空っぽ
大事な時期にふといつも思い浮かぶのは明日の朝の事。
子供の時からずっとそうで親に連れられた歯医者や学校でふと明日を思い出してはどうせ死にはしないと果てしないように思える一歩をあっさりと踏み出す。逆に言えば自分の人生とは薄っぺらく、簡単に想像できてしまう程に滞ったものということで
本を読む。学校へ行く。帰る。本を読む。ゲームをする。寝る。この繰り返し。本やゲームを嗜む度にこの幻想に憧れを持ちながらもそんな現実なんて有り得ないと一刀両断し、また次の世界や登場人物の関係性を見て感情を揺する。この日常はいつも変わらないが、製作物はたった一人の人間にはありあまる程にいつも更新され続けている。
それでもいつも
非日常を前にしてまた明日の日常を思い出している。
『学校のみんなから嫌われてたよ』
本を閉じる。
高校生最初の春、僕は第二志望の辰尾前高校に受かったので、その入学式当日。特段進路だとかあんまり考えてはいない中学生時代において学校の決め方は家から近いからとかそんなところで、家から近い学校は競争率の高さからするりと落ちて滑り止めで受けておいた学校に受かった形だ。まぁとにかく、そこら辺何にも考えずに適当だった。
怠惰で無欲的、そんな意欲ゼロの人間というものは何処か空虚にも思えるようで誰からの好感もない。
親や先生が僕の進路について色々と進めてじゃあそれでと即決したのが運の尽きなのか、辰尾前は駅を乗り継いで軽く15分ほど歩いた先にある学校だった。
スクールバスだとかそういうものが出てる私立学校でも無く堅実一本の公立学校が第二志望なのは裕福な親のお陰とするところなのだが。片道費用300円と推測1時間の道のりはあまり遠出しない出不精の身の上にはまぁまぁ不安が募って、いつものごとく明日が過ぎっていた。
まず以て駅の乗り方なんてものすら疎い。姉に連れられた二駅向こうの松野の花火大会が僕の最長記録だ。
受験会場に向かったのも親の車だったし、結果を知る時だって同じ。母さんに大丈夫?と聞かれて反射的に大丈夫と応えたはいいものの、現在は電子マネーを抱えて駅に飾ってあるルート表と金額を睨み付けては改札の向こうにある停車する電車が本当にそこへ向かうのかという疑心暗鬼を抱えている。
父さんに貰った電子マネーは便利で改札の前で立ち往生をしていると駅員さんにそこで使うんですよと促されてセンサーに翳すと、料金が支払われた。財布の身は軽い。
《あとどんくらい残ってるんだろ》
あと何回分使えるのかとか、親に何も聞いてなかったからよくわからない。ただこれから何度だってここを使う事になると思えば、いざと言う時これどうすんだろ?とまだ使い方とかはっきりわからないそれを眺めながら停車してる電車に乗った。そのまま向かいのホームの車窓をなんの気なしに覗いてみると僕と同じ辰尾前の制服を着ている子がいた。
危うく別ルートへ飛ばされる所だった!
と急いで電車を出た。何分学校はまずまず遠いもので、僕と同じような制服を着てる人は彼女以外に見なかった…ような気もする。そんな事も気がする。
まぁそれでも事実、僕もまた彼女と同じようにして向かいのホームへ向かうべく、電車上の遊歩道を渡って出勤時ということもあってそこそこに多い人だかりを抜けていそいそと彼女の元へと向かった。
ホームに人気はほぼなくて、やや不信感すら募ったが、あの制服に勝る信頼はなかった。
それと同時に停車していた電車は再び走り出していた。
《でもサイトに書いてる時間はこの時間だった筈。なんか探し方間違えたかな。》
とはいえ同じ制服を着てる生徒がいるのならそれについて行けばこれから先、あまり悩む必要はない。ついていくだけで僕は登校の仕方を学べる。
電車が来るまでは人気のないホームで待った。
