④
【2022年 文田えいり 26歳】
えいりと香織と水穂は神奈川県のあるホールに来ていた。
あまり大きくなく観客は2千人程しか入らない会場であったが、驚いた事に会場は満員だった。
お互いに仕事が忙しくてなかなか会えないが、えいりは奏照や真弥とは高校卒業後にも連絡を取り合っていた。
そして数ヶ月前に奏照からライブがある事を聞かされた。えいりはその場でチケットを1枚獲得したが、一応香織と水穂にも聞いてみた。すると、嬉しい事に2人共ライブに行きたいと言ってくれた。
もう1人の高校時代の同級生の真弥は、予定が合わないと言い、2日ある内のもう一方に行くようだった。
ライブを終え、真弥と水穂は魂が抜けたような顔になっていた。
「2人共、どうだった?」
すると虚ろだった2人の目が覚醒した。
「凄い、何なの、あんたの友達」
「あたしも驚いた。奏照さん、最高だった」
友達に対する褒め言葉のマシンガン連射に悪い気はしなかったが、人目があるので2人を居酒屋に促した。
道々でもそうだったが、生ビールが届く前から2人はずっと今夜のライブの感想を口にしていた。どうやら2人共感動してくれたようだった。ライブに誘い、本当に良かったとえいりは思った。
「えいり、あの奏照さんと中学からの知り合いだったんでしょ? やっぱり学生の頃から活動してたんでしょ?」
「うーん、前にも言ったけど、聞いてなかったなぁ。あっ、でも高3の時にバンドに誘われたとかって言ってた」
「へ~、やっぱり才能がある人は昔からやってんだね。私なんて高校の時は遊ぶ事しか考えてなかったよ。でもさ、芸能界って色々怖い噂があるじゃない? あれって、本当なのかな?」
相変わらずの香織の反応に、えいりは苦笑を返した。
「んー、嘘じゃないかなぁ」
正直えいりはどのように奏照が売れたのか知らなかった。しかし、世で言われているようなものに巻き込まれたとは、考えたくもなかった。
「そっか~、だよね~」
香織はそう言いながらビールを飲んだ。続いて水穂もビールに口を付けたが、それは2杯目だった。
「ねえねえ、ちょっと写真撮ろうよ」
えいりはスマホで自撮りをしようと提案した。2人はノリ良くスマホに笑顔やピースサインを向けた。水穂に至っては、生レモンサワーがなみなみと入ったジョッキを持ち上げていた。
3枚撮り、誰も白目を剥いておらず笑顔がいいものを選んだ。
「よしっ。『今日はとても楽しかったよ。友達も、右は香織、左のお酒が好きなのは水穂、楽しかったって。お陰でご飯もお酒も美味しいよ』……っと。はい、送信」
えいりは奏照にメッセージを送った。同級生として応援している事、新しいファンも出来ている事を伝え、奏照が演奏活動をより精力的にしてくれればいいと思った。
「さあ、食べようか」
やる事を終えたえいりは、この居酒屋の看板メニュー“ベスビオ肉山”に向き合った。大量の肉が山のように重ねられ、上から美味しそうな香りを放つソースがかけられていた。
肉、ピザ、ビール、サワー、ワインなどどれもとても美味しかった。この日は金曜日という事もあり、3人は時間を忘れて酒と食事を楽しんだ。
もちろん仲の良い者が3人寄れば話にも花が咲く。推し、最近気になっている事、会社の愚痴、恋愛に関する事などを延々と話し続けた。
店のドアベルが鳴った。たまたま会話が途切れた瞬間だったのでえいりは気が付いた。そしてスマホに手を伸ばして時間を確認した。
驚いた事に22時半だった。時間が跳んだように感じたえいりは店内に視線を巡らせた。来た時は満員に近かった客の数が、今は半分くらいになっていた。
「ねえ、もう10時半だよ」
「えっ、本当だ!」
「まだ宵の口じゃない。もっと飲みましょうよぉ」
水穂だけは全然危機感を覚えていないらしく、自分のグラスに赤ワインを注いでいた。
「もう、水穂、明日が休みだからって飲み過ぎたらダメじゃん。前もえいりに迷惑かけたんだし」
「えー、えいりさん、迷惑だった?」
「まあ、それはいいから。まだちゃんと意識がある内に帰ろ」
あの時大変だった事を思い出した。しかし敢えて水穂の言葉を否定も肯定もしなかった。
えいりと香織が身の回りのものを片付けるのを見て、水穂は頬を膨らませた。そして手にしていたワイングラスを傾けた。
