第10話 宴
★
「この景色……変わらないね」
真っ青に晴れ渡る空のもと、隅田川の岸辺を歩いていたシオンは、歩を止めてポツリと呟いた。
弥生の季節が訪れ、辺りはすっかり春めいている。
桜の木には、緑がかった蕾が丸みを帯び、もう半月もすれば隅田川の両岸は艶やかな桜の花で彩られる。
三月は、陰暦では春の終わりに当たるが、現代では冬の終わり。春の到来を心待ちにする「春待月」といったネーミングは、実に的を射ている。
紫陽花の花をあしらった、薄青色の振袖に、小さな鈴のついた、黒い漆塗りの下駄――いつもの衣装を身に纏ったシオンは、隅田川のほとりに佇む、南城家の屋敷へと向かっていた。
その日は、午後三時に幕府の要人を招いての宴が予定されており、シオンたち芸子は歌や踊りを披露することとなっていた。
南城家というのは、関ヶ原の戦い後、徳川家に仕えるようになった、いわゆる外様大名。もともと九州北部を発祥とする家柄で、ここ数年、勢力の拡大が著しく、西日本では「影の幕府」などと称されていた。
当主の南城 忠興は、温厚な見た目とは裏腹に、強かな策士としての顔を持っており、緻密かつ巧妙にその手腕を揮っていた。
そんな忠興に対し、幕府は一目を置くとともに監視の目を怠らなかった。
「さすがは、飛ぶ鳥も落としちまう南城家だよ。四十人の芸子をまとめて指名して、しかも、あたいに『新曲を作れ』だなんてね。お殿様らしいと言えばらしいよ。まぁ、あたいらにとっても悪い話じゃないしね。幕府の要人が一同に会する場で歌や踊りを披露できるなんて、芸子冥利に尽きるってもんさ」
シオンは、履いていた下駄の一方を脱いで片足をブラブラさせると、再び南条家に向かって歩き出した。
確かに、急な話だった。
十日前の夜、何の前触れもなく、南城忠興の側近・黒田 喜三郎がシオンの置屋へやってきた。
忠興がシオンのことを買ってくれていたことで、シオンの方から南城家へ赴くことは珍しくなかったが、喜三郎のような人物が置屋を訪れるのは初めてだった。
用件としては、近々開かれる、幕府の要人を迎えての宴の場で、シオンと仲間の芸子全員による余興を行いたいというもの。ただ、宴は十日後。準備期間はほとんどなく、既に予定が入っている芸子も少なくなかった。
そんな中、喜三郎は、シオンたちに何度も頭を下げ、報酬はいくらでも支払うので何とか都合をつけて欲しいと懇願した。
江戸の街には、芸子が所属する置屋が多数存在しシオンのところより大きな置屋もいくつかある。そんな置屋を紹介するという選択肢もあった。しかし、女将と相談した結果、南城家の依頼を引き受けることとなった。
理由としては、要人の前で歌や踊りを披露する機会は滅多にあるものではなく、置屋の名声を高めることに加え、将来に向けて若い芸子たちの道が開けることが期待できたから。
それから十日間、シオンは当日の舞台の演出や準備をする傍ら、自らの曲作りを手掛けるなど不眠不休の生活を送った。
★★
南城家に到着したシオンは、その日、宴が行われる場所――中庭にある別館へ案内された。
本館の入り組んだ廊下を進み、一旦、裏戸から中庭へ出る。別館の入口を潜って、人一人が通れるぐらいの狭い階段で二階へ上がり、宴が行われる大広間から少し離れた、控えの間へ通された。
宴は二部構成で、第一部はシオン単独の舞台。新曲を含む五曲が披露され、シオンが退場した後、第二部として四十人の芸子による歌と踊りが予定されている。第二部はシオンの出番はなく、舞台袖から仲間を見守るという、芸能人のマネージャーのような役割を担う。
舞台構成は南城家からの要望に沿ったものだったが、シオンにしてみれば願ったり叶ったりだった。自分抜きの舞台を用意してもらえたのは、仲間の今後を考えれば、決して悪い話ではなかった。
★★★
「シオン姐さん、何だか緊張してきた。あたし、ちゃんとやれるかな?」
不安そうな顔をした芸子がシオンに向かってポツリと言う。
「できるさ。だって、練習のときは上手くできてたじゃないか。あたいが保証するよ。自信を持ってやりな」
シオンが芸子のおでこに自分のおでこをコツンと当てると、芸子の顔に安堵の表情が浮かぶ。
「お、大広間に幕府の偉い方が……たくさんいました。胸がドキドキして……苦しいです。歌や踊り……忘れちゃうかも。シオンさん、どうしよう」
顔を強張らせ今にも泣き出しそうな芸子が、シオンの顔をジッと見つめる。
「人だと思うからいけないんだ。ここを畑だと思いな。顔が長いのはキュウリ。大きいのはカボチャ。白いのはダイコン。酔っ払って赤くなったのはニンジン。野菜の前でなら歌ったり踊ったりできるだろ? 笑えて歌えないかもしれないね」
シオンが芸子の手を握って冗談っぽく言うと、強張っていた芸子の表情が見る見る間に緩んでいく。
「歌の途中で噴き出しちゃったら、シオンさんのせいですからね」
シオンは控えの間にいる芸子一人ひとりに声をかけて回った。緊張していた芸子たちの顔には笑みが浮かび、場の雰囲気も和やかなものへと変わっていく。
それは、仲間たちがシオンに絶大な信頼を置いていることの証しであり、仲間たちの間でシオンの存在がとても大きなものであることの顕れだった。
そうこうしているうちに、南条家の従者がシオンを呼びに来る。
そろそろ宴が始まるようだ。
「シオン姐さん、がんばって。みんなで応援してるから」
「任せときな。あたいが先陣を切って良い流れを作ってやるよ」
