第10話 歌姫誕生
南城家の行列が通る最中、馬が激しく嘶く声が聞こえた。
駕籠のすぐ前を行く馬が、後ろ足で立ち上がり前足をバタバタさせている。
煽りを受けた駕籠舁きがバランスを崩し、忠興を乗せた駕籠が地面についてしまう。
「この無礼者が! そこへ直れ!」
馬上の黒田 喜三郎は、必死に手綱を引き寄せて馬をなだめると、怒声を張り上げた。
突き刺すような視線の先には、身体を丸めて地面にしゃがみ込む男の子の姿があった。身体を小刻みに震わせながら、両手で白い子犬をしっかりと抱きかかえている。
「辰之助……」
シオンの口から微かに言葉が洩れる。目は大きく見開き、顔には驚きの表情が浮かんでいる。
男の子の顔に見覚えがあったから。
辰之助は、シオンの置屋の裏手にある長屋に住んでいる、五歳の男の子。シオンのことを「おねえちゃん」と呼び、いつも無邪気な笑顔で話し掛けてくる。故郷にいる弟とどこか似ているところがあり、シオンは、辰之助を弟のように可愛がっていた。
馬から下りた喜三郎が、鬼のような形相で辰之助を睨みつける。
万難を排して主君を守護することを使命とする喜三郎にとって、今、目の前で起きている事態は屈辱以外の何物でもなく、決して看過することなどできなかった。
「小童! お前はとんでもないことをやらかしたぞ! ここにおられるお方を南城忠興様と知っての狼藉か!? 殿の行く手を阻んだばかりか、こともあろうに駕籠を地面に下ろさせるとは何事ぞ! 決して許されることではないぞ!」
そう言い放つが早いか、喜三郎は、腰に差した長刀に手をかける。
辰之助は、目に涙を溜めて身体を震わせる。顔からは血の気が失せ、上下の歯がぶつかってカチカチと音を立てる――と、そのときだった。
「どうかお待ちください!」
喜三郎と辰之助の間に割って入ったシオンは、その場にひれ伏すと、額が地面に着くくらいに深々と頭を下げる。
「あたいは、吉原の芸子・シオンと申します。失礼ながら、お殿様に折言ってお願いがございます。この子が行った御無礼、どうかお許しください。
この子のこと、あたいはよく知っております。純真無垢を絵に描いたような子で、今回の件も決して悪気があったわけではございません。
お殿様がお怒りになられているのは重々承知しております。そのことについては、心からお詫び申し上げます。あたいができることは、どんなことでもいたします。何卒ご容赦願います!」
「ならん、ならん! 殿を愚弄する振舞いは言語道断! 芸子風情が謝って済むようなことではない! そこを退け!」
シオンの必死の懇願に耳を貸すことなく、喜三郎は、長刀の柄にグッと力を込める。
「お願いでございます! 何でもいたします! ですから、この子をお助けください!」
「聞こえぬか!? 退けと言っておる! 言うことを聞かぬなら、お前も同罪とみなす!」
「――まぁ、待て。喜三郎」
駕籠の中から、喜三郎を諭すような、穏やかな声が聞えた。
「しかし、殿。このような辱しめは、南城家の名折れでございます。子供といえども厳格に対処しておかねば」
「そちが南城家と余のことを案じてくれているのは十分伝わった。それについては礼を言う。ただ、余に怪我はなかった。その子供を咎めるかどうかは、女と話をしてから決めることとしよう」
「殿がそうおっしゃるのであれば」
喜三郎は、刀から手を離し右膝をついて控える素振りを見せる。
「女、面を上げろ」
忠興の言葉に、シオンは、緊張した面持ちでゆっくりと顔を上げる。
「吉原の芸子とか言ったな? 見たところまだ若いようだが、年はいくつだ?」
「はい。今年で十二になります。少し前に見習いから芸子になったばかりでございます」
駕籠の中の様子は窺い知ることはできない。ただ、中からはシオンの様子が見えている。
「その若さで芸子か。そちには高い技量があるということだな……。ところで、喜三郎が、なぜあれほど怒りを露わにしたのか、そちにはわかるか?」
「はい。この子の失礼な振舞いにより、南城家が愚弄されるとともにお殿様が気分を害されたことが理由と存じます」
口調こそ落ち着いてはいたが、シオンの身体は震えていた。
