聖女、自己管理ができない
「ローラン様、わたし滅茶苦茶疲れました」
「……だろうな」
王都から程近い、とある領主の治める地。そこでアーシュラ様は一人の女性の魂を浄化した。
本人曰く『幽霊を扱うのは初めて』だったらしいが、危なげなく除霊をこなしているように俺には見える。
とはいえ、慣れない力を使うと疲れるのだろう。アーシュラ様は顔を火照らせ、ふぃーーとため息を吐いていた。
「部屋に戻られますか? 今日はもうゆっくりした方が良いでしょう?」
かなり寂れてはいるが、元々は栄えていたらしく、きちんとした宿がある町だ。今日は町を回るのは止めて、昼寝でもすれば良いと思う。その方が体力を回復しやすいだろう。
「んーーーー、わたしの部屋、今とっても過ごしづらい状況なんでぇ……」
「……だから片づけをしてください、と言ったでしょう」
この町に滞在するのは2日目。というか、昨日は夜遅くに宿に着き、そのまま寝るだけだったのだから、本当なら散らかすほどの時間はない筈だ。
(まぁ、アーシュラ様だからなぁ……)
致し方ないと思い始めている辺り、俺は大分アーシュラ様に毒されていると思う。嘆息しつつ、俺はそっとアーシュラ様を見た。
「だったら、ひとまず俺の部屋で休みます? そしたら、少しぐらいはゆっくり――――」
「えっ、なに⁉ わたし、ついにローラン様に襲われるの⁉ 夜這いならぬ昼這い⁉」
「違います。断じて違います。……っていうか、訳の分からない言葉を作らないでください!」
普段ならばもっと軽く流せるのに、どうしてかムキになってしまった。言いたいことを言って、少しだけ冷静になった頭でそんなことを考えていると、ふと、アーシュラ様の頬が先程よりも紅いのに気づいた。
「どうされました? やっぱり相当疲れてるんじゃ」
俺がアーシュラ様の額にそっと触れると、アーシュラ様はビクッと身体を震わせた。ペリドットのような薄緑の瞳が、ウルウルと潤んでいる。鮮やかな桃色をしたアーシュラ様の唇が、何かに耐えるみたいに引き結ばれ、震え、俺は無意識にゴクリと唾を呑み込んだ。
「……うん。なんか、自分が思っていたより疲れてるみたい」
アーシュラ様は俺の両手をギュっと握り、眉尻を下げる。その途端、心臓が何故だかいつもより早く鼓動を刻み始めた。
「アーシュラ様が休んでいる間に、あなたの部屋を片付けておきますから。それで良いでしょう?」
「そだね……それが一番良い方法かなぁ」
俺の身体に凭れる様にして、アーシュラ様は歩く。「抱えましょうか?」と聞いてみたが、アーシュラ様は首をブンブン横に振って拒否した。
確かに、街中ならまだしも、こんな場所でそんなことをしたら、とてつもなく目立つだろう。普段飄々としているアーシュラ様が、俺の腕の中で恥ずかしそうにしている所を想像すると、何だか笑えて来る。
「……! ローラン様、あれ!」
だけどその時、アーシュラ様は路地裏を指さすと、一目散に走り出した。先程までフラフラしていたというのに、物凄い変わりようだ。俺は急いで後を追った。
「大丈夫⁉ ……いや、見た感じ全然大丈夫じゃない! しっかりして! って言っても、その調子じゃ無理ですよね!」
疲れで気が動転しているのだろうか。言葉の端々から、冷静さを欠いていることが伺える。
「アーシュラ様、落ち着いて」
見れば、アーシュラ様は年の頃八歳ぐらいの子どもを抱えていた。骨と皮のように痩せ細り、肌や唇がカサカサに乾いている。着ている服がズタズタに擦り切れて、肌がところどころ露出している。そんな有様故、性別すらよく分からなかった。
「ローラン様、お水、持ってましたよね?」
「ここにある」
「貸してください」
アーシュラ様は俺から水筒を奪い取ると、子どもの唇をゆっくりと水で濡らしていく。
「本当は身体中傷だらけだから、そっちの方も治したいんだけど」
今は水分補給が先だと言いたいらしい。けれど、その子は自力で嚥下できる力もないようで、アーシュラ様は腹立たしそうに、子どもの両手を握った。
「何をやっているんですか?」
「人間は口からじゃなくても水分を摂れるものなんですって。多分だけど、わたしがこうやってたら、この子に水分を送り込めるから」
アーシュラ様はそう言って、枯れ枝のような子どもの手を必死で握っている。眩く優しい光りが空に向かって上っていく。アーシュラ様は息をするのも忘れ、子どもに力を送り込んでいた。
「アーシュラ様、水を。このままではあなたの方が倒れます」
「いらない。今、それどころじゃない」
アーシュラ様の瞳は真剣だった。一心不乱に目の前の子供と向き合い、助けようとしている。
(自分だって体調が悪い癖に)
俺はこれまで何度も、アーシュラ様のことを妖精のようだとか、天使のようだと形容してきた。その可憐さや美しさは、神の作った不可侵領域。誰にも汚すことのできない、完全なる美だと思っていた。
けれど、違った。汗や土埃に塗れた今のアーシュラ様が、一番一等美しかった。涙が出るほど美しく、そして尊い。彼女が聖女であることを実感せずにはいられなかった。