携帯は親にかけられた制限が掛かってるので、極力稼働させずに鞄に入れた漫画や小説に助けをもらうこととする。かといって待ってる間の小説は字が入ってこないし、ここは漫画となる。
漫画を鞄から取り出して表紙をめくった。
こちら側のホームは東日が入ってくるようでローファーの足先を日差しが掠めていた。夏さながらにも思える温もりをつま先から感じるが、暑く感じないのは風の影響か、強く吹いた風に頁が勝手に捲られた。
「…うわっ…」
ていうか突風だ。風を避けるように風下に顔を背けると件の子と目があった。至近距離、手を伸ばす必要もないくらいの近さだ。というか隣に座っている。
意識が曖昧になって、水面を覗くようにただじっと、何も考えない間が生まれた。ぼーっとする。
惹きつけられていた。
いつの間にこの人はこんなにも忍び寄ってきていたのだろうか。そのまま沈黙の幕が降りる。
青春的1ページの一コマにも思えるが、当然そんなものはありはしないということを熟知しなくては痛々しい門出を迎える。よくよく自覚してゆっくりとゆっくりと僕は目を背けた。それから何もなかったように漫画を閉じて電車が来るであろう方向に向き直った。
「それゆうらん?」
話しかけられて驚きすぎて肩が跳ね上がった。
ゆうらんとはこの漫画のことで優秀ランドセルというタイトルの略称だ。
天才小学生が自由気ままに学生生活を送っている様を見る日常系の漫画で、抑揚もなく、かといって卒業へと着実に向かう6年間を描いている。
タイトルからして卒業とともにこの漫画も終わる事はわかっているのだが、主人公の成長や周囲の人間の成長もまた見所でどいつもこいつも僕よりも大人っぽく、彼らは小学5年生だった。
アニメ化もするらしい。
「…まぁ」
「そんなに好きじゃないんだよね。リアルじゃないし。」
彼女はリアル思考のようだ。だからといってその感想を述べたなら大体の漫画は理想でしかないのだが。
返答は困る。困るような事を彼女は言っているのだから当然だ。だって現にこの漫画に熱を上げていたのは確かで態々本屋で探し続けた事もあった。
運命的な気がしたけれど、やっぱり僕の感性は正しくて気のせいだ。
「あぁそうですか」
「好きなの?」
この質問に対して僕は再び漫画に目を落とす事で応えた。無視である。
感じの悪い相手に対して感じの悪さで返すことにした。一々相手を気遣うなんてしていたなら僕の携帯はもっと稼働していただろう。生憎僕はこの場で携帯を投げ捨てられる。ちらつくのは親の顔だけ。
「好きなんだ」
しつこい…。かといってこの手の相手を剥がす術なんて知らないから横長の待合席で少しだけ横にズレた。
迷惑していますよ?という反応を行動で示しているつもりなのだが、そんなのお構いなしに彼女は僕の前に立った。
《ヤバいやつだ…》
踏み出す足の音がはっきり聞こえて、ゾッとして顔を上げた。
「辰尾前でしょ。」
電車はきた。だが、目の前にいる彼女はそんなものに目もくれずに僕を真っ直ぐに見て、立ち往生を決め込んでいる。態度が露骨すぎて怒らせてしまったのだろうか?そんな危惧を他所に彼女は僕に詰め寄った。
「私と同じ学校なんでしょ?」
だから僕はこっちに来たのだが
「まぁ…はい。電車、来ましたよ?」
そう言って逃げるように電車に乗り込むと当然のように彼女も僕の後を追ってくる。そして人気のない車両で四人席に座り込めば。彼女は当たり前のように対面に座った。
最早何もかもが何故だろう?という疑問符に変わるレベルだ。知り合いだったりするのだろうか?などと彼女の顔を2度3度見たところでやっぱり見覚えはない。
というか普通に良い容姿をしているからか、殊更見覚えがない。どこの学校?と聞いたところで僕はかつての中学しか何も知らないから無駄な会話に過ぎないだろう。ただ、向こうも向こうで落ち着き払った様子で携帯を横にした。アプリゲー?