「香織さんも明日休みって言ったじゃない。それなら帰らなくても良いじゃん。大学生みたいにカラオケでオールしようよ」
えいりと香織は呆れ顔を水穂に向けた。
その直後、えいりの隣の席で、4人掛けテーブルの空いている席で、音がした。3人は顔を驚かせてそちらに目を向けた。
大きなキャスケットを目深に被り、マフラーを鼻の下まで巻いている女性が突然座ったのだ。女性は手にしていた、まだ唇の跡の付いていない、赤ワインの入ったワイングラスを水穂のグラスに軽く打ち合わせた。
「アタシは水穂さんに賛成だな」
当然だが、えいりと香織と水穂は絶句していた。しかし覗く目と、マフラーを通して聞こえてきた声に気付いたえいりが最初に我に返った。
「えっ、もしかして……」
「えいり、久し振り」
女性はマフラーを下げながらそう言った。
「奏照!」
意外にも大きな声が出てしまった。店員や客達の目が集まり、えいりは香織に口を塞がれた。
「すいませ~ん、失礼しました~」
四方に頭を下げて香織は座った。
「バカ、えいり、声が大きいって。奏照さんは有名人なんだから、気付かれたら大騒ぎになるじゃん」
「え~、アタシまだそんなに売れてないから大丈夫ですよ。でも、香織さん、気を遣ってくれてありがとうございます」
そう言うと、3人の慌てている様子を全く気にしていない様にワインを喉に流し込んだ。
「ちょっと、あんた何やってんの? って言うか、どうして私達がここに居るって分かったのよ」
冷めたピザを頬張りながら奏照はスマホを操作し、画面をえいりの鼻先に突き付けてきた。そこに表示されていたのは、先程自分が送った写真だった。
「これが、何なのよ」
「この“ベスビオ肉山”よ。このお店の名物じゃない。アタシも大好きなんだ。これ見て『あっ、きっとあそこだ』って思って来てみたの。居なかったら帰ろうと思ったけど、会えて良かった」
確かに3人の後ろにチラリと肉の山が写っていた。これが外で、且つ送った人が知り合いだったから良かったが、こんな事で自分達の居場所が人に知られてしまうのかと考えると身震いがした。
「楽しそうだったからアタシも混ぜて貰おうと思って来ました。これからカラオケ行くんですか? アタシも一緒に行ってもいいですか?」
「えーっ、生の奏照さんの歌を聴けるなんて感動ですぅ~」
水穂が目を輝かせて言った。
「ちょっと、あんた何言ってるの。明日だってあるんでしょ。真弥も行くって言ってたよ」
ワイングラスを口に運ぼうとしていた手を押さえ、詰問口調でえいりは言った。世間で取り上げられ始めているとはいえ奏照はまだ駆け出し。えいりはこんな所でつまづいて欲しくないと心配したのだ。
「大丈夫。明日も夜からだから、始発まで遊んでも5時位でしょ。充分寝れるから。それに長年やってるんだから、自分の喉の調子くらい分かるって」
「本当に、大丈夫なのね?」
「もちろん」
奏照は左手の親指を立てた。
「分かった。あんたを信じるよ」
旧友2人のやり取りを固唾を飲んで見守っていた香織と水穂は、奏照が合流してくれる事が決まり、喜びで手を打ち合わせた。
この居酒屋で奏照が満足するまで食べ、4人はカラオケに向かった。
一刻も早く奏照の歌を聴きたそうにしていた水穂だったが、部屋に入るなり香織が『プロの前で恥ずかしいんですけど』と言って歌い始めた。恐らく、奏照の喉を心配して歌うのを遅らせようとしたのだろう。
深夜12時から朝4時半までカラオケを楽しんだ。4時間半ずっと歌い続けた訳ではなく、途中でジュースを飲みながらお喋りもした。奏照が歌ったのは3曲だった。
【2008年 6年生】
私と修一は6年生になった。ミニバスチームでも最高学年になり、2人でチームを引っ張っていって今年こそ全国大会出場を獲得しようと日々練習に励んだ。
この1年で私はかなり成長し、修一とチームの両翼を担うまでになった。しかも幸いな事に6年生の転校生秋山健吉がチームに入ってきた。
健吉は長野県の小学校でもミニバスをしており、レベルの高い技術を持っていた。私と修一と健吉、監督もこの3本柱で全国大会に乗り込もうと思っているようだった。
