘れられる日が来る。

 何者でも無い自分を想像し、功介は自分の体温が下がる位恐れた。どうにかしなければと絵を見たが、やはり視界には雨が降っていた。

 功介は絶望した。

 その直後、功介はハッとした。そんな事は絶望ではないと思ったのだ。自分は暗黒に塗り潰された7年を過ごしたのだから。

 功介が幼稚園児の頃、自宅は父親が経営する工場の隣にあった。

 祖父の代から金属を扱う仕事をしており、豊かではないが工員と家族のような関係を築いていた。そして、功介が産まれた頃に風が変わった。

 父親の技術がアメリカの造船や宇宙産業に目を付けられ、注文が入るようになった。小さな工場はそれからフル稼働になり、人が増え、工場も大きくなった。

 母親が幼稚園に迎えにきて、手を繋いで家に帰った。もうすぐ家に着くという時、工場に女性が入っていくのが見えた。

 その人は功介が『ヨウちゃん』と呼んでなついている女性工員だった。暇な時は遊んでくれるので、その日も遊んで貰いたくて功介は母親の手を放して駆け出した。

 後ろから母親の声が飛んできたが、功介は衝動を抑えきれずヨウちゃんの後を追って工場内に入った。両親に『絶対工場の中に入ってはダメだよ』と言われているのも失念していた。

 幼稚園の工作の時間に作った“ヒーローの剣”を功介は握っていた。大好きなヨウちゃんに、剣の出来を褒めて貰いたいと思ったのだった。

 ヨウちゃんの背中が見えた。功介は剣を掲げて後を追った。しかし、嬉しくて振り回した剣がすぐ脇のテーブルにぶつかった。

 テーブルの上に置いてあった薬品が揺れ、落ちた。功介に向かって。

 その瞬間、功介の世界から光と色が消えた。

 薬品がテーブルから落ち、それが目に入ったのだった。功介は痛くて目を手で押さえた。工場は騒然となり、救急車が呼ばれ、功介は病院に運ばれた。

 両親に残酷な宣告が告げられた。それは功介の目は光を失い、回復させるには角膜移植しか方法がないと。

 母親は手を放してしまった事を後悔し、自分を責めた。一時家の中には暗闇が垂れ込めたが、引越し等父親の努力によって徐々に元に戻っていった。

 目が見えていた時、功介はお絵描きがとても好きな子供だった。それが急に出来なくなり、功介はふさぎ込むようになった。

 自分の責任という負い目があったのだろう、母親は功介につきっきりになった。身の回りの世話はもちろん、功介のお絵描きの手伝いもした。

 最初母親は功介の手を取って一緒に絵を描いた。功介が目の見えない状態でのお絵描きに慣れてくると、横で『耳は三角』や『丸いお目め』等絵描き歌感覚で一緒に描いた。

 その時の絵を母親がとってあり、功介は目が見えるようになってからそれを見た。笑ってしまうくらい下手な絵だったが、目が見えない子供が描いたにしては上手だった。

 功介が小学6年生の時、冬見家の運命が変わった。長年待ち続けた角膜移植の順番が回ってきた。

 7年振りに功介は光を取り戻した。

 世界は美しかった。目が見えるようになり、功介は己の目で見たものを描きまくった。多くの人が当たり前にやっているこの行為が、どんなに幸せなのかと思った。

 功介は執刀してくれた医師に、角膜を提供してくれた人への感謝の手紙を渡した。ドナーに手紙は渡らない事、どのようにして臓器が移植されるのか当時の功介は知らなかった。

 ドナーのお陰で、功介は目の見える状態で中学に入学した。入学式の朝、母親から度の入っていない眼鏡を渡された。

 もう二度と外的要因によって光を奪われない為、自分の目を心配する母親の気持ちをおもんばかり、その日から眼鏡をかけるようになった。

 ――それから何代目かの眼鏡を持ち、功介はアトリエの中に置いてある長机に歩み寄った。もう冷めきったコーヒーを一口すすった。

「東田さん、いつもありがとう」

「礼には及びません。冬見さんに絵を描いて貰いたい人を探し、気持ち良く絵を描く環境を整えるのが、私の仕事ですから」

 経済や仕事より、自分の心を支えてくれているのにそれをおくびにも出さない久美に、功介は改めて好感を覚えた。

「東田さん、俺と付き合いませんか?」

 功介に突然告白のような事を言われ、久美はキョトンとした。そして2人の間に流れた空気を吹き飛ばすように大笑いした。

「何言ってるんですか。こんなオバサンに逃げたらダメですよ。ん~、そうですね、その代りいつか冬見さんの渾身の作品を私に下さい」

「ありがとう……」

 徹頭徹尾自分の作品の価値と、自分の才能を信じてくれる久美に、功介はもうそれしか言えなかった。久美の為にもこのスランプから脱け出さなくてはいけないと思った。どうすればいいか、方法は全く見当がつかないが。