仲間たちの声援に手を振って答えながら、シオンは、三味線を小脇に抱えて控えの間を後にした。
少し間が開いて、大広間の方から大歓声が聞えてきた。
芸子たちは顔を見合わせて小さく微笑む。そして、目を瞑って大広間に向かって手を合わせた――シオンの舞台の成功を祈って。
★★★★
大広間にいるのは、約三十人の幕府関係者とその給仕を務める三十人の女たち。拍手の習慣がないため声援のみだったが、シオンが現れたときに沸き起こったそれは、まさに「割れんばかりの」という形容がぴったりだった。
そんな大声援の中、シオンはポツンと置かれた座布団に正座をして、深々とお辞儀をする。
「はじめまして。シオンと申します。本日はこのような場にお招きいただき誠にありがとうございます。芸子一同、とても光栄に存じます。
さて、本日は、新しい歌のお披露目を兼ねて、わたくしシオンが五曲を歌わせていただきます。その後、四十人の芸子による歌と踊りをご用意しております。
皆様に心より楽しんでいただけるよう、誠心誠意尽くしてまいりますので、お付き合いのほど、よろしくお願い申し上げます」
その場にいる一人ひとりと目線を合わせるように、シオンは、いつもとは違う、よそ行きの顔で挨拶をする。
「最初は、昨日、わたくしが眠い目を擦りながら夜なべをして作った曲。今回が初のお披露目となります。どうぞお聞きください。シオンで『隅田桜』」
静寂が包み込む中、三味線と撥を手にしたシオンは、フーっと息を吐き出す。
間髪を容れず、撥が弦を弾く、ビーンという音が大広間に響き渡った。
白魚のような指が生き物のように蠢き三味線の旋律を刻む。そんな旋律に乗せて、透明感のある、伸びやかな歌声が辺りを席巻する。
大広間にいる六十人の目がシオンに釘付けになった。
★★★★★
最後の曲が終わると、大広間は水を打ったように静まり返った。
三味線と撥を置いたシオンが、手を重ねて深々と頭を下げる。
その瞬間、割れんばかりの大歓声が沸き起こった。それは、最初のときよりもずっと大きく、本館はおろか屋敷の外にまで聞こえるようなものだった。
シオンのステージは小一時間ほどだったが、その場にいる者にとってはあっという間だった。
もともと芸子の歌や演奏は、宴を盛り上げるための余興に過ぎず、我関せずといった様子で黙々と酒を飲む者も少なくない。しかし、今回に限っては、そんな者は誰一人としていなかった。
歓声が鳴りやまぬ中、シオンは何度も会釈をしながら、笑顔で大広間を後にする。
「ただいま。無事に終わったよ」
控えの間に戻ったシオンの周りを、待ってましたと言わんばかりに芸子たちが取り囲む。どの顔からも笑みがこぼれ、口々に労いの言葉を発している。シオンの歌に感動して涙している者も少なくなかった。
「場はしっかりと盛り上げておいたよ! あたいも後で行くからがんばっといで!」
壮行の言葉とともに、シオンは芸子たちを笑顔で送り出す。
しかし、最後の一人が部屋を出た瞬間、まるで糸が切れた操り人形のようにへなへなとその場に座り込んだ。仲間の手前、気丈に振る舞ってはいたが、心身ともに限界を超えていた。この十日間ほとんど眠っていないことに加え、幕府の要人が揃った場での歌と演奏は思いのほかプレッシャーが大きかった。
虚脱感と睡魔に襲われる中、聞き慣れた演奏と歌声が聞えてくる。
「みんな、がんばるんだよ」
シオンは、安堵の表情を浮かべるとその場で気を失った。
★★★★★★
シオンは、自分の咳き込む音で目が覚めた。
息苦しさを感じ、目をこすって周りを眺めると、薄っすらと白い煙が流れているのがわかった。黒目がちの瞳が大きく見開いた。
慌てて立ち上がったシオンは、廊下へ続く引き戸を勢いよく開ける。
その瞬間、シオンの瞳が赤色に染まった。
なぜなら、廊下は火の海と化していたから。
大広間から芸子たちの演奏と歌が聞えてくる。
曲目からすると第二部が始まってほとんど時間は経っていない。短時間のうちに、なぜこんな事態に陥ったのか見当が付かなかった。
ふと、油の臭いが鼻をつく。「幕府の要人を狙った謀」。そんな言葉がシオンの脳裏を過る。
歌が聞えているということは、大広間の中には、まだ火の手は及んでいない。しかし、火は大広間を取り囲むように広がりつつあった。
『早くみんなに知らせないと!』
心の中で呟くと、シオンは大広間に向かって叫んだ――が、声は出なかった。思っていることが声にならなかった。大惨事に直面したことでパニックに陥っているわけではない。しゃべること自体できないのだ。
「火事だ! みんな、逃げろ!」
「ダメだ! 囲まれてる!」
「いやぁ~! 熱いよ! 誰か来て!」
「助けて! シオン姐さん!」
大広間の中から助けを呼ぶ声が聞えてきた。
大広間の周りは火と煙に包まれ、中の様子は窺い知ることはできない。ただ、一刻の猶予も許されない状況であることに間違いはない。
再度シオンは助けを呼ぼうと試みたが、やはり声は出なかった。
不意に、どこからか女性の声が聞こえた。
それは、シオンが誰よりもよく知っている女性の声だった。
「みんな、聞えるかい? どうだい? 江戸一番の歌姫が放った火の味は。よく燃えてるだろ? 油もしっかり使ったから火の回りも速いよ。悪いけど、みんな、まとめて死んでもらうよ。あたいの新曲も聞けたことだし、もう思い残すことはないだろ?」
つづく




