けじめ
湯船に、半身を沈めながら、
里緒菜は、美奈子の言葉を繰り返していた。
(お前の気持ちだろ!)
お前の気持ち…。
あたしの気持ち。
深い湯船に、全身をつけた。
里緒菜は、目を閉じた。
しばらくして、里緒菜は立ち上がると、風呂場を出た。
バスタオルで体をふき、パジャマに着替えると、
急いで、自分の部屋に戻った。
同じ部員だから、連絡先は知っていた。
携帯をかける。
9時前。
バイトは、終わってるはずだ。
しばらくコールが続く。
里緒菜は、唾を飲み込んだ。
でてほしい…。
今、でてくれないと…。
次は、かけれないかもしれないから。
留守番に変わった。
里緒菜はそのまま、ベットに倒れ込んだ。
緊張が抜けた。
どうしょう…。
と、
悩んでいたら、携帯が鳴った。
慌てて、里緒菜は携帯を取る。
着信を確認して、
「もしもし…ナオくん…。遅くに、ごめんなさい」
里緒菜は一呼吸おくと、
「あなたに話があるの…今から会えない?」
里緒菜は、直樹の返事をきくと、
出かける準備をした。
直樹はバイト先まで、電車で通勤していた。
電車を、ホームで待っていると、
携帯が鳴った。
電車が来たため、一度は携帯を切り、乗ろうとしたが、
慌てて降りた。
着信を確認すると、里緒菜からだった。
来週の舞台の件だろうか…。
かけ直す。
「どうしたの?」
里緒菜は、今から会えないかと、きいてくる。
(何だろ?)
と思いながらも、
「いいよ」
とこたえた。
里緒菜の家の近くを、電車は通る。
直樹は、途中下車した。
改札を降りると、
目の前に里緒菜がいた。
「こんばんは…」
里緒菜の少しぎこちない挨拶に、
「どうしたの?こんな時間に…」
少し訝しげに、直樹は里緒菜を見た。
「謝らなくちゃ…ならないことがあるから…」
二人は歩きだした。
あまり栄えた駅じゃないから、すぐに…真っ暗な人気のない場所に出る。
川添の土手…。
駅の反対方向にいくと、高校がある。
明日香や里美が、通った高校だ。
里緒菜の家は、ちょうど反対側にあった。
風がきつい。
里緒菜の髪を、舞い上げる。
直樹は川面を見つめながら、里緒菜の言葉を待った。
里緒菜も、川面を見つめた。
周りの住宅の明かりをうけて、反射していた。
里緒菜は…
ゆっくりと口を開いた。
「この前…」
直樹は、里緒菜を見た。
整ったきれいな横顔は、まだ川面を見つめている。
「香里奈とナオくんのこと…応援するっていたけど…」
おもむろに、里緒菜は口を開いた。
月が川面に映り、揺れていた。
「だめみたい…。応援してなかった…」
無言の直樹。
「ごめんなさい…」
里緒菜は、拳を握りしめ、
「応援なんて…応援なんて…できなかった…」
涙が、
里緒菜の目から流れた。
「ずるいんだよ…あたし…」
直樹は、ゆっくりと首を横に振った。
里緒菜は苦笑し、
「ずるいよ…うそばっかり」
里緒菜は、少し歩き出した。
直樹に背を向けて。
「でも、これじゃ…だめなの…」
「香里奈も、ナオくんも大切だから…」
里緒菜は振り返り、直樹を見、
全身を直樹の方に向けた。
「あたし…」
里緒菜は、満面の笑顔を見せた。
せいいっぱいの笑顔。
かなわない願い。
「あたし、ナオくんのことが好きです」
里緒菜は、心からそう思っていた。
あなたが好きと。
ただそれだけ。
直樹は一瞬…驚いたが、
すぐに、真剣な表情になった。
きちんと姿勢を正すと、直樹は深々と頭を下げた。
「ごめんなさい。俺は…」
直樹の言葉を、里緒菜は止めた。
「わかってるから!いいの…」
「如月さん…」
「逆に…その答えじゃなかったら、怒ってた」
里緒菜は、くるっと一回転すると、
また直樹に背を向けて、歩き出した。
顔を、見せる訳にはいかなかった。
涙が溢れていた。
見せる訳にはいかない。
「今度の劇…がんばろうね」
「うん」
直樹は頷く。
「でも…台本変えたの?」
「変えてないわ。最初のままよ」
そう。
かなわなくても、
最初の気持ちは、変わらない。
「こんな遅くに呼び出して、ごめん」
里緒菜は、振り返った。
直樹と少し離れたから。
暗がりとこの距離。
顔がよく見えないはずだ。
「こんなところで悪いんだけど…お別れしましょう」
もう限界だった。
「また明日…学校で。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
里緒菜は手を振ると、走り出した。
涙がまた…止まらなくなっていた。
涙を見せたくなかった。
直樹に、変な心配をさせたくなかった。
何とも言えない気分のまま、
