憧れ
大きく息を吐くと、
明日香は、ワウ・ワウ・ペダルをつけたトランペットを構えた。
こんな場所が、あったのか。
狭い日本に。
何十万人という人々の熱気と興奮が、
チリチリと、明日香の肌を刺激した。
遠く見えるAステージでは、
啓介たちが、スタンバイしている様子が、わかった。
「いきましょう」
後ろに、控えるトップミュージシャンの方を、チラッと見ると、
明日香は、ステージに向かって、一歩…足を踏み出した。
これ以上はない晴天の空に、
ひんやりした空気が、気持ちよかった。
緊張はない。
明日香は、トランペットを銃の如く、
前に突き出した。
「啓介…」
明日香は呟くと、目をつぶり、
トランペットのマウスに、口づけた。
それは……向こうのステージで、啓介がサックスをくわえたのと、ほぼ同時だった。
チケットを、入り口で渡すと、
香里奈は、だだっ広い会場に飛び込んだ。
興奮状態の観客をかき分け、
香里奈は、明日香のいるBステージまで急ぐ。
観客のほとんどは、啓介がでるAステージに、注目していて、
bステージは比較的、空いていた。
何とかステージ近くまで、近づいた時、
明日香が、ステージに上がる姿が見えた。
「ママ…」
香里奈は、明日香を見上げながら、
ステージと観客を遮っているロープを伝い、スタッフ通路へと近づく。
ステージを守るガードマンを尻目に、向こうへ渡る隙を探すが…
ない。
香里奈は仕方なく、
堂々と、ロープをくぐることを決めた。
ステージの脇まで来ると、香里奈はロープの下に、潜り込む。
すぐに、ガードマンが止めにくる。
香里奈は逃げずに、逆に…ガードマンの腕をつかんだ。
驚くガードマンに、
香里奈は、耳元で囁いた。
演奏が、始まっていないとはいえ、周りの雑音は、凄まじい。
「あたしを…母の所まで連れていって」
ガードマンは訝しげな表情をしたが、
「あたしは、速水明日香の娘です」
香里奈は、強い意志の瞳を向けた。
香里奈は、一般の人々が入れない関係者だけの…簡易プレハブに通された瞬間、
2つの音の塊が、ぶつかり合った。
観客が、歓喜の声をあげる。
一つは啓介。
もう一つは…。
「ママ!?」
香里奈は思わず、声を上げた。
「これは…」
ガードマンがスタッフに、香里奈の確認をとっていた。
「そんな予定はないと…」
ガードマンたちの話を無視し、香里奈は音にだけに、耳を澄ませた。
「これは…ママの音じゃない…」
香里奈は絶句した。
明日香の音は、普段とまったく違っていた。
「こんなの…ママの音じゃない!」
香里奈は叫んだ。
「そうねぇ…ご、こんなじゃない」
少しかすれた声がした。
「せんせいのおどじゃない」
香里奈は、声の方を見た。
「かりな」
スタッフの中から現れたのは、
少しやすれてはいるが…
「志乃ちゃん…」
紛れもなく、天城志乃だった。
志乃は喉を押さえると、何度か咳払いをした。
「志乃ちゃん…どうして、ここ?」
「もともと…あたしがでるはずのコンサートだから…」
志乃は、ステージの方を見つめた。
壁で、向こう側は見えない。
志乃は、フッと笑う。
香里奈は、志乃の横顔を見つめ、
「体は大丈夫なの?」
志乃は、香里奈の方を見ると、
微笑み、
「おかげさまで…声以外は、大丈夫」
香里奈は、黙り込んだ。
かつては、天性の歌声と言われた声が…。
そんな香里奈に近づき、
志乃は抱きしめた。
「大丈夫。あたしは負けないから」
志乃は、ぎゅっと抱きしめ、
ゆっくりと離れた。
「香里奈ちゃんに、渡したいものがあるの」
志乃は、香里奈の腕をつかむと、
女子トイレに連れて行く。
「あたしの楽屋…今回はないから…」
かすれた声ながら、
志乃は、嬉しそうだった。
紙袋を、香里奈に押し付けると、
「これに着替えて…」
香里奈は、トイレの中に入ると…
着ていたジャケットと、Tシャツを脱ぐと、紙袋内を確認した。
「?」
香里奈は、首を傾げた。
「やっぱり似合ってるわ」
トイレから出てきた香里奈の姿に、志乃は頷いた。
「これは…?」
香里奈は、洗面所の鏡に映る自分の姿を眺めた。
赤いドレス…
真紅のドレス。
志乃は、感嘆のため息をついた。
「昔から思っていた…」
志乃は、香里奈の後ろに立ち、
「あんたは…似てるわ」
「誰に?」
志乃の目が、遠くを見る。
「真紅の歌姫…河野和美。あんたのおばさんよ…」
「か、和美おばさん…?」
香里奈は、会ったことがない。
香里奈が生まれる前の年に、亡くなっている。
「あたしが憧れた…最高の歌手…」
志乃は、ドレス姿の香里奈のうっとりと見つめ、
「あたしが、ファンだったから…明日香先生が、あたしがステージデビューする時に、くれたの」
「ママが…」
「でも…まだ一度も着たことがない…。まだ、あたしには、その資格がないから…」
志乃は、悲しげに笑う。
「志乃ちゃん…」
志乃は、香里奈の両肩を持つと、
体を、トイレの外へ促した。
「香里奈ちゃんは、資格があるわ」
志乃は、ぽんと背中を押す。
「いってらっしゃい。みんなが、待ってるわ」
「志乃ちゃん…」
香里奈は、志乃の方に振り返った。
「さっさと行きなさい」
志乃は笑顔で、香里奈を送り出した。
通路を走っていく香里奈の後ろ姿を、見つめながら、
志乃はため息をつき、壁にもたれかかり、
軽く笑うと、
「チクショウ…」
そう呟いた時には、志乃は泣いていた。
本当は、
あたしが着て、
あたしが歌いたかった。
なのに…。
何が、
歌姫よ。
「あたしは…」
志乃は、そのまま崩れ落ち、
その場で、泣き崩れた。