追憶のロンリネス
明日香が、去った会長室。
一人残された会長は、机の引き出しから、一枚の写真を出した。
一人の美しい女性が、写っていた。
「千春…」
時祭光太郎は、学校の近くにある桜並木で、心を奪われた。
向こうから歩いてくる少女に。
一目惚れだった。
風が吹き、桜の花びらが舞う中、
まるで、花びらのトンネルを潜ってくるように…
少女は、光太郎に近づいてくる。
少女は、桜そのものだ。
恋とは、突然やって来て、すべてを変えてしまう。
少女の名は、香月千春。
桜の季節が終わる頃には、二人は恋に落ちていた。
すべてが決められていて、引かれたレールの上を、走るだけだった光太郎は、
初めて、そのレールを外れた。
大学を卒業してすぐ、光太郎は千春の手を取り、家を出た。
事業が、戦前から続く…時祭家を継ぐ気は、なくなった。
まだ小さいが、妹が継いだらいい。
光太郎は、地元から少し離れた…地方都市へと流れていった。
この街はまだ、発展途上だ。
続々と入ってくる人混みに紛れたら、わかるまい。
築20年は過ぎた、小さな一軒家を偶然、格安で借りることができた。
坊ちゃんだった光太郎は、今まで貯めた金が結構あった。
親が、おこずかいとしてくれたものだった。
しかし、何ヶ月か経てば、すぐになくなった。
働きはじめ、質素だが、千春と幸せな日々は続いた。
千春の料理は、おいしかった。
しかし、
たまに無償に、昔食べた…数々の高級料理が、浮かんだ。
今は贅沢なもの。
あの頃は普通のもの。
明日香が産まれた。
幸せはピークだった。
しかし、生活の苦しさもピークとなっていた。
そして、
その状況を、一番よくわかっていたのは、
光太郎の親たちだった。
ある日、仕事から家に帰る途中…。
実家で世話を、焼いてくれていた執事と、母親が車をとめて、待ち伏せていた。
驚き、逃げようとした光太郎を、執事はやさしく諭した。
連れ戻しに来た訳じゃありません。
久しぶりに、坊ちゃまとお話がしたいだけです。
お食事でもしながら。
少し涙ぐんでいる母親を見ると、光太郎の心は、痛んだ。
元々勝手に出ていたのは、自分であり、母親には負い目があった。
渋々頷いた光太郎は、車に乗り、都内のホテルへ連れていかれた。
そこにあった贅沢な料理の数々に、光太郎は魅了された。
時を忘れ、母親や執事との食事を楽しむ。
ふっと時計を見ると、
もう遅い。
帰らないと…。
席を立とうとした光太郎を、執事が止めた。
もう奥様には、私が連絡しておりますので、
今夜はホテルで、お泊まり下さい。
光太郎は、嬉しそうに頷くと、
母親も嬉しそうに頷いた。
今夜だけ、泊まろう。
その今夜だけが…
2週間にも及ぶことになる。
まったく帰ってこない夫に、千春は心配して、会社に電話したが、
もう退職したといわれた。
警察に捜索願いをだそうとしたが、受け取ってくれない。
まだ赤ん坊の明日香を、抱えながら…途方にくれていると、家に電話が入った。
執事からだった。
坊ちゃまがお呼びですので、至急こちらの場所まで来て頂きたいと…。
千春は明日香を抱え、その場所に向かった。
大きなビル。
時祭財団の本社ビルだった。
最上階の社長室に、通された。
そこには、
仕立てのよいスーツを着た…光太郎がいた。
「光太郎さん!」
千春が駆け寄る。
「大丈夫でしたか?心配してました…」
光太郎の胸に飛び込む。
しかし、
光太郎は、抱き締めてくれない。
「ああ…大丈夫…」
光太郎は少し、後ずさる。
そんな光太郎に驚き、
光太郎の目を見る千春。
光太郎は、目をそらした。
「ああ…ご、ごめん」
光太郎は、千春たちから離れた。
「光太郎さん…」
光太郎は、窓際まで下がり、千春たちに背を向けた。
「千春…」
光太郎は鼻の頭をかき、深く息をすると、
「俺たちは…まだ正式に、籍をいれていないよな…」
千春はもう理解した。
明日香に聞かせたくたいのか…
千春は、光太郎から背を向け、明日香をあやす。
千春に、やさしく体を叩いて貰うと、
慣れないところまで来て疲れてたのか…明日香は、すぐに寝てしまった。
千春は、明日香が寝たのを確認すると、光太郎に言った。
「何がありました…この2週間」
千春は、振り向いた。
光太郎は言葉がでない。
千春は、光太郎の正面を向いた。
「あたしと、明日香を忘れるくらいの…何がありました」
光太郎は、無理やりの笑顔を見せる。
「家に連れ戻されて…それから、昔と…同じ…生活をしてた…」
光太郎は、千春に近づく。
「おいしかった…料理も。何年も食べてなかったし…」
光太郎の声が、大きくなる。
「仕事も…大したこともできないジジイたちに、ごちゃごちゃ言われて!」
光太郎は、手を広げた。
「ここにいたら、誰も…俺に逆らえない」
光太郎の表情を見た瞬間、
千春はまた、背を向けた。
「心配しなくていい…お前たちの面倒も見るから…結婚できなくても、今よりいい生活ができる」
千春は話の途中で、光太郎の方を向き、頭を下げた。
「ごめんなさい…」
「え…?」
「今日でお別れします」
「何を言っている!今より幸せになれるんだぞ」
「ごめんなさい…」
「け、結婚はできないが…明日香は、認知してやるし…」
千春はもう辛かった。
今、そばにいるのは…千春の知らない人だ。
千春は泣いていた。
凛とした態度でいたかったが、涙は止まらなかった。
「千春?」
戸惑う光太郎。
「ごめんなさい…あたしは、あなたを…幸せにできなかった…」
千春は涙を拭うと、
「あたしは、どんなに貧しくても、あなたといて幸せでした」
千春は、深々と頭を下げると、
ドアのノブに手を伸ばした。
「あなたを、幸せにできなかった…あたしの責任です」
千春は、最後に笑顔を光太郎に向けた。
「別れます。これは、あたしの責任です。あたしが、あなたを幸せにできなかったからです…」
「千春…どうする気だ」
「あたしは、明日香と2人で、何とかやっていけます」
「千春…」
「何もいりません…」
千春はドアを開けた。
「失礼しました…さようなら」
千春は深々と頭を下げると、しばらくそのまま止まると、顔を上げて、笑顔のまま…ドアの外へ、消えて行った。
「千春!」
バタン…。
ドアが閉まった瞬間、
光太郎は、自分がしたことを理解した。
千春と明日香を失ったことを…。
しかし、
「仕方ないじゃないか…」
あの貧乏な生活に、戻る勇気もなかった。