恋人
パニックになった会場を背にして、
KK…
いや、
啓介は、歩いていた。
「うう…」
いきなり、頭を押さると、啓介は呻きながら、通路の壁に手をつけた。
「ここは…」
頭がはっきりとしない…
霞がかかっているような感覚。
「何やってるんだよ!」
知らない女が、殴る映像が浮かぶ。
啓介は、その場に崩れ落ちた。
「俺は…どこにいるんだ…何をしてた…」
思い出せない。
「あ、明日香…」
啓介の頭に、明日香の顔が浮かぶ。
「明日香…俺は…」
「KK!」
遠くから、ティアが近づいてくる。
啓介は目を細め、ティアを見る。
光の中から現れたティアが…
「啓介…」
笑顔で向かってくる。
「ゆ、ゆ、百合子…」
啓介には、天城百合子に見えた。
「うわあああああ!」
絶叫とともに、
啓介の精神は、また落ちていった。
ライブハウスに、ゲストで呼ばれていた啓介は、
出番を終え、アルトサックスをケースにしまう。
「お先に。お疲れ様」
知り合いのバンドメンバーに、挨拶すると、外に出た。
「啓介さん」
ドアを開けると、
一人の女性がいた。
「天城さん…」
啓介は少し驚いた。
そこにいたのは、天城百合子だった。
百合子は、笑顔を浮かべ、
「ライブ見ました。さすが啓介さんですね。感動しました」
「ありがとう。でも、どうしたの…こんな所まで」
「この前、ダブルケイに行ったときに…今日このライブに飛び入りすると聞いて」
「そんな話したかな…」
啓介は、首を傾げながら、歩き出した。
百合子は、微笑みながら、
啓介の隣を歩く。
「あたし…ちょっとストーカー入ってるかも…」
百合子の言葉に、
啓介は、目を丸くした。
「ストーカー?」
「はい!」
元気よく返事する。
「誰の?」
啓介の問いに、
百合子はクスクス笑い、
「啓介さんの」
「え!?」
思わず声を上げた。
百合子は、少し前を歩き、振り返った。
「限定ですけど…」
そう言う百合子の表情が、啓介には気になっていた。
啓介は頭を振ると、
百合子を追い越した。
「冗談はやめてくれ」
「冗談じゃないです」
ダブルケイにいる時と違う百合子の態度に、
啓介は、少し冷たい態度で応対した。
「啓介さん」
啓介はある日、気付いた。
百合子の横顔が、どこか似ていることに…
目もとが…
恵子に似ていた。
いたずらぽく見つめるとき…不満げなときの表情が…
雰囲気が…そっくりだった。
そんな理由で、百合子に惹かれていた。
好きとかじやなくて…
母親の面影に、惹かれている。
そんな自分を、戒めながらも、ダブルケイ以外で演奏する時は、
必ず見に来る百合子に、
啓介は、逃げられないものを感じていた。
「天城さん」
啓介は、前を歩く百合子に声をかけた。
「何です?」
啓介は、百合子を追い越し、
「あまり…付きまとわないでほしい。迷惑だ」
突き放そう、突き放そうと思うたびに、
逆に運命の糸が、
体に、巻き付いてくる気がしていた。
啓介は、近づくティアの姿に怯えた。
「こっちに来るな!」
「どうされました?」
ティアは、しゃがみ込んで、啓介の顔を覗き込んだ。
「KK…」
心配そうなその表情が…
再び、啓介は記憶の中に沈んだ。
陰がある、艶めかしいこの肢体は…
絡みつくようだった。
「啓介さん…」
背中越しに、百合子が囁く。
「あたし…音楽の才能がないらしいんです…」
「才能…」
百合子は、体を啓介に向けた。
人差し指で、横になっている啓介の腕を撫でる。
「あなたの明日香さんや、香里奈ちゃんが、あるのはわかるんですけど…」
百合子は、体を密着させる。
「志乃は、どうしてかしら…。あたしの妹なのに」
