BAR
「失礼します」
何度、ノックしても反応がない為、躊躇いながらも、和也は会長室に入った。
光太郎は、椅子に座りながら、机の上の写真を見つめていた。
少し間があって、
光太郎は、和也に気づくと、写真を引き出しに戻した。
「先程…廊下で、すれ違った方は…」
光太郎は音をたてて、立ち上がった。
「お前には関係ない!」
あまりの剣幕に、和也は驚いた。
「お前に、新しい指令を命じる」
光太郎は、和也に近づき、
「速水香里奈をものにしろ」
「え!?」
「香里奈を、お前の女にするんだ」
「ど、どうしてです!」
和也は慌てる。
光太郎は、和也を指差し、
「そうすれば、お前の母親が望んだ、この家のすべてが手に入るぞ!手っ取り早くな!」
光太郎は大笑いした。
そして、
すぐにもとに戻ると、
「話はそれだけだ!早く出ていけ!」
光太郎は、和也を怒鳴りつけた。
和也は、静かに頭を下げると、ドアの外に出ていった。
街角のBAR。
街の中心部から離れた、雑居ビルの中にあった。
名前はorange lady。
一階に美容院。
二階には服屋や、アクセサリーショップが並び、
その一角にorange ladyはあった。
昼間はカフェ、夜はBAR。
カウンターの中で、直樹はグラスを洗っていた。
扉が音をたてて、開いた。
「いらっしゃいませ」
orange ladyの中に入ってきたのは、
天城志乃だった。
黒で、ラメが入ったTシャツを着、下はデニムとラフな格好だ。
まだ7時半。
奥のテーブルに、二組のカップルがいるだけだった。
店内を見回すと、志乃はカウンターに座った。
志乃に気づき、カップルが騒めいている。
「いらっしゃいませ」
直樹は頭を下げると、志乃の前に、コースターを置いた。
志乃は一言、
「ビール」
直樹はサーバーから、ビールを注いだ。
コースターの上に置かれたビールを手にとり、
志乃は一口ビールを飲んだ。
しばらく、無言の時が続く。
カウンターの奥の厨房にいたマスターが出てきて、音楽を変えた。
何とも言えない艶のある声…。
志乃は、ビールを飲み干すと、そばに立つ直樹に言った。
「ジンバック」
直樹は、棚からビンを取り出すと、チェイサーで分量を計る。
志乃は、その様子を見ながら、
「キミは知ってる?」
「はい?」
質問がわからず、直樹は志乃を見た。
「…あ、あまぎ、志乃さん…」
志乃はクスッと笑う。
「あたしのこと知ってた?。何も反応ないから…知らないと思った」
直樹はジンバックを、志乃の前に置いた。
「飲みに来られたお客様の、邪魔になるようなことは、しません。どんなお客様でも、私たちから話しかけることはしません」
真面目に答える直樹。
「珍しいわね。他のBARではよく、話しかけられるわよ。バーテンに」
「ここのマスターの教えです。BARとは、お客様の憩いの場であり、カウンター…とはお客様と一線を引き、お客様の隔てている」
マスターは奥から顔を出した。
「古い考えです。私はこういう昔ながらの、BARのスタイルを守りたい。話しかけた方が、常連になって頂けるかもしれませんが…こういうBARがまだ、あってもいいんじゃないかと」
グラスを傾けると、氷が踊った。
志乃は、ジンバックを一口飲み、
「そうですね」
マスターに、微笑みかけた。
マスターは照れたように、頭を下げ、
「出過ぎた真似をしまして、申し訳ありません」
また厨房の中に、消えていく。
志乃はまた、グラスを傾けた。
そして、直樹を見る。
「さっき知ってると言ったのは…あたしじゃなくて…」
志乃は、上を指差した。
思わず上を見る直樹。
志乃は、またクスッと笑うと、
「音楽のことよ」
直樹はああ…と納得する。
「これは…確か…」
かかってる曲は、知っていた。
志乃は、ジンバックを飲む。
「河野和美よ」
「あっ!知ってます。日本人で初めて、有名な賞を取った人と」
「ロンリネス・イズ・マイセルフ…有名な映画の主題歌になった曲。彼女は天才よ」
和美の歌に合わせて、志乃は軽くリズムに乗る。
「最初の受賞者は、河野和美。二番目は…」
またジンバックを飲み、
「速水明日香…。三番目が、あたしの予定」
志乃は言った後に、自分自身に笑った。
(大した、自信ね!)
(天城志乃!)
志乃は、ジンバックを飲み終わった。
「キミは…若いわね。高校生?」
志乃の問いに、
直樹は、はいと返事をする。
「未成年が…いいの?」
「普段は、もう上がっています。夜のバイトの人が、今日は遅れてまして… 交代制ですから…」
「大変ね…」
「いえ…逆に、もっと働きたいです」
マスターがまた、厨房から顔を出した。
「この子は一人暮らしで、生活費を、自分で稼いでるんですよ」
志乃は、思わず声を上げた。
「高校生なのに!大変」
直樹は照れくさそうに、
「そんなことはないです」
志乃は、ジンバックを飲み干すと、おかわりを頼む。
新しいグラスに、直樹は再びジンバックを作る。
「じゃあ、毎日大変ね。遊ぶ暇もないんじゃないの」
直樹は、ジンバックを志乃の前に出すと、
「大丈夫です。部活もやってますし…そ、それに…」
直樹は顔を赤らめる。
「それに…何?」
志乃が、身を乗り出す。
「何言ってんだか…」
直樹は一人呟くと、志乃の視線に気づき、
「な、何でもないです!」
慌てる直樹に、志乃はいたずらぽく微笑むと、
「彼女ね」
「か、か、彼女じゃないです」
さらに慌てる直樹が、可愛いかった。
志乃はグラス越しに、直樹を見た。
「まだ友達?その子とは」
開き直った直樹は、
「友達にやっと…近づけたぐらいです」
志乃は苦笑する。
「道のりは長いんだ」
直樹は頷いた。
志乃は、グラスに口をつけた。
「デートはした?」
「いえ」
グラスをコースターに置くと、
「したほうがいい。そうしないとわからないから…」
和美のCDが終わる。
次にかかったのは…
LikeLoveYouのCD。
かつて、明日香と啓介が組んでいたバンド。
志乃は、席を立った。
「ごちそうさま」
いきなりで、直樹は戸惑う。
「ま…また、来て下さい」
直樹の笑顔に、志乃は笑顔でかえす。
「ありがとう」
店を出る時、志乃は振り返り、
「話の続きを、きかせてもらうから」
店内に、明日香の優しい歌声が響いていた。
店をでると、志乃は携帯を鳴らした。
「アメリカで出す…アルバムの件なんですけど…」
志乃の目が一瞬鋭く、目の前を見据えた。
それは、ここではないところを見ていた。
「一曲…録音したけど、サンプリング代がかかるし、今回は、オリジナルばかりにしょうと、お蔵入りにしたやつあるでしょ」
志乃は歩き出す。
「マリーナ・へインズの曲から、サックスだけ抜き出したやつ…あれ、使うわ」
志乃は、クスッと笑った。
「曲名も決めたわ」
マリーナの曲は昔、啓介が参加した曲だった。
「ロンリネス・イズ・ユアセルフよ」
志乃は、携帯を切った。
これは戦線布告だった。
「楽しみだわ」
志乃はそう呟くと、歩くスピードを上げた。