(歯痒いな……こういう時、俺は何もできない)
俺には聖女の力も無ければ、アーシュラ様の力になることもできない。できることと言えば、ただ傍観するだけだ。
アーシュラ様と出会う前もそうだった。
病に苦しんでいる人が居ても、お腹を空かせている民を見ても、手を差し伸べるだけの力がない。一人を救うならば、その後ろに控えた数十人、数百人、数千人を救わなくてはならない。それができないなら、おいそれと手を出すべきではない。そう思って生きてきた。
だから、アーシュラ様がこの旅のお供に俺を選んでくれた時、俺は少しだけ――――ほんの少しだけ嬉しかった。彼女の力は、口先だけで何もできない、俺の理想を叶えることができる。多くの人を救うことができるのだと、そう思った。
けれど、どこまでいっても、自身の無力感は拭えなかった。人々を癒し、救っているのはアーシュラ様だ。見ているだけで、俺には何もできやしない。そう思うと、悔しさが込み上げてくる。
その時、アーシュラ様の身体がふらりと揺れた。やはり疲労がピークに達しているらしい。
「アーシュラ様!」
俺は思わずアーシュラ様の身体を支える。けれど、アーシュラ様はそんなことは意に介さず、歯を喰いしばり、子どもの手を握り続けている。自分の水分を直接分け与えているのか、アーシュラ様の肌が心なしか乾いて見える。
「アーシュラ様、水分を摂ってください」
「手、離せないから無理」
アーシュラ様は頑固だ。黙って待っていたら、言うことを聞いてくれるとは到底思えない。
「手を離さないで済むならそれで良いんですね?」
俺は水筒をアーシュラ様の唇に押し当て、開けるよう促す。けれど、アーシュラ様は首をブンブンと横に振った。相変わらず歯を喰いしばっているらしい。どうやら呼吸も真面にできていない様子だ。これでは本当に倒れてしまう。効率が悪くなっていることに気づくだけの余裕が、アーシュラ様に無いのだ。
「――――――その手、しっかり握っていてくださいね」
俺はそう言って、水筒の水を口に含む。
それから、今にも気を失いそうなアーシュラ様の背中を抱き、彼女の唇に己の唇を押し当てた。
「……! …………っ⁉」
アーシュラ様は驚きの余り目を見開き、俺のことを凝視していた。
(普通、こういう時は目を瞑るものだろう)
そう思いつつ、頑なに閉じられているアーシュラ様の唇を舌でなぞる。小柄な身体がビクリと震える。アーシュラ様の唇が緩んだのを見計らい、口に含んだ水を流し込んだ。
コクン、コクンとアーシュラ様の喉が上下する。無事に水を飲めたようだ。唇を解放してやると、アーシュラ様の頬が真っ赤に染まっている。
その瞬間、眩い光がアーシュラ様を包んだ。泣きたくなるほどの多幸感。その、あまりの温かさに俺は胸を押さえる。
見れば、アーシュラ様が抱いた子どもの顔に、段々と生気が戻っていく。先程まで、予断を許さない様子だったのに、今はただ、安らかに眠っているのが分かった。
「良かった……」
きっとこの子どもは助かる。元気になるまでまだまだ時間が掛かるだろうが、アーシュラ様が居れば大丈夫だろう。食事を与え、療養させればきっと後遺症もなく回復する。俺はホッと安堵のため息を吐いた。
「良かった、じゃありません」
その時、アーシュラ様が消え入りそうな声でそう呟いた。
見れば、彼女は恨めし気な表情で俺のことを睨みつけている。頬も唇も、リンゴのように真っ赤だった。
先程初めて触れたアーシュラ様の唇の柔らかさを思い出し、俺はそっと顔を背ける。すると、それが癇に障ったようで、アーシュラ様は俺の腕をグイッと引いた。
「信じられない! あんな……あんな緊急事態に!」
「緊急事態だからこそ、でしょう? あのまま続けてたら、あなた倒れてましたよ?」
ようやく分かって来たこと。それは、アーシュラ様は果てしなく自己管理が苦手だということだった。自分がどれだけ頑張れるのか、どこが限界なのかをちっとも把握していない。これから先も俺が管理してやらねば、いつか力を使い果たして倒れる、なんて事態になりかねない。
「だからってあんなこと! ……わたし、めちゃくちゃビックリして!」
「そうでしょうね。でも、ああしたのは、あなたが自分で水を飲もうとしなかったからですし。……それにしても、少し水を飲んだぐらいで、あんな一気に力が回復するものなんですか? 俺はそっちの方にビックリして――――」
「知らない知らないっ! ローラン様のすけこまし!」
アーシュラ様は眉間にグッと皺を寄せ、ブンブン首を横に振る。その様子があまりにも可愛らしく、それから愛おしく思う。
(――――愛おしい?)
思いがけず湧き上がった己の感情に戸惑いつつ、俺はそっと胸を押さえる。先程からアーシュラ様の唇から目が離せない。今にも吸い付きたくなるほど、美しく色づいて見える。心臓が常より早く、鼓動を刻み続けていた。
(嘘だろう?)
躊躇いがちにこちらを見上げるアーシュラ様と視線が絡む。潤んだ瞳。真っ赤な頬。鮮やかな唇に喉が鳴る。
思わず口元を隠しつつ、俺は己の煩悩と向き合うのだった。