糞喰らえだ
(うーーん、またか)
俺は一枚の手紙を手に、密かに頭を抱えていた。ここ最近、頻繁に届くようになったそれは、両親から俺に宛てられたものだ。
(どうしたものか)
自分でも両親の言い分が正しいことは分かっている。分かっているが、どうにも踏み切ることが出来ない。頭の中にアーシュラ様の笑顔がチラつく。ため息が漏れた。
「ローラン様、ご飯食べに行きましょっ」
その時、ノックもなしに部屋のドアが開く。アーシュラ様だ。俺は小さく嘆息した。
「アーシュラ様、ノックぐらいしてくださいと、前にもお伝えしたでしょう?」
反射的に手紙を持った手を後に隠し、俺は平常心を装った。
「えーー? わたしとローラン様の仲なのにぃ」
ケラケラと笑いつつ、アーシュラ様は俺を撫でる。久々の犬扱い。ついつい唇が尖った。
「それで? 一体何を隠したんですかっ?」
アーシュラ様はそう言って、俺の背中にヒョイっと手を回す。突拍子もなく、抱き締められるような形になって、心臓がドキッと跳ねた。
「べっ……別に隠してなんか」
「嘘吐き~~! 何々? エロ本とかですか? それならわたしもご相伴に……」
「馬鹿な事言わないでくださいっ。……ほら、ただの両親からの手紙ですよ」
これ以上変な勘繰りをされては堪らないので、俺は渋々、隠していた方の手を前に出す。くちゃくちゃになった手紙。アーシュラ様は興味津々でそれを見つめると、そっと俺の顔を覗き込んだ。
「何が書いてあるの?」
彼女の耳には、先日俺が贈ったばかりのイヤリングが揺れている。アーシュラ様の髪の色とも、瞳の色とも、額の秘宝の色とも違う、青色をしただけの価値のない石。けれど、本人はいたくお気に召したようで、毎日毎日、飽きることなく身に着けている。
「ねぇ、何が書いてあるの?」
こういう時のアーシュラ様はしつこい。観念して、俺は中を開いた。
「実は両親から、婚約を急かされているんです」
「…………え?」
俺の言葉に、アーシュラ様は目を丸くした。困惑の色を帯びたその表情に、俺は胸が締め付けられる。自分の願望が見せる表情だと分かっているのに、アーシュラ様がショックを受けているように見えて、居たたまれなかった。
「俺は三男で、公爵家自体を継ぐことはありません。ですが、いつかは分家として伯爵位を賜る予定です。貴族として、結婚を避けることはできません。……もうすぐ懇意にしている侯爵家の御令嬢が十二歳になります。それを機に婚約を結べ、というのが両親の考えです」
憂欝な気分を言葉にすると、余計に気が滅入ってしまう。アーシュラ様は黙って俺のことを見つめている。何となく元気のない表情だった。
「十二歳……ローラン様の七つも年下ですね」
やがて、ポツリとアーシュラ様が呟いた。俺のベッドに勝手に腰掛け、足をプラプラと揺らしている。捨てられた猫みたいな表情だ。
(そんな表情、しないでほしい)
俺は馬鹿だから。聖人君子のようにはいられない。慰めたくなるし、考えていることとは真逆のことを言いそうになる。感情のままに、言葉を紡ぎたくなる。
「――――婚約を結んでも、結婚するのは六年後です。今のうちに交流を深めろ、と」
両親の意図は自分でも正確に読み取れていると思う。言葉にすることで、現実と向き合おうと努力もしている。手の届かぬもの――――アーシュラ様への恋慕を断ち切り、騎士としてお仕えできるよう、心を無にして。
「でも……でもさっ、結婚なんてしたら、わたしと旅ができなくなっちゃうじゃん」
アーシュラ様の声は震えていた。俯いているため顔は見えない。
「わたしっ……ローラン様を手放す気、ないよ? ずっとわたしの側に居てもらうもん。わたしがお婆ちゃん聖女になるまでずっと、一緒に旅して回るって決めてるんだからっ! 夫がそんな状態じゃ、その子も嫌だよ! わたしも嫌だよっ!」
アーシュラ様が顔を上げた。頬が涙で濡れている。彼女が泣いているのを見るのはこれが初めてだった。いつも、いつだって笑顔の人だから。
(拭ってやりたい。抱き締めたい。……キスしたい)
何度も深呼吸をしながら、欲を逃す。アーシュラ様の顔が見れない。
アーシュラ様は一歩、また一歩と俺に近づいてきた。そのまま俺の背中に手を伸ばし、ギュッと抱き締めてくる。上目づかいで俺を見上げてくる。堪らない。
「……旅は続けます。俺はあなたの護衛騎士です」
それ以上でも以下でもない。そう言外に伝えたつもりだった。
「わたしは……わたしは! 聖女である前に、ただの女だもんっ! ローラン様のことが好きな、ただの女の子だもん!」
アーシュラ様はそう言って、俺の服を思い切り引っ張った。膝が折れる。目の前にアーシュラ様の綺麗な顔が迫っている。吐息が重なって胸が震える。我慢なんてできなかった。
「んっ……」
噛みつくみたいな口付けをする。
俺は馬鹿だ。本当に救いようがない。そう思うのに、心がどうしようもないほどに満たされている。
俺はアーシュラ様が欲しかった。聖女だとか君子だとかもうどうでも良かった。アーシュラ様が欲しかった。
「認められるか――――――祝福してもらえるか、分からんですよ」
俺はそう言ってアーシュラ様を抱き締める。腹は決まった。だけど、それがどういう方向に転んでいくかは分からない。俺たちは国王陛下の手のひらの上で動く駒に過ぎない。王太子殿下の問題もある。
「……大丈夫です。わたしは聖女らしさの欠片もない、自分の欲に忠実な図太い女ですから。絶対絶対、何があってもローラン様を放しませんから」
アーシュラ様らしいセリフに俺は笑う。瞼に、頬に、何度も口付けを落として息を吐く。こんな有様で、他の女と婚約しようとしていたなんて馬鹿みたいだ。答えはとっくに分かってたっていうのに。
「――――アーシュラ様は間違いなく、聖女様ですよ。誰よりも優しく、気高く、聡明で美しい。これから先もずっと、真心を込めてお仕えしたい、唯一無二の俺の聖女様です。
だけど俺は聖女ではない、ありのままのあなたが好きです。あなたが甘えられる場所になりたい。あなたの笑顔を守りたい。――――ずっと、我慢していたのに。俺の本音を引き摺りだしたんです。嫌だって言ってももう、逃がしませんからね」
顔を真っ赤に染めたアーシュラ様に、俺はもう一度キスをした。胸いっぱいに愛しさが広がる。甘くて温かな幸福感だ。
神に愛された聖女。禁忌を犯さなければ手に入らない禁断の果実。それが手に入るなら、他には何も要らない。聖人君子なんて糞喰らえだと、そう思った。