また席を変えるという発想もあったけれど、ここまでついてくる相手に対しては最早無駄な気がしたので漫画とは違う小説を手にした。
久しぶりに沈黙が降りて車窓は姿を様々に変えていく。集中力というのは凄いもので先程の謎に気まずい空気感もどこへ向かったのか、僕の中は完全に手にした小説でいっぱいだった。
木之内くんはホントに素直だなぁと限界化を迎える事数度を繰り返している頃、彼女が小声で何やら喜び勇んでいたので、その時に集中が途切れ、乗り継ぎしなくてはならない事が頭に過ぎって本を閉じた。
ルート表と睨めっこした経験が活きた。あと、朝の母さんからの心配性な会話からも緊張感は蘇る。
《危うく忘れるところだった》
確か道矢野駅で博髙方面への乗り換えだった筈。今はどこだろう、再び停車したところでルート表を暗記した記憶を頼りに停車駅の看板をさっと見た。
凍り付いた。
血の気が引くとはこの事だ。
そこには僕の記憶に全くない駅の名が書かれていた。
《どういうこと…だってこの人…いやそれより!》
慌てて電車を降りると相変わらず彼女もそそくさと僕の後を追ってきた。…そこでようやく察した。
この人は僕がこの人を見て向かいのホームに渡った理由と同じ理由で僕の後を追ってきている。強がって自分一人でどうにかなると背伸びし、その矢先、相手の流れに乗ってしまった結果の失敗をしている。
僕は乗るべき電車を乗り損ねた上に違う方向へ向かって進んでいた。
「あ、終わった」
爺ちゃんにプレゼントされ、鞄に括ったデジタル時計をふと見れば、8時だった。順調に行けば学校には悠々と付けるだろうと心なしかちょっと早めに家を出た筈なのに今は家よりも遠ざかった。
「どうしたの、真っ青な顔して」
入学式当日、遅刻確定だ。
対して目立たないライフスタイルに向けられる衆目を思えば気を失いそうにもなった。校門は遅刻した僕の為に開いてくれているのだろうか。入学式中に体育館へ入る事はできるのだろうか。初対面の先生に何を言われるだろう。
色んな不安要素が頭に浮かんで目が回った。
もうそのままの足で家に帰ってやろうかとすら思ったが、両親は共働きで大学生の姉はきっと家にいない。弟も僕と同じ理由でいない。
つまり家に誰もいないし、僕は家の鍵を持っていない。退路はなく、真っ直ぐに学校へと続いている。
「ほんとに知らなかったんだね」
「なんのこと?」
彼女に焦りは全く見えない。それもその筈で僕の背に勝手に乗りながら呑気な奴だ。この人も遅刻確定だろうに、そんな事などつゆ知らず、どことも分からない辺境にも思える寂れた駅で鼻高々な面持ちだ。
「ゲーム、しないの?」
待ってる間、漫画にすら手がつけられず、かといって携帯は最終手段なので電車がくるであろう方向でずっと待った。その間、この場合の電車での決算のされ方はどうなるだとか延々と考えていたところだった。
呆然と座り尽くしているところでまた暇を持て余す彼女からの質問が降ってくる。今度は何も手につかなかったから普通に応える事にした。
「する方だよ」
「何やってるの?」
「塗る奴」
「あーね。フレコ交換したいけど持ってきてないや。携帯はあるんだけど…」
「はぁ…は?」
いきなりセキュリティレベルの低い話をされて困惑を覚えた。初対面でしかない相手に突然そんな事を聞ける女子がこの世にいるのだろうか?
僕の場合は全く常識の範疇じゃない。
しかしその聞き方に対して家族しかいない分、その提案に対する防御レベルは低かった。
「いい…けど」
ちょっと嬉しかった。嫌味な奴なのに変な話、僕はちょろい。
「じゃあ交換だ!」
「どうやるの?」「えっと」「あぁ中身を覗かずに!言葉で説明して!」
携帯の情報の交換の仕方はよくわからないが、かといって僕の弱い部分こと友達0人を見せるわけにもいかないので携帯画面は見せずに各々自分のスマホに目を落として、口述で教えてもらう事となる。
「届いた?」
三峰という名前と一緒にMHと書かれたイニシャルのキーホルダーが映ったアイコンが彼女のメッセージとともに届いた。
「…有給?」
あっちもあっちで僕の名前とアイコンを見てひっかかっているのだろうが、ただし彼女が口にしたそれは僕の名前ではない。
「ありゆい。給われるじゃなくて結ぶ方の」
「あーなるほど?そっち何か送ってよ!」
分かってなさそうだ。分かってなさそうついでに最初のメッセージはこうしよう。
【さっき電車間違えました。遅刻確定です。すみません。】
「…え」
その反応を見て僕はまた電車がくるであろう方向へ向き直った。横で携帯を握ったまま凍り付いた三峰さんは放っておく。怒るにしろ何にしろ、僕のうさは晴れていた。すぐに重くなる携帯は大事に鞄にしまって、代わりに漫画を取り出す。心にゆとりができたのは不安は共有する相手がいてこそだろうか?
まぁ原因が彼女であることに違いはないのだが。
…友達か。三峰さん、Hという事は平子とか?
春?
寂された電車のホームで漫画を読む目の端に一枚の桜の花弁がするりと落ちてきた。周囲を見渡してどこから飛んできたのか気になったのだけど、すぐ横の三峰さんが真っ青でふわりとした思惑は飛ばされていた。