百合子は、啓介の耳元に唇を寄せる。
「ずるいと思いません…」
「志乃ちゃんが…」
啓介は、くすぐったそうに、顔を背けた。
「違いますぅ」
百合子は逃がさない。
「あなたの奥さん…」
啓介の体に、百合子が絡みつく。
「あなたの妻で、美人で、歌手で…人気があって…」
「百合子…」
「ずるいわ…少しぐらい、幸せがなくなればいいのに…」
百合子は、妖しく微笑んだ。
「そ、そんな話…」
パニクる啓介に、
百合子は顔を近づけ、
「知らないはずです」
啓介を見つめた。
「言ってないから」
啓介は、ハンドルを握り締め、
「どういうことだ!」
「だって…」
百合子は、視線を前に戻し、
言ったら…産ましてくれなかったでしょ」
「当たり前だ!」
啓介は叫んだ。
百合子は笑い、
「あたし…音楽の才能がないんです…だから」
百合子は、赤ん坊の頭を撫で、
「ほしいんですよ…才能が…」
「…」
啓介は絶句する。
「あたしの思い…啓介さんの才能…」
百合子は愛しそうに、赤ん坊を撫でる。
「この子は…志乃や香里奈をこえるわ」
「百合子…この子は…」
啓介の戸惑いに、
「信じられない?だったら、調べたらいいわ!どこでも行ってあげる!」
啓介は子供のことより、
百合子の思いと、表情と、
執念に、身を震わしていた。
「啓介さん…」
百合子は、赤ん坊を撫でる手を止め、
「あたし…ちょっと…残念に思いましたわ」
百合子はいやらしく笑い、
「男の人って…どんなに愛する人がいても…裏切るんですね」
「あたしが、誘ったから?何度も断ったのに…」
百合子は、啓介を見つめ、
「だけど…」
百合子は、さらに顔を近づけ、耳元で囁く。
「裏切ったことには、変わらない」
そう言うと、百合子は大声で笑った。
「ははは!」
笑い声は止まらない。
「百合子…一体何が目的なんだ!」
百合子は、笑いを抑えると、
「言ったでしょ…才能がほしいって…」
百合子は、赤ん坊の顔を覗き込んで、
「この子を、明日香さんに見せたら…どう思うかしら?」
「それが、目的か…」
「あたし…音楽に愛されたかった…でも、愛されなかった」
百合子は、前を睨む。
「なのに!あたしの周りはみんな、愛されてる!どうして!」
「百合子…」
「許せない!許せない!才能があって、幸せなんて!」
啓介は、ハンドルを切った。
車が急に反転する。
社内が激しく揺れる。
「きゃー!」
百合子が叫ぶ。
車は先程と、反対を走り出す。
「どこいくの!」
明日香にいきなり、会わす訳には行かない」
啓介は、アクセルを踏みしめ、
「ちゃんと話してから」
「戻ってよ」
百合子は、ハンドルを隣から、無理やり、切ろうとする。
「もどってよ!」
「駄目だ!」
赤ん坊を挟んで、車内で、啓介と百合子はハンドルを持って、争う。
車は、ジグザグに走る。
百合子は思い切り、力を入れる。
「今さら…」
百合子は叫ぶ。
「もう裏切った癖に!」
車は、道を外れ…
「KK…」
ティアは、啓介を揺り動かす。
「裏切った…」
啓介が呟く。
通路の向こうから、ガードマンたちが走ってくる。
「早く医務室に!」
ガードマンが、啓介を抱えようとした瞬間、
啓介はそれを制した。
「大丈夫だ」
啓介は立ち上がり、歩き出す。
「KK!?」
心配そうなティアを、横目で見ると、
啓介は苦笑した。
壁の向こうの観客席の騒ぎの中、啓介はゆっくりと歩き、
会場を後にした。
直樹と和也は、香里奈をマンションの前まで、送った。
ダブルケイはまだ、危険かもしれなかった。
「ありがとう…」
香里奈は、オートロックを外す。
「…じゃあ、俺たちは帰るね」
「うん…気をつけて」
