第3話 緊急連絡
★
「――火の神が世界を焼き尽くすなんて、ファンタジー小説みたいだね」
綾音は、カプチーノのカップを口に当てながら信じられないといった表情を浮かべる。
「でも、話の内容からすると、二人が話していたのは江戸時代でしょ? 今も世界は何ともなっていないんだから、やっぱり夢ってことじゃない? それに、三百年前の会話が今になって聞こえてくるのも不自然だし」
カップをテーブルの上に置いた綾音は、髪を両耳に掛ける仕草をする。
清志郎は、その通りと言わんばかりに相槌を打つ。
「確かにな。過去三、四百年の間に大火と呼ばれる火災は何度も起きてる。関東大震災や第二次世界大戦の空襲による火災、それ以外にも一定周期で発生してる。ただ、それが原因で日本はもちろん他の国が焼失なんてしちゃいねえ。
夢で未来を予知する人間がいるらしいが、俺にそんな力があるとも思えねえ。仕事柄、験を担ぐことはあっても、超常現象の類は信じねえ質だしな。
無意識のうちに夢の内容を気にしていたのかもしれねえ。何度もアヤに話したことで夢の情報が脳に刷り込まれて、その結果、脳が俺に同じ夢を見させた。それが二年近く続いている。そんなところだ。
それから、俺たちが見てる、星の光は、実は、何十年、何百年も前に放たれた光だって話だ。リアルタイムで見えてるわけじゃねえ。あの夢もそんな光と同じかもしれねえ。ただの夢じゃないとしても、今となっては何の役にも立たねえってことだ。気にしねえのが一番だな」
清志郎はグラスからストローを抜き取って、残ったアイスティーを口に流し込む。
「清ちゃんが気にしていないならそれでいいよ。気にし過ぎて病気にでもなったら大変だもん。清ちゃんがデリケートじゃなくて良かったよ」
「アヤ、ちょっと待て。その言い方は心外だぜ」
綾音の一言に、間髪を容れず、清志郎が口を挟む。
「俺はデリケートを絵に描いたような男だ。アヤに暴言を浴びせられた後、いつも落ち込んで涙してる。幼馴染なんだから、もっと優しくしてくれよ。それこそ小説の世界みてえにな」
「あら? 清ちゃんがデリケートだなんて初耳ね。『バリケード』の間違いじゃないの? それに、私は優しさを絵に描いたような女よ。恋愛小説のヒロインみたいなね」
綾音は、口元を緩ませて小さくウインクをする。
二人は顔を見合わせて、声を上げて笑った。
★★
清志郎の携帯電話から着信を示す音楽が流れ出す。
画面には「|CassowaryFlight」の文字。
「お疲れ様です。渡です……。コンビナートで爆発。県から出動要請……。わかりました。指揮者は紅林副隊長でよろしいですか? 今日のメンバー七名と非番の三名が招集済み……。そうですね。空からの救出や消火も必要になりそうですから多目的ヘリを現場に向かわせてください。俺もいつでも行けるようにしておきます。何かあれば言ってください」
携帯電話を耳から離すと、清志郎は小さく息を吐く。
「参考連絡だ。川崎の石油化学コンビナートで火災が起きた。ただ、余程のことがなければ俺の出番はねえ。『船頭多くして船山に登る』なんてよく言うだろ? 指揮者ばかり多くてもかえって現場は混乱する。百戦錬磨の猛者が十人も揃ってるんだ。大船に乗ったつもりでいるよ」
「じゃあ、お母様の病院にも行けるね」
綾音はホッとした表情を浮かべる。この後、清志郎の母親が入院している、精神病院へ二人で面会に行く予定だった。
「でも、カズワリーも変わったね。最近は清ちゃんとゆっくりお茶を飲めるようにもなったし……あっ、雪」
窓の外に目を向けた綾音の口元が綻ぶ。今朝の天気予報で「ところにより雪」と言っていたが、二人のいる場所はところによったようだ。
「確かに、二年前の状況からすると信じられねえな。事務方と現場班併せて三、四十人の小世帯の割に取りまとめるのがひと苦労だった。従順な役人は問題ねえが、現場の消防士は一癖も二癖もある連中ばかりだ。
気概のある頼りになる連中と言えば聞こえはいいが、それぞれが自分ってやつを持ってる。仕事に対する哲学や美学みたいなものがあって、納得がいかねえと絶対に言うことを聞かねえ。しかも、指揮を執るのが、現場経験がほとんどねえ、三十前のキャリア官僚ときてる。面白くねえのは当然だ。
俺のやることに文句が出なかった日はほとんどなかった。もちろん俺も言いてえことは言わせてもらった。黙って聞いてるのは性に合わねえからな。あいつらとは腹を割って徹底的に話をしたよ」
清志郎は、灰色の空に視線を向けて遠くを見るような目をする。
「今思えば、毎日の衝突には、大きな意味があった。あいつらの考えを理解することで蟠りを失くすことができた。譲ろうとしない部分には『常に死と隣り合わせ』といった、過酷な労働環境があることも理解できた。
