涙
「香里奈…あちらの男の子は?」
香里奈の髪を、撫でてあげながら、明日香がきいた。
香里奈ははっとして、明日香から離れた。
明日香に、甘えているところを見られた。
姿勢を正すと、
「お、同じクラスの飯田くん」
香里奈の紹介を受けて、
直樹は頭を下げた。
「飯田直樹です。速水さ…」
「かわいらしい彼氏ね」
直樹の言葉が、終わらないうちに、
明日香が話し出した。
「え…」
直樹は、彼氏の言葉に舞い上がってしまう。
「よかった。ちょっと、心配してたのよ。香里奈って、女の子ぽくないじゃない…彼氏なんて、できるのかしらと心配で…」
明日香は、直樹を見つめた。
「本当によかった。彼氏ができて…それも、こんな素敵な。ありがとうね」
お礼を言われ、戸惑う直樹。
「少しがさつなところがあるけど、許してやってね…まったく、誰の影響かしら…」
明日香は、チラッと隣を見た。
「あたしの影響と、言いたいのか」
いつのまにか、里美がそばまで来ていた。
明日香はクスッと笑うと、そのまま歩きだした。
「無視かい!」
里美が怒鳴る。
「さあ、ダブルケイに帰りましょう」
明日香は里美を無視して、微笑んだ。
「ちょっとママ!待ってよ」
香里奈は、急いで後を追う。
里美も、仕方なく歩きだす。
直樹は、大きく息をはいた。
やっと、緊張感から解放された。
明日香は振り返り、
「飯田さんも、うちに来る?」
「いえ、今からバイトがありますので…ご遠慮させて頂きます。本当にすいません」
丁寧に謝る直樹に、明日香は、
「そんなに、かしこまらなくていいのよ」
明日香の気さくに、直樹は少し驚いていた。
世界的な歌手なのに。
「はい!」
直樹は、元気よく返事した。
「バイト頑張って」
明日香の微笑みに頭を下げ、直樹は走り出す。
里美にも頭を下げ、
香里奈に、
「また明日。お休みなさい」
そして、もう一度、明日香に頭を下げると、駅の方に走っていく。
「飯田くん!」
香里奈が叫んだ。
直樹は足を止め、
振り返った。
「ありがとう」
香里奈の言葉に、直樹は頷いた。
また頭を下げると、走り出した。
「お休みなさーい!」
香里奈は、直樹の後ろ姿に手を振った。
足を止め、香里奈と直樹の様子を見守りながら、
明日香と里美は、話をしていた。
「警察には…」
明日香の問いに、
「通報してないわ」
里美の返事に、明日香は頷いた。
「明日香…あいつら誰なの?」
里美は、明日香を見た。
「あんた。誰か、わかってたから…脅すだけにしたんでしょ」
明日香は黙り込む。
もう夕陽が、完全に沈んだ。
「明日香!」
明日香は、ゆっくりと歩きだす。
「明日香!」
明日香は振り返らずに、こたえた。
「KK…ダブルケイと呼ばれているわ」
「ダブルケイ…」
里美は呟き…
はっとした。
「それって…もしかして…でも…そんなはずは…」
明日香は足を止め、
「生きていたのよ」
明日香は、道の先にある店を見つめ、
「啓介が」
それは、香里奈たち親子の未来を、
暗く遮る陰となっていた。
まるで暗闇の如く。
ダブルケイの店の前に、
和恵が立っていた。
和恵は、明日香と香里奈に気づき、大きく手を振り、近づいてくる。
「ママ、お姉ちゃん!」
「和恵!」
香里奈は、大きく手を広げ、飛び込んできた和恵を抱き締めた。
そんな2人の娘の様子を、やさしく見守る明日香。
「明日香…啓介さんが生きてるって、どういうことなの?」
里美は、明日香に食い下がる。
「どういうこと?説明してよ」
明日香は、視線を娘たちから外し、
里美を見た。
「あたしも…わからないわ」
明日香の悲しそうな瞳の色に、
里美は、口をつぐんだ。
「ママ!」
元気よく、明日香に手を振る和恵に、
明日香は、笑顔で振り返す。
和恵と香里奈は、店の中に入っていった。
「ただ…言えることは…」
明日香は、ダブルケイの扉を見つめ、
「あの人は…あたしたちの知ってるあの人とは、違うということよ」
明日香は、里美に悲しげに微笑んだ。
「明日香…」
明日香は、ダブルケイに向かって歩きだした。
いきなりな話だった。
しかし、
驚かなかった。
松木大輔には、予感があった。
志乃から、しばらく活動をアメリカに移すと告げられた時も、驚かず、
やっと始まるのかと、心が踊った。
志乃のバックについてから、どれくらい経ったか…。
もう七年近い。
もうすぐ20歳になる歌姫が、中学校の頃からついている。
出会いは…チーフの店だった。
ダブルケイ…。
懐かしい響きだ。
かつて、存在した日本最強…
いや、世界最強だと自負していたバンド。
LikeLoveYou。
大輔は、そのメンバーだった。
まだ高校生だった大輔を、ギターリストとして見いだしたのは、啓介だった。