直樹は帰途についた。
何もできなかった。
しかし、
やるべきでもない。
今、抱いてる気持ちは、
同情や憐れみだ。
愛情ではない。
恋愛は、同情や憐れみでするものじゃない。
特に、
勇気を持って告げた人には。
真剣な心、気持ちは、
大切な人だけに捧げるものだ。
ダブルケイのある駅から、一つ向こうに、直樹の最寄り駅があった。
電車を降りて、すぐ…駅前に、直樹が今住んでいる家があった。
家の玄関先に、誰かいた。
直樹に気づくと、
「よお」
軽く手を上げた。
「和也…」
待っていたのは、和也だった。
「和也…」
直樹は、和也に近づいた。
「どうしたんだ?一体…」
和也は家を見上げ、
「久々に…見たくなったのさ」
「突っ立ってないで、中に入れよ」
直樹は、ドアを開けた。
促されて、和也は中に入った。
そこは店だった。
カウンターに、テーブル席。
小さな小料理屋だった。
「綺麗にしてるな…」
和也は感嘆した。
カウンターもテーブルも…
食器類も…
何もかもが、綺麗に掃除され、片付いていた。
まるで、今でも営業をしているような…錯覚に陥る。
もう何年も、営業していないのに。
和也は、店内を歩いた。
ここが始まりだった。
和也の母と父が始めた…
初めての店。
「ちょっと荷物置いてくる」
直樹は、奥の階段を登っていった。
和也は、カウンターに座った。
思い出が蘇る。
父親がカウンターと、厨房で料理をし、
母がホールを忙しく、動きまわる。
小さな和也は、カウンターに座り、その様子を眺めていた。
あの頃は、永遠だと思っていた光景が、
今は…遠い昔のことだ。
「お待たせ」
階段を降りてきた直樹の声で、
和也は、現実に戻った。
「上行こうか」
直樹が誘ったが、
和也は首を横に振り、
「ここでいいよ」
和也はカウンターに座りながら、店内を見つめている。
直樹がカウンターに入り、お茶を出そうと、冷蔵庫を開けた。
「いいよ」
和也は、そう言ったけど、
直樹は、お茶の入ったペットボトルを開けた。
グラスを2つだし、お茶を注ぐ。
直樹は、グラスを手渡した。
和也は、一口飲んだ。
「これは…つくってるのか」
直樹は、ペットボトルをしまいながら、
「お茶ぐらい、自分で沸かすよ」
直樹は冷蔵庫を閉めると、カウンターから出た。
「何かあったのか?」
「いや…ちょっとな…」
和也は、直樹から視線を外した。
直樹は少し距離をおいて、お茶を飲む。
しばらくして、
和也は、持っていたグラスを置くと、立ち上がった。
「すまないな…こんな時間に押しかけて…」
「何言ってるんだ。もともとお前の家だろ。俺が今、借りてるだけだ」
「それも…俺のせいだろ。俺が高校を変えたから…」
「和也」
直樹は真剣な顔で、和也をにらんだ。
和也はフッと笑うと…、
「ちがったな…。お前の勝手だったな…」
真剣な目で、直樹を見た。
「直樹…」
「何だよ」
和也は直樹を見ずに、きいた。
「速水とは、上手くいってるのか…」
「あ、ああ…まあなあ」
顔を真っ赤にして、口ごもる直樹。
和也は目をつぶった。
「直樹」
「何?」
和也は、直樹に微笑んだ。
「大切にしろよ」
「ああ…大切にしてる」
和也は、ドアに向かって歩きだした。
「帰るわ」
「和也…」
ドアの前で、和也は立ち止まり、振り返った。
「もし…ここに…戻りたいと言ったら…怒るか」
直樹は呆れたように、
「お前の家だろ」
「今は…」
和也は、店内を見回した。
「今も、お前んちだ」
直樹は言い切った。
和也は苦笑する。
「直樹…」
「何だ」
「家賃はいらないぜ。いつも言ってるが…こんなに綺麗にしてくれているのに…」
「俺が借りてるんだから、当然だ」
「しかし…友達だぜ」
「友達だから、こういうことは、ちゃんとしないと」
「ったく…」
「けじめだ」
「ばかが…」
和也は笑う。そして、頭をかくと、
「じゃあ、直樹。おやすみ」
「和也…」
笑顔を直樹に向けながら、和也は、ドアを開けた。
「おやすみ」
直樹の言葉を背にして、
和也は歩き出した。
彼の大切なものを確認して。
学校から帰ると、
ダブルケイに、久々の音が戻っていた。
明日香がいるということで、阿部たちだけでなく、昔の音楽仲間が集まっていた。
久々に里美がドラムを叩き、明日香がトランペットを吹き、知らない女の人が、歌っていた。
ギターは
何とゆうだ。
「先生!?」
香里奈は驚いていた。
さっき、学校で会ったのに…。
演奏が終わり、ゆうが香里奈に気づいた。
「速水。遅いなー!さては、寄り道でもしてたか?」