「おい、勝負しようぜ。俺がディフェンスするから、5本中1本でもゴール出来たら勝ちにしてやるよ」
大上段からのもの言いにムッとした。
「余裕だよ。1本でいいの?」
「ハッ、俺が1本でも取られるかよ。まあ無理だね。もし取れたら、後でアイスおごってやるよ」
「よ~し、言ったな。絶対勝つよ」
多くの人は修一の猛攻に目を奪われるが、守備もかなり上手かった。腰を落として両手を広げており、抜けるイメージが湧かなかった。
悪い考えを振り払い、私は攻撃を仕掛けた。
ドリブルを止められたり、コートの端に追い詰められたり、シュートも空中でブロックされたりして既に4本止められた。
もう後が無くなり、私はドリブルをしながら修一の隙を探った。しかし油断すると修一の怒涛の守備がくるので、気を引き締め直した。
「左から攻めろ!」
健吉の声が響いた。修一の顔が一瞬ハッとした。その瞬間、私は左へ突進した。
修一の手が伸びてボールを狙ってきた。私はギリギリでかわした。そしてすぐジャンプシュートの体勢に入った。
目の端で修一が殺到してくるのが見えた。私は焦った。出来るだけ急いでジャンプした。修一の右手が伸びてきた。
私は修一の手が届く寸前でボールを放った。理想に近いフォームで投げられたと思った。ボールは美しい放物線を描いてゴールへ向かった。
ボールがゴールネットを真上に跳ね上げた。
「やったぁ~、勝ったぁ」
両手を上げて喜びを表現した。
「ズルイぞ。健吉のアドバイスでゴール出来ただけじゃねぇか」
「それでも勝ちは勝ちだよ。修一、後でアイスね。秋山君、ありがとう」
礼を言うと健吉は恥ずかしそうに頬を掻いた。私は健吉に近付いていき、手を上げた。ハイタッチをする為に。
すると健吉も手を上げてきた。体育館内に手を打ち合わせる音が響いた。健吉はとても嬉しそうな顔をしていた。
その2人を、修一は悔しそうに見ていた。そして2つの手が合わさるのを見ると、まばたきを2回して睨むように健吉を見ていた。
練習が終わり、私は修一と帰った。いつも通りに。そして公園を突っ切ってコンビニに行こうとした。
「おい、もう1回勝負だ。今度は俺のオフェンスで」
「えーっ、これで修一が勝ったらアイス無しとか言うんでしょ?」
「言わねえよ。お前の勝ちは勝ちだよ」
やはりいさぎ良いなと、私は修一への好意を高めた。
「よ~し、それじゃやろうか」
私と修一は公園にあるバスケットゴールの下へ行った。そしてバッグから修一がボールを取り出した。
ゴールの高さは大人用なので、今回は私の方が有利だと思った。案の定、私を抜いた修一のシュートは、ボードの下に当たった。
しかし、さすが修一だった。ミスをした事で感覚の修正をしてきた。そして4本目、遂に修一のシュートはゴールを捕らえたのだった。
「おっしゃぁ~、勝ったぁ!」
「さすが修一、強いね」
「まあな。でも、お前もスゲエよ。今年は俺とお前で全国だな」
「健吉は?」
「あいつか、健吉もかなりやるよな。でも、コンビネーションなら俺とお前の方が合うだろ」
もう一年も一緒にやってきたのだから、それは私も実感していた。そこで私は修一に同意を示した。
「それじゃ、アイスでも食べようぜ。コンビニで買ってきてよ。俺、ガツンとみかんな」
そう言うと修一は私に財布を渡してきた。私は財布を受け取り、素直にコンビニに走った。ガリガリ君ソーダがあればいいなと思いながら。
冷凍庫からアイスを取り出し、レジへ持っていった。店員から値段を告げられて財布を開けた。
心臓が強く鳴り、嫌な汗が脇腹を流れていった。財布の中にはカネが入っていなかった。代わりに何枚ものカードが入っているだけだった。
修一に意地悪されたのかと思った。自分は財布を持っておらず、恥ずかしいけれどカネを忘れたとでも言って商品を戻さなくてはいけないかと焦った。
「ちょっと待ってください」
そう言い、一縷の望みを賭けてカードを全部引き出した。交通系のカードが入っていて、修一はそれで支払いをするよう伝え忘れたのだと思いたかった。
1枚1枚見ていった。交通系カードは現れず、私の気持ちはどんどん焦っていった。アニメキャラのカード、病院の診察券、シール、何だか分からないカード等が出てきた。