初心者だった大輔の才能が、見込まれたのだ。
そして、
忙しい啓介がいないとき、バンドをまとめ、大輔を育てたのが、
3つ上の明日香だった。
バンドは、世界中を飛び回った。
アメリカ、フランス、ブラジル…
東欧の治安の悪い国々も。
危ない目にもあったが、楽しかった。
大学進学もやめて、ギターリストとして、何年も旅した。
たまに帰ってくる日本。
ダブルケイで、
志乃に出会った。
才能がある子だとは思ったが、
一緒にやるとは、思わなかった。
俺には、LikeLoveYouがあるから。
永遠にこのバンドで…
明日香と一緒に。
大輔は、明日香に淡い恋心を抱いていた。
啓介という憧れ尊敬するアーティストと結婚していて、子供がいても、関係なかった。
思うことは自由だった。
明日香と啓介のバックでギターを弾きながら、
大輔は、ミュージシャンとしても満足していた。
しかし、
大輔の思いは、断ち切られることになる。
啓介の死によって。
大輔は、バンド活動を続けることを主張した。
明日香さえいれば。
啓介のスペースは、ギターで埋める自信もあった。
しかし、
明日香は、首を縦に振らなかった。
他のメンバーも、解散を望んでなかった。
啓介の浮気も、発覚していた。
「今やめたら、ダメだ」
大輔の言葉を受けて、
明日香は、やさしく微笑んだ。
「そうね…大ちゃんの言う通りね」
それは、とても悲しい微笑みだった。
明日香はそのまま…
バンドを脱退した。
明日香と啓介のいない…
LikeLoveYou。
バンドだけが残っていた。
大輔たちは、LikeLoveYouを続ける為、
志乃をボーカルに迎えた。
いや、志乃が呼んだのかもしれない。
志乃は、啓介を憎んでいた。
姉を殺した相手として…。
憎しみの感情は、どこか大輔とシンクロした。
大輔は、自分から離れた明日香を見返すかのように、
曲を書いた。
もともとLikeLoveYouは、オジナルやカバーとかに、
こだわりがないバンドだったが、
志乃の入り、ロックやポップス、R&Bを基本としたバンドに変わった。
当初、天城志乃& LikeLoveYouにしょうかとしたが、
バンド名は捨てた。
LikeLoveYouの名前に、すがりたくなかった。
志乃だけを、全面にだした。
高校生になった志乃は、才能を爆発させる。
作詞に、ダンス…圧倒的なパフォーマンス。
大輔も曲を書きまくった。
そして、志乃たちはヒットメイカーとなり、
毎週ヒットチャートを賑わし、
チャートとにらみ合っていた。
大輔の作曲能力もかわれ、数多くの歌手に曲を提供した。
日本という狭い国で、忙しく動き回り、天才とチヤホヤされて。
それはLikeLoveYouとはまったく違った。
世界中を旅して、ヒットチャートなんて関係ない。
音楽だけの旅。
やはり世界にでたい。
世界中で、認められたい。
大輔たちは、志乃とともにアメリカに旅立った。
早くも何ヶ月か前に、
時祭グループがアメリカで、チェーン展開している店舗や、テレビスポットで、志乃の曲は流れていた。
頻繁に。
アメリカの地を踏み、しばらく歩いていると、どこからか流れてくるぐらいだ。
アルバムのレコーディング、ライブの予定の前に、
志乃は、行きたい場所があると言った。
今、志乃と大輔たちは、その目的地の前にいた。
それは異様な光景だった。
ある建物の前に、テントやプレハブ小屋が並び、
人々は、その建物にすがりつき、耳をつけ、
中の音を聴こうと、群がっていた。
虚ろな目、汚れた服。
人々はただ…中の音だけを求めていた。
道に寝ころんだ者。
ただ宙を見つめている者。
群集を押しのけるように、志乃たちは進む。
建物の扉を開ける。
黒ずくめの男が、志乃を見て、口笛を吹くと、チケット代をせがむ。
志乃は人数分払うと、奥に進んだ。
奥の扉から、音が漏れてくる。
大輔はその瞬間、
震えた。
(何だ?この音は…)
震える体を抑えていると、
志乃は、扉を開けた。
大輔たちに、衝撃が走った。
立ってるのがやっとだ。
音が刺激する。
会場内に、一体感なんてない。
失禁してる者。
喘いでいる者。
何かを、狂ったように振り回している者。
泣き叫ぶ者、やってる…者。
共通点は、狂っていることだけだ。
ステージ上では、バンドメンバーも泣き叫び、演奏なんてしていない。
ただ一人…
だけが、サックスを吹いていた。
志乃は、ワナワナと全身を震わせ、ステージを睨んでいた。
「啓介」
大輔は驚きから、後ずさる。
「そ、そんな…馬鹿な」
一旦、扉を開け、会場から出た大輔は、激しく息をした。
「あれは…」
信じられないものを見て、大輔は、全身に汗をかいていた。
