前夜祭
激しいシャワーの音。
滝のように降りしきる。
大量の湯気が、
ガラスを曇らせる。
「KK」
ガラスの向こうから、声がした。
蛇口を閉め、シャワーを止めると、啓介はバスタオルをつかみ、バスルームを出た。
「KK。会場で、リハーサルの予定がありますが…いかがしましょう?」
ティアの言葉に、
啓介は鼻を鳴らすと、
テーブルに置いてあったグラスに、手を伸ばした。
もう氷が溶け、水のようになっていた。
「新しく、お作りしましょうか…」
「頼む」
啓介は、グラスを渡すと、ベットに座った。
ティアは、小さな冷蔵庫から、氷を取り出すと、新しいグラスを2つ用意し、
そこに氷と、ワイルドターキーをそそいだ。
「リハには、参加しない…大輔たちだけで、やってくれ」
ティアから、グラスを受け取ると、啓介は一口飲み、
顔をしかめる。
「どうかしましたか?」
ティアは、ワイルドターキーのボトルを見、
「お口に、合いませんでしたか?いつも、これをお飲みになられていたので…」
啓介はフッと笑い、
「違うよ…ただ…」
グラスを傾け、
「好きな酒は、変わらないらしい」
「KK…」
ティアは、啓介の横に座ると、そっと、
啓介の手の甲に、手を重ねた。
「心配するな…」
啓介は、ティアの顔を覗き込み、微笑んだ…。
「俺はもう…」
グラスの中の氷を揺らし…一口飲む。
「戻れない…」
「KK…」
ティアは、少し不安そうな表情を浮かべる。
啓介の微笑み、
手の暖かさが…
先日までの男とは、違っていた。
女の勘が、告げていた。
この男は、いずれ離れていくと…。
しかし、
それは、許せないことだった。
KKなしでは、ティアの望みはかなわない。
ティアは、啓介の頬に触れた。
香里奈に殴られたところ。
その痛みが、KKを変えていく。
「KK…」
ティアは、その場所に口づけをして、
そのまま…啓介の胸に両手を添えると、
ゆっくりと、ベットへと啓介と倒れていった。
明日香が、所属するレコード会社の地下。
そこにあるスタジオ内で、
明日香と…アメリカのトップクラスのスタジオミュージシャンが、集まっていた。
レコード会社の関係者たちは、色めき合い、
所属アーティストたちも、覗きに来ていた。
世界中の数多くの名盤に参加し、多くのアーティストにその音を求められる……
Mr.Perfect Soundと呼ばれる者達。
彼らが一同に揃い、日本にいることは、奇跡だった。
そして、
さらに、見学者を驚かせたのは、
明日香の音だった。
トランペットにつけたワウ・ワウ・ペダル…。
かつて、ロックフェスティバルに参加する為に、
マイルス・ディビスが導入し、
エレキギターのようなサウンドをだす為に、使った道具。
明日香はスタジオの中…吹きまくっていた。
その様子を、見ていたサミーは…ずっと、苦虫を噛み潰したような顔に、なっていた。
30分程…吹きまくった明日香は、マウスから、口を離すと、
流れる汗を拭った。
「どう?サミー」
明日香は、サミーの方を向いた。
サミーは肩をすくめ、
「お前のことだ…悪くはねえさ…。だが…気に入らねえ」
サミーは、明日香を睨み
「これは、お前の音じゃねえ」
首を横に振ると、
「お前の音は、もっと繊細で、暖かく…その癖、力強い音だ」
明日香は黙って、
サミーの言葉をきいている。
「なのに、今の音は…ただ大きいだけだ!ワウ・ワウは、お前には似合わない」
「サミー。だけど…」
「いつもの音じゃ、啓介と混じり合ってしまうことは、わかっているが…」
サミーは、首を横に振り、
「お前の音じゃない」
明日香は、ワウ・ワウをつけたトランペットを見つめ、
「啓介の音から、みんなを守る為には…これしかないの」
「邪魔する為の音楽か。ケッ!」
サミーは、スタジオを出た。
「明日香…」
他のミュージシャンが、明日香を心配そうに見る。
明日香は微笑みかけ、
「練習を続けましょう」
再びトランペットに、口づけをした。
香里奈は一人、マンションに帰ると、ソファに座り…ぼおっとしていた。
何も考えていないはずが…
いろんなことが、頭に思い浮かんだ。
ステージ。
小さい頃は…
ダブルケイで。
記憶は薄れているけど…親子で行ったアメリカ。