すると、カードとカードの間に千円札が挟まっていた。私はホッとしてそれでアイス代を支払った。
「はい、修一」
アイスを渡すや、すぐに袋を開けて修一は食べ始めた。
「千円ならそう言ってよ。最初見つからなくて焦ったじゃない」
「ああ、言ってなかったか、ゴメン」
食べ終わるや修一は突如走り出した。
「ちょっとこっち来いよ」
訳が分からなかったが、私は修一の後を追った。修一は公園の坂をドンドン駆け上がっていった。あれだけ練習した後なのに凄いと思った。
突然修一は道を逸れて藪の中へ入っていった。私は一瞬躊躇ったが、そこに獣道のようなものが出来ていたので、勇気を出して修一の後に続いた。
チラリと見える修一の背中、木を搔き分ける音等を頼りに走った。そしてやっと修一に追い付けた。それは修一が足を止めたからだった。
「やっと来たか。見てみろ」
修一が指を伸ばした。その先には、夕陽で朱に染められた街並みがあった。2人が立っている場所は、公園の小高い山の頂上だったのだ。
「きれい……」
「だろ、俺の秘密の場所なんだ。……、お前だけだぞ……、ここを教えたのは」
「そうなの! 何で?」
すると修一がギクリとし、目を大きく見開いて瞳を左右に揺らした。そして慌てたような口調で話し始めた。
「そ、それはアレだよ。俺とお前が、良いコンビだって事だよ」
ちょっと意味が分からず、私は首を傾げて修一に言葉の意味を教えてくれるよう促した。
「何て言えばいいのかな……。俺は色々な先輩達とコンビ組んできたけど、お、お前とが一番しっくりくるって言うか、とにかく良いプレイが出来るんだ。だから、全国に行く最後のチャンスだから、お前と一緒にここで“ちかい”ってヤツをしようと思ってさ」
「最後? 修一、中学は言ったらバスケやらないの? 確かにミニバスで全国行けるのは次の大会が最後だけど、もちろん私も全国狙ってるけど、もしダメだったとしても中学とか高校で目指せばいいんじゃない?」
「もちろん俺もバスケ続けるよ。俺の夢はNBAのスター選手だからな」
「じゃあ、何で?」
「中学になったら、バスケ部は男子と女子に分かれるじゃん。だから、お前と全国行ったり、全国制覇するチャンスは次だけなんだよ」
私は修一の言葉をやっと理解し、アッと口に手を当てた。
「俺、次はガンバロウって思ったり、ツライ事があったらここでこの景色を見にくるようにしてんだ」
修一はまだ朱が濃い街を真剣な目で見つめていた。私もその視線の先を見つめた。そうすれば、一緒の夢を見られるのではないかと思ったから。
「な、街が燃えてるみたいだろ。これ見てるとさ、ヤル気がメラメラしてくるんだよ。それにイヤな事は消えていくしな」
美しいとは思ったが、正直修一の言葉の全ては理解出来なかった。
「なあ、俺と一緒に全国行こうぜ」
修一が呟くように言った。私は嬉しくなった。『行ってくれ』と頼まれた訳でもなく、『連れていってやる』と言われた訳でもなかったので、対等の仲間と扱われていると気付いたからだ。
「うん。やろう」
「それじゃ」
右目の瞼をピクピクさせ、修一は右手を高く上げた。
何が起こるのか分からず、私はポカンとしてしまった。すると修一の顔がちょっと赤くなった。
「ホラ、アレだよ。お前が健吉とさっきやってたやつ。俺ともやろうぜ」
記憶を辿り、修一の今の姿と合致するものがないか考えた。すぐに符合した。修一がハイタッチを求めているのだと。
私も手を上げ、2人の頭の上で手を打ち合わせた。大きな音が、紫に変わりつつある空に響いた。
私は、その高い音に2人の誓いが成就すると確信した。
「よしっ、やるか。俺とお前で点をガンガン取っていこうぜ」
私は『うん』と言って力強く頷いた。
6年生最後の大会が始まり、チームは順調に勝ち星を重ねていった。地区予選は全く危なげ無く、県大会へ駒を進めた。
県大会では4回勝てば全国へ行ける。さすがに県大会にもなると相手は強豪になり、苦戦したりギリギリ運で乗り切り、遂に決勝にまで辿り着いた。
相手チームは前回大会も全国へ行った。ここを乗り越えられなければ全国のチームになど歯が立たないだろう。全国に通用するどうかの試金石になる一戦だった、