香里奈は、手を振りながら、扉の中に入った。
香里奈が、奥のエレベーターに乗るのを確認して、
直樹と和也は、歩き出した。
「和也…ありがとう」
「何だ?別に大したことはしてないぜ」
「お前が、来てくれなかったら、助けられなかった」
直樹は足を止め、
頭を下げようとした。
和也は足を止めず、歩き続ける。
「和也…」
「なあ、直樹…」
少し前で、和也は足を止めた。
振り返り、直樹を見た。
「店、やることにしたよ。しばらく、母さんを手伝うつもりだ」
「そうか!よかった」
直樹の喜ぶ顔に、
和也は微笑み、
「ありがとうな。直樹」
和也は、すぐに前を向いて、照れたように歩き出した。
「和也!」
直樹は走る。
和也の隣に並び、
二人は駅まで歩く。
例え、二人の間に言葉が少なくても、
二人の絆は、強かった。
部屋に入った香里奈は、
緊張の糸がほどけたように、そのまま…ソファに倒れ込んだ。
そのまま、眠ってしまった。
しばらくして、誰かが部屋に入ってきた。
「あら…風邪引くわよ」
香里奈に、毛布をかけてあげた。
おいしそうな匂いに、香里奈は目を開けた。
それは、久々に嗅いだ匂いだった。
懐かしく、大好きだった匂い。
これは…。
「ママ!」
香里奈は、飛び起きた。
「目が覚めた?まだ寝てても、よかったのに」
台所にいる明日香は、振り返った。
「もう少ししたら、できるからね」
疲れてるはずが、匂いをかいだら、
お腹が、すいてることに気づいた。
「先に、着替えてらっしゃい」
香里奈は、制服のままだった。
「はあい」
香里奈は、返事をすると、ソファの上で、制服を脱ぎだした。
明日香は、そんな娘の姿に、クスッと笑った。
「そんな脱ぎ方…飯田くんの前では、ダメよ」
明日香の言葉に、
香里奈は、顔を真っ赤にさせ、
「そんなことしないよ!」
明日香は、また笑った。
「ママ…」
「どうしたの?」
「ママ…あたし…」
香里奈の声のトーンが低い。
明日香は、鍋を煮込みながら、
「今日のこと?」
「あたし…コンサートを台無しにしちゃった…」
香里奈は、自分の手を見つめ、
「パパを殴っちゃったし…」
香里奈の手が、震えた。
「勢いで、大変なことしちゃった!」
明日香は、鍋の火を消した。
「でも…志乃ちゃんのコンサートなのに…あんな利用するようなこと!許せなかった」
香里奈は叫んだ。
明日香は、鍋をテーブルに置くと、皿にいれる。
「それに、パパだって!」
「はい。できたわよ」
明日香は、お盆に皿をのせ、香里奈の前まで運んでくる。
それは、香里奈の好きなビフシチューだった。
「お腹すいてるでしょ。食べなさい」
明日香は、後ろから、立っている香里奈の両肩に手を置き、ソファに座るように促した。
香里奈は、しぶしぶソファに座ると……いただきますと手を合わせてから、
シチューを食べる。
明日香は微笑み、
「そうね…あなたのやったことは、その場にいたお客さんには、失礼だったかもしれないわね。だけど…」
明日香は、お水をコップに注ぎ、香里奈の前に置いた。
「あのコンサート自体が、危険だったから…」
香里奈は、スプーンを止めて、
「でも…その後、ものすごい騒ぎになったでしょ…」
「そうね…。でも、あれくらいで済んだのは、よかったわ。すぐに、警察がきたから、騒ぎもおさまり、怪我人も、ほとんどが軽傷だったから」
香里奈はすぐに、シチューをたいらげた。
「おかわりは?」
香里奈は頷く。
明日香は、お皿を持ち、シチューを入れにいく。
今回のことで、世間に彼らの危険性がわかったから、無闇に動けなくなるはずよ」
明日香は、おかわりを香里奈に渡すと、ソファに座った。