ニューヨークの小さなライブハウスで、香里奈は歌っていた。
みんなの笑顔。
それは、覚えていた。
この前のコンサート…。
夢中で、覚悟して、上がったけど、
ステージの広さは、覚えていた。
高い天井に、多くの人たち。
「歌いたかったな…」
香里奈は呟いた。
最近まで、何も興味を持てない…無関心な人間だと、自分で思っていたけど、
違った。
好きなことは、わかっていたのに、
無理やり、嫌いにしてたから…、
何も興味を、持てなかったのだ。
志乃の言葉。
歌って。
その言葉が、香里奈の心の壁を壊した。
今まで、せき止めていたものが、
一気に溢れそうだ。
香里奈は立ち上がると、
CDラックから、一枚のCDを取り出した。
LikeLoveYou。
明日香と啓介のバンド。
聴きたくても、聴きたくなかった音。
香里奈は、CDをかけた。
Yasashisa。
それは、伝説のシングルだった。
この曲が、明日香の始まりであり、
世界中に、知られるきっかけになった曲だった。
啓介たちとのバンドヴァージョンと、
明日香と和美だけのシンプルなアコースティックヴァージョン。
香里奈は感動した。
こんな風に歌いたいと、
初めて、素直に思った。
かつて、
恵子はこれを聴き、
自分をこえた明日香に、涙した。
そして、
今、
これをこえたいと、
香里奈は思った。
世代をこえ、
今、音がつながっていく。
香里奈は、今やっと…歩きだせるのだ。
ダブルケイの営業が終わり…カウンター席で、一人タバコを吸う里美。
明かりを消したステージ。
見つめながら、もの思いにふける。
ゆっくりと、扉が開いた。
「ただいま」
明日香だった。
「おかえり…。今日は、帰らないと思ってた」
明日香は少し、疲れた様子だった。
「和恵がいるからね。できるだけ、目が覚めたときに、そばにいてやりたいから」
明日香は、カウンターに座った。
里美は立ち上がり、カウンターの中に入る。
「飲む?」
「頂くわ」
里美は、いつものお酒をつくる。
ワイルド・ターキー。
2つのグラスを見て、
「あんた、飲めないんじゃ…」
明日香の言葉に、
「一杯ぐらい、つき合うわ」
里美は、グラスを明日香に差し出した。
明日香は苦笑して、受け取ると、
「乾杯」
静かに、グラスを合わせた。
「明日ね…コンサート…」
里美が、呟くように言った。
「うん…」
明日香は、グラスを見つめる。
少し無言で、時が過ぎる。
里美は、カウンターの中から、明日香を見つめ、
やがて、
ため息をつくと、カウンターから出て、明日香の隣に座った。
「明日香…あんたは、変わったわ」
里美は言った。
「対決とかするんじゃなくて、啓介さんがいるところに行って、直接話したらいい!香里奈みたいに、気持ちをぶつけたらいい!」
里美は叫んだ。
しかし、
明日香は、静かに立ち上がると、扉に向かって、歩き出した。
「明日香!」
里美は、後を追おうとしたが…酔いがまわっていた。
思うように歩けない。
「明日香!」
里美を、無視するかのように、明日香はダブルケイを出た。
真夜中の薄暗い照明と、
月明かりの中、
明日香は佇んでいた。
恵子が眠る墓地。
こんな山の中の墓地に、
夜中、来る人はいないと思われるが、
防犯の為、明かりは付いていた。
それに、まだ上の方にも、何軒か民家はあった。
明日香は、恵子の墓を見つめ、
「ママ…。あたし…こわいの…今更だけど…」
明日香は少し…無理やり微笑んだ。
「啓介と向き合うのが…」
風が強い。
明日香の髪が、風になびく。
「絶対生きてると…信じて、今まで来たけど…」
明日香は考えていた。
こういうとき…ママなら、何て言うかしら…。
「アメリカでも、探したけどね…いざ、生きてると知って…確実に、会えると分かっていても…」
明日香は目を閉じ、
「こわいの。生きていたのに…今まで、会いに来なかったということは…もう、あたしに会いたくないのかもしれないと…」
明日香は目を開け、
ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「でもね…ママ」
明日香の頬を、涙が流れた。
「そんな考えじゃ…ダメなの」
明日香は泣き顔で笑い、
「明日。どういう結果になろうと…あたしは、啓介に会うわ」