試合前に控室に集められ、監督の口からこの日の作戦が告げられた。
「ふざけんな!」
修一が怒鳴った。
まばたきを2回し監督を睨んだ。しかも拳を握って、今にも殴りかかりそうだった。それを止めているのは修一が小学生だから、という理由だろう。
「修一、やめなよ……」
「そうだけど、お前……」
止めに入った私にも恨みを持ったかのように睨んできたが、すぐにいつもの修一に戻った。
監督が口にした作戦とはこうだった。
1Qは私と修一が暴れて相手チームの出鼻を挫く。2Qは健吉が出て、3Qは私と健吉がコンビを組んで、戸惑っているだろう相手チームから点をむしり取る。そして4Q、力と体力を蓄えていた修一が暴発する。得意の個人プレイで相手チームを翻弄し、全国大会のきっぷを手に入れる。
「修一、何が気に入らないの?」
「だってお前! 監督、こいつと一番プレイが合うのは俺なんだ。2回とも俺とコンビを組ませてよ。そうすりゃ、絶対勝てるから」
「なあ、監督が色々考えてこうしたんだからさ、今日はこれでいこうぜ」
健吉が言った。すると修一は目を吊り上げ、健吉の肩をドンと押した。どうやら修一は引き下がるつもりはないようだった。
「うるっせぇな。テメエは関係ねぇんだから黙ってろ」
試合前に一触即発の空気が漂ったが、健吉がそれに応じなかった。修一を馬鹿にしたように薄く笑い、2歩、3歩と下がっていった。
「ねえ監督、俺達にとってはこれが最後の大会なんだよ。後悔しなくていいようにプレイさせてくれよ」
必死の修一の訴えだったが、監督は一顧だにしていないようだった。難しい顔で首を左右に振って口を開いた。
「修一、お前の言う事も分かる。今までお前達のプレイに何度も助けられたと思う……」
「だったら……」
「だからだよ。今日のチームは全国大会の常連だ。ウチのチームの事もしっかり研究されてる筈だ。最高のコンビの事もな。1Qでお前達が出る。すると思う筈だ。『ああ、今日もあのコンビできたな』と、3Qで今度は健吉とコンビを組んでいるのを見る。『おかしい、何で塚倉という選手が出てこないんだ』と考えるだろう。相手チームはちょっとだけバランスを崩す。そこで4Qにお前が出て圧倒する、という作戦なんだよ」
確かに有効かもしれない。それを分かっているからこそ、修一も何も言えなくなったのだろう。
「修一、お前の気持ちも分かる。でも、今日はチームの為に我慢してくれ」
それを聞き、修一は顔を真赤にした。そして苦しそうに首を縦に動かした。
私は驚いた。何故監督が、中学生になったら男女に分かれるから、私達のコンビで全国大会へ行こうと修一が思っているのを知ったのかと。
監督としてプレイヤーの事を普段から良く見ているからなのか、大人は誰でも持っている能力なのだろうかと思った。私が大人になった時、監督のように色々な事を見抜く力が備わる自信が無かった。
控室に一応の和解の空気が流れ、5年生以下のチームメイトも顔を安堵させた。
監督はその後も選手の気持ちを高揚させようと言葉を尽くしてきた。その甲斐があり、試合開始時にはかなり良いコンディションになっているように見えた。
ただ、修一だけはずっと黙り込んでいた。
私達のチームにとって天王山となる試合が始まった。監督の言う通り、私と修一のコンビプレイは研究されているようだった。2人で点は取ったが、今までのような勢いは出なかった。
4点を背負って2Qと3Qに臨んだ。健闘したと褒められるプレイが出来たと思った。健吉とのコンビも、修一とのまでとはいかなかったが、調子が良かった。全国区チームと対しているにも関わらず、2点勝ち越して修一に手渡す事が出来た。
私と健吉はもう試合に出られない。ベンチに座り、手に汗握って試合を見つめた。パスが良く通るように、ボールがゴールに吸い込まれるように、明日声が枯れてもいいから一生懸命応援した。
相手チームはエースと2番手を4Qに投入してきた。修一をマークし、もう1人がコートで暴れた。
もちろん修一も頑張った。チームの下級生を励ましつつ、自分でも果敢に点を取りにいった。
しかし、孤軍奮闘の様相は脱しきれなかった。残り1分を切った時点で同点になっていた。修一の息はとても荒かった。