「あの音は、麻薬みたいなものだから…長い時間聴いていたら、危険だった」
明日香は手をのばし、
香里奈の髪を撫でた。
「だから…あなたのお陰で、みんな助かったのよ」
明日香は、香里奈に微笑みかけた。
「ママ…」
明日香は、立ち上がると、
「今日はここに泊まるわ。お風呂、沸かすね」
「和恵は…」
「和恵のことは、里美に任してる」
「ママ…」
香里奈は、何か言いかけて、言葉を止めた。
明日香は、そんな香里奈をじっと見つめ、
「そうね…このことも、きちんと話せないとね…」
明日香は、再びソファに座り、
香里奈の目を見て、
「和恵のことだけど…きちんと、説明したことはなかったわね」
唇を噛みしめ、
「和恵は…あたしと啓介の…」
明日香は、少し視線を香里奈から外し、
その向こうにあるCDラックを見つめた。
「の間に…」
「ママ!」
香里奈は、ソファから立ち上がり、
明日香の視線を塞いだ。
「あたしは、ママを愛してる。そして、和恵も愛してる。大切な妹だから」
「香里奈…」
「ママはどうなの?」
香里奈は、じっと明日香を見た。
明日香は、香里奈の瞳の中を覗いた。
そして、微笑むと、
「勿論、香里奈も和恵も愛してるわ」
明日香は立ち上がり、
「二人とも、大切な娘だもの」
香里奈も微笑み、
「それで十分だよ。ママ」
香里奈の脳裏に…赤ん坊の和恵を抱いた明日香の姿が、蘇る。
「あなたの妹よ」
小さな香里奈は、いきなりできた妹が、
ただただうれしかった。
明日香の腕の中を覗き込み、まだ目が見えない和恵に、話しかけた。
「はじめまして、あたしがお姉さんだよ」
「ママ…」
「なに?」
「ママは…」
香里奈は、さっきとは違い、
拳を握りしめ、明日香を見た。
「ママは…パパを…今のパパを愛してるの?」
明日香は、何の迷いもなく、即答した。
「愛してるわ」
「あんな酷いことをしてるのに!?」
「そうね…酷いことをしているわね」
「それなのに、どうして?」
明日香はソファから離れ、少し歩くと、
香里奈の向こうにあるCDラックから、一枚のCDを取り出した。
それはマリーナ・ヘインズのアルバム。
明日香と出会う前の…学生だった頃の啓介が、参加している。
音が流れる。
「香里奈…」
明日香は、香里奈の方に振り返った。
「あたしには…今の彼の音が、泣いてるように聴こえるの」
香里奈は、そのアルバムを聴くのは、初めてだった。
枯れた、説得力のある女の歌声に、
甘く太い…啓介の音色。
「違う…」
香里奈は呟いた。
会場で、隣で聴いた音と、明らかに違っていた。
「悪いことをしてるのが、家族の一人だったら…」
音に聴き入っていた香里奈は、はっとして、
明日香を見た。
明日香はやさしく微笑み、
「家族だから…止めないと」
「家族…」
「例え、長い間離れていても…家族は家族よ」
明日香は、CDを聴きながら、
「家族の問題は、家族が向き合わないといけないの。香里奈は…パパが嫌い?」
香里奈は、少し戸惑ったが、
真剣な表情になり、
「正直、許せない…ところはあるけど…」
明日香は、やさしく見守っている。
「嫌いじゃない…」
そう言ってから、香里奈は頭をかき、
「実際よくわからない」
「それでいいのよ」
明日香は、キッチンに戻り、お茶を入れる。
「あなたは十分に、頑張ったわ」
お茶を香里奈に、手渡し、
「後は…ママに任せて。ちゃんとやめさせるわ…あんなこと…」
「うん」
香里奈は頷く。
「あっ!お風呂、沸かすんだった!すっかり忘れてたわ」
バスルームに、消える明日香の後ろ姿を見ながら、
香里奈は、お茶を一口すすった。
「あちっ!」
お茶は、予想以上に熱かった。