表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
33/37

歌姫

お客が、こちらを見ていない。


遠く離れたステージの音に、惹かれている。


明日香は、絶望を感じ始めていた。


どんなに吹いても、


誰にも届かない。


初めての感覚だった。


バックのミュージシャンも、冷や汗を流し、焦りを感じていた。


「これ程とは…」


ステージの袖で、サミーは唖然としていた。


何とか、意識を保とうとしなければ、


意識が、持って行かれそうになる。


アメリカで聴いたときより、数段凄くなっている。


成長している。


「啓介」


サミーは、遠くのステージを睨んだ。


「明日香…」


明日香の後ろめたい…


こんな音では勝てない。


苦しそうな明日香を、


サミーには、どうすることもできない。


サミーは、拳を握りしめた。

その時、サミーの横を、


赤い影が、通り過ぎた。


サミーは、横を見た。


そして、


目を丸くした。


「恵子…」


ちらっと見えた横顔は、遠い日に、


サミーが、出会った女に似ていた。


生まれたばかりの啓介を、アメリカまで迎えに来た…


一人の女。


若く美しい女。




香里奈は、楽器ケースを抱え、ステージに上がった。


真紅のドレスをなびかせて。




「ちがう。あれは…」


サミーは、目を凝らした。


香里奈は、激しいリズムに、トランペットを吹き続ける明日香の前に立つ。


明日香は、大量の汗をかき、目をつぶりながら吹いている為、


香里奈に気づいていない。


香里奈は、ステージ横に置いてあったマイクを、拝借していた。


楽器ケースを置く。


マイクを少し叩き、音がつながっていることを確認すると、


大きく息を吸い、


思いっきり、


「あああああああああああああ!」


と叫んだ。


甲高い叫び声が、会場全体を包み、


あらゆる音を凌駕した。


観客は、はっとして、反射的に、


Bステージを見た。


啓介もまた、


その存在に気づいた。


明日香は、目を開けないが、ぴくっと反応はしていた。


しかし、


啓介も明日香も、互いの演奏をやめない。


香里奈は、そんな2つの音の狭間で、静かに、頭を下げると、


歌い始めた。


荒れ狂う啓介のサックスと、


激しい明日香のトランペットを、


無視するかのように、ゆっくりと、言葉を語り出す。


「日本語?」


サミーは驚いた。


曲は知っていた。


サミーは震えた。


「Yasashisaだ…」



それは、昔…


和美の残した遺作に、


明日香が手を加え、完成させた曲だった。


静かなバラード。


爆音の中。


香里奈は一人、


バラードを歌う。


やさしく、丁寧に。



「そうだ…」


サミーは、涙を流していた。


「これなんだよ!明日香」


何も、大きな音に対抗するのに、


同じく大きな音で、対抗することはない。


人の耳は、爆音の中でも、大切な音を聞き分ける。


そして、


他の音を、遮断することができる。


美しく、心地よく、


やさしく…語りかけてくる音ならば。


啓介たちの音は凄いが、


語りかけてはいない。


「畜生…俺は言葉はわからないけど…お前らはわかるんだろ…」


サミーは、涙を拭った。


観客の狂ったような騒ぎ方が、少し治まってくる。


そして、


何とも言えないざわめきに変わり、次第に…静かになっていく。


「歌だ…素晴らしい歌だ…」


サミーは、もう拭うことをやめた。


涙はどうせ、


止まらないから…。


今、


香里奈は歌手として、


目覚めようとしていた。





周りの変化に気づき、


明日香は、目を開いた。


目の前に、何万人もの視線を感じる。


しかし、


それは、明日香に向けられたものではなかった。


「香里奈…」


思わず…トランペットを、唇から離した明日香。


マイクを持った香里奈が、


明日香の目の前にいる。


そして、広い会場にいる観客は、


明日香でも、啓介でもなく、


香里奈を見つめていた。


明日香は、演奏をやめる。


バックのミュージシャンも、演奏をやめていた。


香里奈はアカペラで、


やがて、


Aステージから聴こえる啓介の音に合わせて、


言葉を紡ぐ。


啓介の音とやりあうでも、溶け合うでもなく、


包み込むように。


啓介の音はいつしか…


単なる伴奏になっていた。


音のドラッグといわれた、


その音は…


すべての毒素が、香里奈の歌声によって、


消えていく。





香里奈の歌が、終わるとともに、


啓介の演奏も終わる。


会場が、静まり返る。


香里奈は一歩、前に出る。



そして、深々と頭を下げた。


その刹那、


会場は、大きな拍手に包まれた。




明日香は...自嘲気味と笑うと、


ゆっくりと、香里奈に近づいた。


「ママ」


香里奈は、満面の笑顔を明日香に向ける。


そして、


足元に置いてある楽器ケースを、明日香に差し出す。


少し驚きながらも、


明日香は、ケースを受け取り、


中から…トランペットを取り出した。


明日香は、今手にしているワウ・ワウ・ペダル付きのトランペットから、マウスを取ると、下に置いた。


そして、


懐かしきトランペットに、マウスをはめる。


「曲は?」


明日香の問いかけに、


「Like I Love You」


香里奈は、明日香に告げた。


それは、志乃と大輔が書いた曲だった。


それは…自分に音楽を教えてくれた先生であり…去っていったバンドメンバーに…


憎悪と寂しさ…


悲しさと、


自分達が、元気にやっているという報告を。




「OK」


明日香は、一言そういうと、トランペットに口づけをした。


暖かく、包み込むような音。


先程の香里奈と、同じ感触の音。



「これだ」


サミーは、何度も頷いていた。


バックが、明日香に続いた演奏を再開する。


香里奈は歌い出す。


暖かく、


穏やかな風が、吹き始めた。






「俺の…俺達の歌…か?」


ひたすら、ギターを弾いていた大輔の手が止まる。


大輔だけじゃなく、


すべてのメンバーが、動きを止め、


Bステージを見つける。


観客も…全員が、向こうのステージを見ていた。


演奏をやめていた啓介は、その様子を見、笑みを浮かべると、


そのまま天を見た。


陽は、落ちかけているが、


どこまでも青い空。



啓介は、ゆっくりと歩きだした。


暖かい音をバックに、ステージを降りる。


遠くで、陽も落ちていく。


もうすぐ夕焼けに変わる。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