勝って当たり前の相手チーム。挑戦者の修一よりもプレッシャーを感じていたのかもしれない。エースのドリブルが乱れた時、5年生がボールを奪取した。
パスが修一に渡った。ゴールまでの数メートルを修一は必死に走った。そしてゴールに向かって、ジャンプシュートを放った。
『ボン』と、ボールがボードに当たった。修一のシュートはゴールに嫌われてしまった。
相手チームの2番手がリバウンドを取り、大砲のようなパスを飛ばした。エースはキャッチし修一に見せつけるように、もちろんそんなつもりは無く確実だからだろう、ドリブルシュートを放った。
無情にも、ボールはリングに吸い込まれていった。
「くそっ、まだ時間がある」
修一はすぐさまボールを拾い、チームメイトにボールを投げた。相手チームは勝利の感に沸いていた。今なら奇襲が成功する可能性は高かった。
「パス!」
修一が叫んだ。その瞬間、審判の笛が鳴った。
この瞬間、私と修一の願いが潰えた。全国大会の壁はとても高くて厚かった。
修一はコートに四肢をつき、涙で床を濡らしていた。私は駆け寄る事が出来ず、その姿を呆然と眺めていた。
この時真っ先に動いたのは監督で、私はさすがだと思った。監督が修一の肩に手を置くと、修一が顔を上げた。
私は不安に襲われた。修一が怒りの目で監督を睨んだからだ。修一が殴ると思った。私はベンチから腰を上げた。
しかし、私の予想に反し修一はスッと立ち上がり、もう監督に一瞥もくれずにベンチに帰ってきた。
私は何も声を掛けられなかった。
閉会式があり、意気消沈する私達の横で相手チームが大盛り上がりした。キャプテンの修一は、憮然とした表情のまま2位の賞状を受け取っていた。
その日、修一は言葉を発しなかった。
中学や高校と違い、最後の大会が終わったからといって引退という事はない。私や健吉はその後もミニバスの練習に参加した。どうせ中学に進学してもやり続けるのだから。
ただ、あれだけ熱心だった修一は体育館に現れなかった。あの決勝戦の日、修一は監督に不信を抱いたのかもしれないと思った。
修一とはクラスが違ったので、たまに廊下で姿を見かける程度だった。その顔は、多少影があるが、元気そうだったので私は安心した。
12月に入り、監督がミニバスクラブでクリスマス会をすると言い出した。練習と紅白戦をし、終わったら皆でケーキを食べようと。
私は、監督からクリスマス会の案内を修一に渡してくれるよう頼まれた。とても嬉しかった。修一と話す理由が出来たからだ。
「しゅ、修一」
それでも私は緊張していた。あの日監督を拒否していた目を、自分に向けられるのではないかと。
「おう、久し振りだな。どうした?」
私はホッとした。修一は変わっていなかった。
「あのさ、今度ミニバスクラブでクリスマス会があるんだって。紅白戦したり、お菓子とかケーキ食べたりするの。修一も来て欲しくてプリント持ってきた」
私から受け取った紙を、修一は目を細めて見つめた。顔から感情が消えていくのが分かった。私は直感的に断られると思った。
「うん、分かった。行くよ」
「えっ、本当に?」
「本当に、って何だよ。俺も久し振りにバスケしたいからさ」
「やったぁ、私も修一とバスケしたかったから嬉しい」
私は飛び上がって喜んだ。すると修一は薄っすら顔を赤くして横を向いた。
12月22日、まだその日は天皇誕生日の前日だった。そして、ミニバスクラブのクリスマス会の日でもあった。
「は~い、じゃあこれで今日は終わりです。明日は学校お休みです。また明後日会いましょう」
私は逸る気持ちを抑えきれず立ち上がろうとした。しかし、その瞬間冷や水を浴びせられた。
「あっ、ちょっと待って。みんな~、梅ノ木町のビル知ってますか? 今度そこが解体されるという連絡がありました」
早くしないと修一が帰ってしまうかもしれない。私はきもそぞろで、先生の話の間、早く終わって欲しいとだけ思っていた。
更に絶望的な事に、男子が質問をした。その内容の稚拙さに、私は『もっと勉強しろ』と内心毒づいた。
「先生~、カイタイって何ですか?」
「古くなったビルを壊すって事です。危ないですから、近付かないようにしましょう」
私達は声を揃えて『ハ~イ』と言った。そして今度こそ先生は終わりを告げ、私はランドセルを背負って修一の教室へ向かった。
