仮にもわたくしは主君ですよ!?
永禄四年 十一月 沢森城 沢森政忠
「なんだこのざっくり三昧な絵図は?しかもあとよろしくって!」
「いや、だからざっくりと言うか、深沢家は代々うちに仕えてくれてるけど、漁師の家系で平時は漁にもでてるんでしょ?」
「いや、まあ、そうだけど。それにしてもざっくりしすぎだろう?丸投げも甚だしい。クジラ一頭に二十隻前後の船で囲んで追い回す。そして網でつかまえて弱ったところを、銛で刺しまくって捕まえる。まあ、大体想像はつくが・・・」
このやろう!っと腕を頭に回してぐいぐい締め付けてきた。
「あいたたたた!だからー、大変な分、実入も多くするから!」
「鯨とれれば七浦潤うって言うでしょ?」
「ななうら?なんだそりゃ?」
はい、当然のつっこみです。後々できる格言だからね。
でも一頭とれれば四千両にはなる鯨。放置はできません。
鯨は捨てるところがない。
食用に油に、工芸品や武具、薬や肥料、香料にもなる。
仮に、不漁が続いて一年で一頭しかとれなくても、年に四千両だ。
でもそれはありえないだろう。
実際には享保10年(1725)から安政6年(1859)までの130年間に21,700頭を捕獲し、と文献にも残っている。三千人体制だから、三百人で十分の一だとしても年間十六頭にはなるだろう。
最低、めちゃくちゃ最低年に一万六千貫。
経費は一隻十人の船で二十隻、ちょっと増えて三百人の漁師代(漁師プラス解体、加工等の職人)が一日千八百文。月に五百四十貫。一年でも六千四百八十貫。
ざっくり月に千貫(1億二千万)は最低で残る。石けんとあわせると二千貫だ。
わくわくしてきた。
にやにやと妄想しながら、そんなやり取りをしているのは、牡蠣の浦海戦で顔なじみになった、四つ年上の深沢義太夫勝行(16)だ。年が近いせいか、中学入りたての弟を高校生の兄貴がからかいながら、(しょうがねえなあ・・・)みたいなやり取りである。
他の家臣がみたらびっくり仰天!勝行は切腹もんだろう。
そうならない様に、表には小平太を立たせてある。誰か来たら押し留めて、大声で知らせてくれる算段だ。
障子の外から小平太の(ん、ん、ごほん。)と言う声が時折聞こえる。
「あ!忠右衛門様!ん、んん、ごほん、殿は今取り込み中です。少々お待ち下さい!」
俺は襟を正し、勝行はざざざっと下がって正座をする。
一呼吸おいて、
「良い、通せ。」
と忠右衛門を呼び込む。
「いかがした?忠右衛門」
・・・・・・・・・・・・・・?
ん?顔が真っ青だぞ。
「申し訳ございません!塩は大赤字にございます!」