「そんなはずはない…」
腕で汗を拭っていると、
「あるわよ」
誰かが、大輔に話しかけた。
大輔は、声の方を見た。
歩いて近づいてくる女。
「久しぶりね」
すぐには、大輔はわからなかった。
「覚えてない?」
大輔は、大きく目を見開いた。
「馬鹿な…なぜここに…この国にいる!」
大輔は叫んだ。
「なぜって…」
女は笑った。
「国がなくなったからよ」
「!」
「元気にしてた?最後にあったのは…7年前かしら」
「ティア・アートウッド…」
LikeLoveYouがライブの為、訪れた東欧の国。
今はない国で、ティアと出会っていた。
音楽が、盛んでなかったその国で、いろいろ世話になった人だ。
「なぜここに?」
大輔の問いに、せせら笑うティア。
「国が、なくなったって言ったはずよ」
「確かに国は…名前が変わったが、あるはずだ」
「確かにあるわ…でも、もう知ってる者はいない…」
ティアは体を震わせ、
「あれは…違う国よ。愛する人が誰もいない…」
「誰も?」
「音楽のせいよ…」
「音楽…」
「弾圧されたのよ。あなたたちのような音楽を、聴いてたから…資本主義の音楽なんて…聴いていたから!」
ティアは、大輔に近づく。
「限られた娯楽しか、許されなかった私たちに…あなたたちは、数多くの情報を送りつけてきた。一方的に!」
ティアの瞳は真っ直ぐに、大輔を見つめる。
「その一つが音楽だった…あたしたちは、熱中したわ。この国にない自由なものを、感じたから…。あなたたちは、知ってるかしら?あなたたちが、何気なく聴いている音楽が…地下で、革命のテーマになったり、生きる力になっていたことを…」
言葉は続く。
「あたしたちは、音楽を聴き、明日への希望を抱くようになった…」
ティアの表情が変わる。
「それを、国は許さなかった!その思いが、いつ革命や暴動に、つながるかわからない…」
「危惧した国は…音楽を聴く人間を、徹底的に取り締まり、罰を与えた」
ティアは天を仰ぎ、
「誰も助けてなんて、くれなかったわ。みんな捕まり、酷い拷問を受けた」
「そんな話は知らない…」
大輔が呟いた。
ティアは大輔を睨み、
「そうよ!あなたたちはそうなの!自分たちで、勝手に情報を流し、自由や楽しさ…良いところだけを見せておいて!その結果なんて気にしない」
「あたしたちがどうなろと、気にもしないわ」
ティアは大笑いした。
涙を流しながら…。
「大輔さん!」
扉がいきなり開き、会場の中から、鋭い声が飛んだ。
サックスの音で埋めつくされた空間を、一瞬で切り裂いた。
「その女と何話してるか、わからないけど…あたしたちの目的は、あいつよ」
志乃の声で、はっとした大輔は、会場に入り、ステージを見た。
「そんな女、無視して…行くわよ」
志乃は、ステージに向かう。
大輔たちも慌てて、後を追う。
チラッと、ティアを見た。
ティアは、ニヤッと笑みを浮かべていた。
ステージ上に上がる志乃たち。
KKは、そんなことは気にせず、サックスを吹き続ける。
もう演奏ができないステージ上のミュージシャンから、楽器を借りる。
「いいのか?」
ステージを傍観するティアのそばに、ジャックが来た。
「いいんじゃない」
ティアは、口元に笑みを浮かべ、
「ちょうどほしかったんだから…」
ステージ上で、ギターを手にした大輔は、足が震えてきた。
直に音を聴くと、凄さがわかる。
意識が、持っていかれそうだ。
昔、啓介のそばにいたことがあるが、
比べものにならない。
これは、長時間保たない。
大輔は、志乃の身を案じた。
マイクを握り締め、
志乃はカウントを取る。
1,2,3…。
このサックスを、かき消さなければならない。
とっさに、大輔が弾いたリフは、
ハードロックの名曲。
ディープ・パープルのBURN。
凄まじい爆音が、会場を覆い尽くす。
志乃のシャウトが、こだまする。
観客がこちらを見た。
(いける!)
志乃や大輔が確信した、その時。
ティアは、クスッと笑った。
「壊れちゃえ…」
KKのサックスの音を、消し去る爆音を奏でながら、
大輔は思った。
(ほら…明日香さん…俺は、啓介さんの穴を埋められたんだ)
大輔はさらに、激しくギターを弾いた。
すると…体に何かが、巻き付いてきた。
「何だ!」
大輔は思わず、声に出した。
何かが体に絡みつく。
「うわあっ!」
他のメンバーも声を上げた。
大輔が、後ろのメンバーを見ようと、振り返った。
その時、
志乃のシャウトが、絶叫に変わった。
狂ったように、泣き始めた。
「志乃…」
弾きながら、志乃のもとに近づこうとした大輔は、
片膝をついた。
「始まった…」
ジャックとティアは、ステージの様子を見、呟いた。
「浸食が…」