梅ノ木町のビルは古く、ずっと壊されるという噂があった。オバケが出るという噂もありそもそも近付きたくもなかったので、壊されると聞いて私は安堵した。
恐怖に体を慄わし頭を振って、忍び寄ってきた考えを追い出した。そして修一の下へ走った。約束していたとは言え、当日になって突然気が変わったら嫌だったからだ。
私の心配をよそに、修一は当然のように行くと言った。そして途中まで一緒に帰り、後で体育館で会おうと約束して別れた。
クリスマス会は何も問題が起こらずに進んでいった。修一は数ヶ月のブランクを感じさせないプレイで下級生の羨望を集めた。
監督と修一が話しをしている時はドキッとしたが、険悪な空気が流れていないと分かるとホッとした。私は修一を誘った事、そして修一が来てくれて本当に良かったと思った。
そして、このクリスマス会の最も大きな功績は、その後修一が再び練習に参加するようになった事だった。私はとても楽しかったし、エースの指導で下級生達は上達した。
1月、ミニバスクラブの卒業生が練習に参加してきた。私達が進学する中学の2年生で、私や健吉は面識が無かった。
男女の中学生のプレイは凄く、私は全く付いていけなかった。さすが修一は、時に中学生を圧倒する場面もあった。
練習後、私と修一、健吉は中学のバスケ部の練習に誘われた。どうせあと数ヶ月で入部するのだからと、2回程参加させて貰った。
中学校の制服の採寸が終わり、2月の教室は何だか浮ついているように見えた。
私は不審に眉をひそめつつ自分の机にランドセルを置いた。そして、ランドセルの中身を机に移していると突然声を掛けられた。
「……、ねえねえ、どうする?」
驚き、理科の教科書を落としてしまった。2人の女子に気を向けておらず、言葉をハッキリ聞き取れていなかった。
「あっ、ゴメン、何の話?」
「だ~か~ら~、バレンタイン」
なるほど、もうそんな時期かと思った。いつも父親と弟にしか渡していなかったので、ほぼ興味が無かった。
「私さ、チョコ作るからさ、交換しない?」
「え~、それ、いい。リナも作ってみる」
ネットでレシピを調べるとか、ヒャッキンで道具が色々揃うなどと話していた。その傍らで、私は母親がクッキーを作るのが上手かったなと思い出していた。
母親に教われば失敗はしないだろうし、2人が満足出来るものを作れると思った。
「それじゃさ、私もクッキー作ってくるよ」
仲良し3人組で意見が合って嬉しかったのか、2人は歓声を上げて喜んだ。そして一瞬見つめ合うと、ニンマリ笑って私の方を見てきた。変な重圧を感じ、私はドキッとした。
「な……、何?」
「まさか、私達にだけじゃないよね?」
「う、うん……。お父さんと、弟にも」
2人は演技臭く首を折り、盛大に溜息を吐いた。
「そうじゃないじゃん。バレンタインって言ったらやっぱり男子にあげるでしょ?」
「アケミとリナは誰かに渡すの?」
「いや、私達はいないけど……」
「うん。でも、あんたは居るでしょ? 例えば、3組の塚倉くんとか」
心臓が突然速く動き出し、熱い血が全身に巡った。私は、自分でも頬が赤くなるのを感じた。
「な、何で、修一に?」
「えっ、だっていつも一緒にいるから」
「同じバスケクラブなんでしょ?」
確かにそうだった。アケミとリナは友達で、あげるのは“友チョコ”。
修一とは4年生の時は運動で競い、5年生からの1年半は全国を目指して一緒にバスケをしてきた。男子の“友達”の中でも一番仲が良いと言えた。いや、むしろ男女合わせても修一が一番かもしれなかった。
それならば、修一に“友チョコ”を渡すのも普通だと思った。
「あーそうだね。修一にも友チョコあげるよ」
2人は同時に『えっ?』という顔をした。そして『そうだね』と言うと、もうこれに関して話題にしてこなかった。私は何だかホッとした。
母親と一緒にクッキーを作った。アケミとリナには花やハートの形のものを。修一には、同じ6年生の健吉にも、バスケットボールとユニフォームの形にした。2人が最後に付けていたゼッケンナンバーも入れた。自分で言うのも何だが、なかなか良い出来だった。