確かに、恵美と祥子とたこ焼きを食べにいったけど。
里緒菜と直樹は、部活だった。
一昨日のことがあったから、直樹は送ろうとしてくれたが、
香里奈は断った。
明日香の、もう襲わない…大丈夫という言葉と、
格闘技をやってる恵美が、いてくれたから…。
というよりも、
多分
自分から、近々行くことになる予感がしてたから。
恐くはなかった。
「香里奈ちゃん。大きくなったわね」
ステージで歌っていた女が、満面の笑顔で近づいてきた。
香里奈は、首を傾げる。
「あっ!覚えてないか…俺の妻だ」
ゆうは、香里奈の様子に気付き、説明した。
「あなたが小さい時に、何度か会ってるのよ」
幸子は、香里奈の顔を覗き込んだ。
「小さい頃は、明日香さんそっくりだと思ったけど…大きくなったら、お父さんに似てきたわね」
幸子は、同意を求めるように、ゆうの方を見た。
「目元なんて…啓介さん、そっくり」
一人頷くゆうに、香里奈は詰め寄る。
「父を知ってるんですか!?」
「そりゃあ~知ってるわよ。あたしが、尊敬する歌手の弟だから…」
「尊敬する歌手…?」
香里奈は、誰かわからなかった。
「和美おばさんのこと…言ってなかったかしら」
明日香が、香里奈にそばに近寄ってくる。
「ママ…」
明日香は、香里奈に微笑んだ。
「香里奈…大事な話があるの」
「大事な話?」
明日香は頷くと、
「少し外に出ましょう」
明日香と香里奈は、二人で店を出た。
和恵は、里美が相手をしていた。
明日香は出るときに、里美に目で合図を送っていた。
店を出て、明日香は山道を歩いていく。
香里奈は後を追う。
5分程登ると、
墓地があった。
そこに眠る人物。
それは、香里奈のお祖母ちゃん…
速水恵子の墓があった。
もう日が、沈みかけていた。
今日最後の輝き…夕焼けがきれいだ。
墓地は、誰もいなかった。
明日香は、墓に手を合わせる。
「ママは多分、知ってたわね…啓介のこと…」
香里奈も手を合わせる。
「あなたの息子が…生きてたってことを」
明日香の言葉に、香里奈は驚いたが、
衝撃はなかった。
やっぱり…
生きていた。
でも、
明日香の口から、直接きくと、重みがあった。
明日香は振り返り、香里奈の方を向いた。
「香里奈…あなたのお父さんは、生きています」
強い風が吹いた。
「例え…それがどんな形であっても」
明日香はそう言うと、
また恵子の墓に、視線を落とした。
香里奈は理解していた。
生きていたことは、うれしい。
しかし、それはあまり喜ばしい状況じゃないことを。
「あなたは知ってるか…わからないけど…今、アメリカの音楽界で、問題が発生しているの」
「問題…?」
明日香は頷き、
「音のドラッグーといわれる音源が、ネットで配信され…数多くの事件が、発生している」
「音の…ドラッグ…麻薬?」
「最初は、そんなもの…噂だけのものだと思っていたは…みんなね」
夕陽が落ちていく。
「でも…あるライブで異変が起きた…。ライブ中、観客の何人かが暴れだしたの」
香里奈は黙って、きいている。
「死傷者もでたわ。それは、あるバンドが演奏している時に起こった」
明日香の体を、夕焼けが赤く染めている。
沈む前の一番の輝き。
明日香は、香里奈を見つめた。
「そのバンドの名は…KK…ダブルケイよ」
「ダブルケイ…」
香里奈は呟いた。
「そのバンドが演奏すると、必ず死傷者がでるから…会場を貸さないところも、でてきたけど…見たいという人々の数は、増え続けているの」
明日香は、恵子の墓の方に向いた。
「ママ…あたし。啓介を止めに行きます。ダブルケイは、ママと健司さんたちのもの…」
明日香の脳裏に、思い出がフラッシュバックする。
「それを汚すなんて…あたしは、許せない」
そう言う明日香の横顔を、香里奈は、ただ見つめていた。
明日香は香里奈を見、
「香里奈…ママはまた、アメリカにもどるね」
「ママ…」
「ごめんね…いつもそばにいなくって…」
香里奈は、首を横に振った。
「平気だよ。ママはいつも頑張ってるんだから…。それに、里美おばさんが、いつもいてくれるし…」
「里美にも、迷惑かけてるわね」
明日香は、恵子の墓に礼をすると、歩き出す。
「帰りましょう。香里奈」
「うん」
香里奈も、恵子に礼をすると、明日香の後を追った。
「香里奈」
「何?ママ」
「今回は、和恵を…日本においていくわ。何があるかわからないから」
明日香は、下に見えるダブルケイを見つめ、
「和恵を頼んだわよ」
「大丈夫!任せてよ」
明日香は微笑み、
そして、
誓った。
この子たちの為、頑張ろうと。