答え方を間違えれば、最悪の事態は免れられなかったから。
「そうだな。では、今からそちにやってもらいたいことがある。芸子というのは、人に芸を披露することで人を楽しませ喜ばせることができる存在……。余はそのように理解しておるが、間違っておるか?」
「いえ。お殿様のおっしゃる通りでございます」
「それでは、そちの力で、余の害した気分を『害する前の状態』に戻してくれ。それができれば、子供の振舞いは、すべて隅田川の水にでも流すとしよう。何の咎めもなしだ」
唐突とも言える、忠興の申し出に、シオンは動揺を隠せなかった。
確かに、この二年間で一連の芸を身に付けたという自負はある。お座敷に呼ばれたときも客の評判は悪くなかった。ただ、それはあくまで酒宴の席でのこと。場の雰囲気が大きく関わっていることは否めない。真っ昼間の屋外で素面の者から同様の評価を得られるかどうかは、全く自信がなかった。
「おねえちゃん……」
辰之介が、震える手でシオンの振り袖の袂を引く。喉の奥から絞り出すような、弱々しい声は、いつもの明るい声とは似ても似つかない。
シオンは、努めて笑顔を浮かべると、辰之助の身体を優しく抱きしめた。
「大丈夫。お殿様は寛大なお方だ。きっと許していただける。辰之助、ここで待っていておくれ」
シオンは、辰之助の耳元で囁きながら、自分に言い聞かせる。「自信があるかないかじゃない。やらなければいけないんだ」と。
「お殿様、恐れながら申し上げます。駕籠の中からでは、踊りは見づらい状況かと存じます。そこで、歌を披露させていただきます。
本日お聞かせする歌ですが、今まで誰にも聞かせたことはございません。二年前、江戸へやって来たとき、その道中であたいが作った歌だからでございます。なぜかはわかりませんが、お殿様にこの歌を聞いていただきたいと思いました……。お聞きください。曲名は『思ひ出綴り』です」
シオンは、両手を帯の下で重ねて駕籠の方へ一礼をする。
静まり返った通りに、暖かな風に乗った、桜の花びらが舞う。青い空に視線を移しながら、シオンは小さく深呼吸をすると、静かに目を閉じた。
次の瞬間、静かなメロディーラインに乗った、透明感のある声があたりに響き渡る。
歌詞の内容は、タイトルが示すとおり、シオンがそれまで生きた十年間の思い出を綴るもの――生まれ育った土地のこと、両親のこと、弟や妹のこと、友だちのこと。
しっとりとした、心地良い歌声が、忠興や家臣、沿道を埋め尽くす群衆の心に染み渡っていく。
不意に、人々の目の前に見たことのない情景が現れる。
自然に囲まれた、四季折々の美しい景色の中で、一人の少女が満面の笑みを浮かべている。
あるときは両親に手を引かれ、またあるときは弟や妹の手を引く。年格好が同じぐらいの女の子と木の下でお手玉をする姿も見ることができた。
それらはすべて、シオンの心の原風景であり大切な思い出。二年前、そっと心の奥にしまい込んだもの。「大切な人が幸せになりますように」。そんな思いを込めて。
最後の一節を歌い終えたシオンは、息を吐き出しながらゆっくりと目を開ける。
空は真っ青に晴れ渡り、暖かな風が緩やかに吹いている。
ふと、辺りが水を打ったように静まり返っていることに気づく。千人を超える群衆がいるのが嘘のようだった。
周りに目をやったシオンの顔に驚きの表情が浮かぶ。
どの人の目からも涙が溢れていたから。同時に、どの人の顔にも笑みが浮かんでいたから。
次の瞬間、沿道は大歓声に包まれ興奮の坩堝と化した。
現代で言えば、人気ミュージシャンによるライブコンサートが最高潮に達したときのようだった。
喜三郎をはじめ忠興の家臣も気恥かしそうに涙を拭っている。
「見事だ! これほど素晴らしい歌を聞いたのは生まれて初めてだ。そして、これほど清々しい気分を味わったのも久しぶりだ。シオン、そちに礼を言うぞ」
駕籠の中からシオンを称賛して止まない忠興の声が聞えた。
シオンは、駕籠に向かって一礼をすると、辰之助の元へ一目散に駆け寄った。「おねえちゃん、痛いよ」。そんな声を無視するように、辰之助の身体を力一杯抱きしめた。
その日、江戸の街に一人の歌姫が誕生した。
つづく