バレンタイン当日、私は袋詰めしたクッキーをトートバッグに4つ入れて登校した。
通学路の途中で健吉の姿を見付けた。
「お~い、健吉~!」
私は健吉に駆け寄り、クッキーの入った袋を差し出した。
「ハイ、これ」
「えっ、何?」
「バレンタインデーだから」
健吉が袋を手に取った。ちょっと嬉しそうな顔を見て、私はやっぱり作って良かったと思った。
「ありがとう。でも、これって、ギリ?」
「違う、友チョコ」
「ああっ、そっちかぁ」
怯えたり、不安だったり、落ち込んだりと健吉の顔は忙しなく変化した。
アケミとリナはクラスメイトだから教室で渡せばいい。となればあとは修一のみ、私は校内に向かう人の中に修一の姿を探した。
その時、心臓が速く動き始めた。こめかみの辺りがジンジンし、視界の端が揺れた。体が熱くなって汗がじっとり出てきて、呼吸が速くなった。
朝起きた時調子は悪くなかった。突然不調に襲われたのだろうかと思った。通学路の途中で倒れたらマズイと思い、修一を探すのは後にして学校へ行こうと思った。何があっても保健室の先生が居るのだから。
そう思うと、体がかなり楽になった。足早に学校へ行き、既に来ていたアケミとリナにクッキーを渡した。透明な袋に入れていたので、2人は『カワイイ』と喜んでくれた。
気が付くと、もうそろそろ先生が来る時間だった。私は修一の教室へ行くのを諦めた。
授業の間の休み時間も短いし、昼休みも友達と遊んだらあっという間に過ぎてしまう。やはり私は修一の下へは行かなかった。
学校の帰りの会が終わった。これが最後のチャンスになるだろうと私は立ち上がった。何だか息苦しい。やはりどこかおかしいのかもしれなかった。
私は、修一にクッキーを渡したらさっさと帰り、熱を測って早く寝ようと思った。私は修一の教室へ向かった。
6年2組の教室を覗き込んだ。しかし、修一の姿が無かった。私は不安に襲われた。そこでクラスに居た女子に話し掛けた。
「あの……、修一はもう帰ったの?」
「えっ、塚倉君?」
その女子は教室の後ろのロッカーを見た。
「ランドセルあるから、まだいると思うよ」
「チーちゃん、帰ろ」
「ねえ、シズちゃんは塚倉君どこ行ったか知ってる?」
「塚倉君? あ~、カズミちゃんといっしょに体育館に行ったと思うけど。帰りの会の後に言ってたの聞こえたから」
何だろうか、危機感が私を襲った。言葉では表現出来ない、本能的なものだった。
私は2人に礼も言えず、踵を返して体育館へ向かって走った。途中で先生に注意されたような気がしたが、それも無視した。
間に合わないかもしれないと、意味が分からない焦りに追い立てられて体育館に着いた。中から女子の声がしたので、私はこっそり覗き込んだ。
修一とカズミが向かい合って話していた。カズミの手にはピンクのリボンでラッピングされた箱があった。
カズミの家はお金持ちという噂があった。いつも可愛い服や物を持ち、仕草も微妙にしなが付いていて小学生ながら女子力全開だった。
あの箱の中には高級で美味しいものが入っているのだろう。昨日作った時は誇らしかったクッキーが、今はとてもみすぼらしく感じた。
カズミが恥ずかしそうに俯き、箱を修一に差し出した。
私は胸が苦しくなった。自分でも気付かない内に『ヒッ』と悲鳴を上げていたようだ。修一とカズミの顔がこっちを向いた。カズミの目は恨みで眇められていた。
この場の空気に耐え切れず、私は脱兎の如く逃げ出した。クッキーの入った袋が落ちたが、それを取り上げるなど考えられなかった。
上履きだったが関係無かった。背後から修一の呼ぶ声がするが無視した。
ガムシャラに走り、今自分が何処を走っているか分からなくなった。後ろをチラリと振り返った。まだ修一は追ってきていた。
早く家に逃げ込みたいと、私は更に足に力を入れた。
その時、視界が、いや世界が揺れた。やはり、こんな目眩を起こす程体調が悪かったのだ。
続いて耳鳴りがした。私は、自分の体がどうなってしまうのか分からず、怖くなって両手で耳を押さえた。
次の瞬間、私は背中をドンと押された。油断していた事もあり、トトッと踏み出した後転んでしまった。
私は驚いて振り返った。
押したのは、修一だった。
この日から、私は修一と会っていない。