 唯一、高校の時に描いたあの絵を目にする事が出来れば解決するかもしれない。ただそれは叶わない。もう自分では手の届かない所にいってしまったのだから。

 功介は心の奥底にわだかまる悲壮感を、速い溜息を使って吐き出した。

 そして眼鏡をかけ直し、描きかけの絵に向かって歩いていった。

 その時、机の上のスマホが鳴った。そこに表示されている名前を見て、功介はスマホを手に入れて以来の電話番号を変えていなくて良かったと思った。


【2022年 文田えいり 26歳】

 新宿に出て、えいりはコーヒーショップに入った。そして会社に有給休暇を使う事を連絡した。繁忙期でもないので、当日だが迷惑をかける事は少ないだろうと思った。

 続いて香織と水穂にも仕事を休むという連絡を入れた。2人は病気かと心配してきたが、大事な用事があるからと伝えると『有給は使う為にある』などという返事があった。

 10時位までえいりは本を読んで時間を潰した。しかしこれからやらなければいけない事が重圧になり、本の内容は全く頭に入らなかった。

 えいりはスマホの連絡帳を下に送っていった。8年前からそのままにしてある名前があり、震える指でタップした。

 自分は電話番号を変えていないが、相手もそのままである保証は無い。もしかしたら全然知らない人が出る可能性もある。えいりは胸を強く鳴らして呼び出し音を聞いていた。

「はい」

 スマホのスピーカーから、訝し気だが、懐かしい声が聞こえてきた。えいりは慌てスマホを取り落としそうになった。

「こ、こんにちは、あの、私……」


【2023年】

 カーテンの隙間から射し込んできた光が顔に当たり、えいりは目を覚ました。

 大きなベッドの横にすぐ目を向けた。そこはシーツが少し乱れていた。

 えいりは大儀そうにベッドから出て、リビングへ向かった。

「おはよう」

 既にキャンバスに向かっている男に声を掛けた。

「おはよう」

 えいりの声に振り向き、功介は微笑みながら言った。

「えいり、着替えてきなよ。そしたら朝ご飯にしよう。俺がパンとか焼いとくから」

 えいりは『うん』と言い、笑顔でベッドルームへ戻った。そしてパジャマを脱ぎ、ベッドの上に置いた。しかしすぐには服を身に着けず、自分の体に視線を落とした。

 腰の周りがゆったりしているワンピースを着てえいりはリビングへ戻った。そしてパンを皿に乗せている功介の横に立ち、カップにコーヒーとルイボスティーを注いだ。

 マグカップの取っ手を掴もうとした時、インターホンが鳴った。

「こんな早い時間に誰だろ?」

「早くはないよ、もう9時だし」

「えっ、あっ、本当だ。ハ~イ」

 えいりはインターホンに駆け寄った。すると画面から若い男の声が流れてきた。

『おはようございます! 冬見えいりさんにお届けものです』

「あっ! はい。ドア開けるから部屋までお願いします」

「誰?」

「荷物」

「何か買ったの?」

「うん、まあ、そう」

「怪しいなぁ~。教えてよ」

「ナイショ。でもね、私達にとって大事なものよ」

 そう言い、えいりは両手で下腹部を優しく押さえた。

 功介も何かを察したのだろう。それ以上の追及はしてこなかった。

 2人は食卓につき、キツネ色に焼けたパンに齧りついた。

「ねえ、コウ、今は何描いてるの?」

「富士山の観光協会のロビーに飾ってくれる絵」

 青い空を背景に屹立する富士山の絵がイーゼルに乗せられていた。夏の陽に照らされた木々が活き活きと描かれている、見ているだけで爽快感に満たされる絵だった。

「喜んで貰えたらいいね」

「うん、大丈夫。えいりも絵を見て笑ってくれてるし」

「そうだった?」

「うん。でも、えいりはいつも笑ってるよね」

「えん。コウのお陰でね」

 功介の言う通り、えいりは功介の絵を微笑みながら見つめていた。

 その笑顔は、壁に掛けられた、太陽の光溢れる庭で微笑むえいりの絵と全く同じだった。


                                       了



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