火災現場では、Aという選択をするかBという選択をするかで結果が百八十度変わる。早え話が生きるか死ぬかってことだ。机上では理に適っていることでも、現場ではそうじゃないことだってある。だから、どんなときも現場の安全を第一に考えた。
木端役人にありがちな、これまでのやり方を踏襲するなんて理屈はカズワリーでは即却下だ。おかげで全員が同じ方向を向くようになった」
清志郎は熱くなった身体をクールダウンするように、グラスの氷を頬張ってガリガリと噛み砕いた。
綾音は、二年前、同じテーブルで清志郎と話をしたときのことを思い出していた。あのとき、清志郎は、消防庁の官僚として立上げに尽力した特別消防部隊「カズワリー・フライト」へ自ら赴くと言った。清志郎の身を案じた綾音は憂いに耐えきれず涙した。
二年前のことなのにずっと昔の出来事のような気がする。
今と二年前の清志郎を比較すると、その表情や言葉から成長の証しが見て取れる。当時にはなかったたくましさが感じられる。
「清ちゃんが手の届かないところへ行っちゃいそう」。そんな言葉が脳裏を過ったとき、綾音の頬を一粒の涙が伝った。
「ア、アヤ、どうしたんだ? 何かマズイことでも言ったか?」
「大丈夫。コンタクトがずれただけ」
綾音は、顔を背けるとコンタクトを直す振りをしてハンカチで涙を拭った。
★★★
時刻が十時になったのを確認して二人はカフェを後にする。
外に出ると、灰色の雲に切れ間はなく雪の降りが強くなっていた。
「ねぇ、清ちゃん? あのお守り、ちゃんと持ってる? 私のキュートな写真が入ってるやつ」
綾音の一言に、清志郎はセーターの襟の部分に手を入れて、首に掛けたお守りを引っ張り出す。
「外出するときはいつも肌身離さず持ってる。鬼が睨んでるような視線は気になるがな」
「だ、誰が鬼よ! 失礼しちゃう!」
綾音は頬を膨らませてプイッと横を向く。
清志郎がおどけた様子で笑うと、それはすぐに笑顔へと変わった。
「そうだ。一度聞きたかったんだけど、お守りの中の小さな袋には何が入ってるの?」
綾音は、興味津々といった様子で、目尻の下がった、大きな瞳を輝かせる。
「俺も実際に見たことはねえが、親父から聞いたことがある。何でも明歴の大火のとき、火消しだった、俺の先祖が崩れてきた柱を支えたらしい。その柱の欠片が入ってるって話だ。三百年以上前の話だから怪しいけどな。でも、本当にそんなものが入ってるとしたら、朽ちて粉みたいになってるだろうな。要は、中を見るなってことだ」
清志郎は、お守りをセーターの内側に押し込みながら淡々と答える。
俄かに綾音の顔つきが曇る。
「霊験新たかなものが入ってるんだ……。清ちゃん、私の写真、捨てちゃってもいいよ。お守りには不釣り合いだから」
綾音はどこか気まずそうな様子で視線を足元に落とす。
「そんなこと言うんじゃねえよ!」
清志郎の強い口調に、綾音の身体がビクッと反応する。
「これまで俺が無事でいられたのは、一にも二にもこのお守りのおかげだと思ってる。さっきも言ったが、俺は超常現象は信じねえが験は担ぐ。お前がお守りから出て行って何かあったら洒落にならねえ。俺は必要だと思ったものは絶対に捨てたりはしねえ」
「清ちゃん……」
清志郎の言葉に綾音の目尻が下がる。胸のあたりに熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
再び清志郎の携帯電話から音楽が鳴る。
「お疲れ様です、渡です。何かありましたか?」
すぐに電話を取ると、清志郎は真剣な表情で受け答えをする。
会話の内容から仕事に関係する電話に間違いない。
「――はい。わかりました。すぐに行きます」
電話を切った後の清志郎の様子がさっきとは明らかに違う。
「清ちゃん、どうかした?」
心配そうに尋ねる綾音を尻目に、清志郎は、車道に踏み出して近づいてくるタクシーに向かって手を振った。
「新宿副都心の高層ビルで火事だ。自治体から出動要請があった。これから非番のメンバーを集めて出動する。ごめん。お袋の病院へは行けなくなっちまった」
間髪を容れず、清志郎の前にタクシーが止まる。
「清ちゃん!」
タクシーに乗り込もうとする清志郎に綾音が声を掛ける。
「火なんかやっつけて! 絶対に負けちゃダメだからね!」
綾音の言葉に、清志郎は、任せとけと言うように左手の親指を立てて首を縦に振った。
粉雪が舞う中、綾音は、歩道に立って走り去るタクシーを見送った。「大丈夫。清ちゃんにはいつも私がついてる」。心の中で何度も呟きながら。
つづく