第9話 守れなかった約束
★
松山を一瞬で消し去った、炎の大蛇が、人間の脆弱さと無力さを嘲笑うように、全身から真っ赤な、火の粉を噴き上げる。
そんな悍ましい光景を目の当たりにしながら、清志郎はじりじりと後退りをする。
背中がリビングとベランダを仕切るガラス戸に当たった。
大蛇との距離は約五メートル。取り得る選択肢は二つ。一つは、その場にとどまって大蛇と一戦交えること。もう一つは、ガラス戸を通って、いつ崩れ落ちるかわからないベランダへ逃げること。
清志郎のこめかみから頬へ一筋の汗が流れ落ちる。
「くそったれ!」
清志郎は、ガラス戸を無造作に開けると、右手に妹を抱え、左手で姉の手を引いてベランダへ移動した。消防車のサイレンと街の雑踏が入り混じった不協和音が流れる中、灰色の空から雪の塊が落ちている。
リビングでは、炎の大蛇が、遅くもなく速くもない速度で着実に清志郎たちの方へ近づいている。
「サポート班! 聞こえるか!?」
「……はい。こちらサポート班・桂川です。隊長、ずっと通信が途絶えていましたが、何かあったんですか?」
清志郎の無線連絡に桂川が不安そうに尋ねる。
「話は後だ! 多目的ヘリはどこにいる? 到着までにあとどれぐらいかかる?」
「GPSによれば、現在JR蒲田駅の上空を飛行しています。天候を考えれば、十五分後には二十二階に着陸できます」
『ダメだ。もたねえ』
奥歯をギリギリと噛み締めながら、清志郎は心の中で呟いた。
「二十二階には行けそうにねえ! メイデンを二〇〇四号室の東側のベランダに着けてくれ! そこに子供が二人いる! 飛行した状態で二人を救助してくれ!」
「く、空中で救助って……無茶です! この雪と風ですよ!? 危険過ぎます! それに、二人ってどういうことですか? 七人じゃないんですか?」
「『できねえ』じゃねえ! 『やれ』って言ってるんだ! 不可能を可能にするのがカズワリーだろうが……! 頼む……頼むから言うとおりにしてくれ……」
桂川の質問に答えることなく、清志郎は言葉を絞り出すように言い放った。その声はとても苦しそうだった。
桂川は、現場班に何かが起きたことを悟った。清志郎の力では如何ともし難い何かが。
「了解しました。メイデンを二〇〇四号室のベランダへ向かわせます。大丈夫です。必ず期待に応えてみせます。だから、隊長も希望を捨てないでください。不可能を可能にするのがカズワリーですから」
詳細を尋ねることなく、桂川は冷静な口調で淡々と答えた。カズワリーが直面している危機的状況を、清志郎が打開してくれることを信じて。
「わかった。希望は捨てねえ。桂川さん、よろしく頼む」
清志郎は、小さく頷くと目の前の炎の大蛇を睨みつけた。
『これまで、こいつが子供たちを殺す機会はいくらでもあった。しかし、それをしなかった。信じられねえ話だが、こいつは俺たちカズワリーを狙っているのかもしれねえ。そうだとしたら、こいつの注意を俺に引きつければ、多目的ヘリが到着するまで時間を稼げる。ベランダはいつまでもつかわからねえ。ただ、今はもつ方に賭けるしかねえ』
清志郎の頭の中で考えがまとまった。
この状況ではリスクのないベストな選択などあり得ない。あるのは最小限の犠牲を伴うベターな選択のみ。しかし、判断を誤れば、犠牲は最小限では済まなくなる。
「お姉ちゃん、名前は?」
不意に、清志郎が姉妹の姉に話し掛ける。
「わたしは里奈。妹は春香」
「良い名前だ。じゃあ、里奈、おじさんの話を聞いてくれ」
穏やかな笑顔で接する清志郎に、里奈が「うん」と首を縦に振る。
「春香と二人、ベランダの隅でジッとしてるんだ。声も出しちゃダメだ。十五分経ったら、おじさんの仲間が白いヘリコプターで迎えに来る。ヘリコプターが見えたら大きく手を振るんだ。『ここにいるよ』ってな。できるか?」
「うん、できる。だって、お姉ちゃんだもん」
「よし、良い子だ。頼んだぜ、お姉ちゃん」
里奈の頭を軽く撫でると、清志郎は素早く立ち上がる。そして、炎の動きに注意しながら、リビングを通ってベッドルームへと移動する。
ベッドルームは、逃げ道がベランダのみで、お世辞にも安全な場所とは言えない。ただ、そのベランダは子供たちがいるところから《《最も遠い場所》》だった。
「こっちだ、こっちだ! カズワリーフライトの隊長ならここにいるぜ! そんなところで熱くなってねえでこっちへ来いよ、炎の旦那!」
清志郎の口から炎を挑発するような言葉が飛び出す。
すると、まるで言葉の意味を理解しているかのように、どす黒い炎がベッドルームの方へ移動し始める。リビングとベッドルームを隔てる壁をドロドロに融かしながら。
「やってみるもんだな」
清志郎は、苦笑いを浮かべながらベランダへ足を踏み出す。
里奈と春香の姉妹は、清志郎に言われたとおり、リビング脇のベランダの隅で抱き合うように身を潜めている。
★★
雪混じりの突風が吹き荒れる中、清志郎は、ポケットから最後の特殊消火剤を取り出して右手に持ち替える。そして、首から下げたお守りを外して左手で強く握り締めた。
「ご先祖、頼みがある。ろくに墓参りも行かねえでこんなときだけ頼るのは虫が良いのはわかってる。ただ、一度でいい。一度でいいから俺の頼みを聞いてくれ……。多目的ヘリが到着するまで、あの二人を守ってやってくれ」
渡の家は、江戸時代から続く火消しの家系。代々伝わるお守りは、一六五七年の明暦の大火で殉職した名火消し・渡清吉の形見の品。火災現場で清吉が支えた柱の一部が収められている。二年前、そこに西園寺綾音の写真が加えられた。
「アヤ、ごめん。約束、守れそうにねえみてえだ」
清志郎は、お守りに向かって申し訳なさそうに呟いた。
どす黒い炎に触れた雪が次々と気化し、ベランダは真っ白な靄に覆われる。火の勢いは、さらに増していた。
「来てみろってんだ!」
清志郎は、ベランダの手すりを背に両手を左右に広げる。「絶対に殺らせない」。そんな言葉が聞こえてきそうな、鬼気迫る雰囲気が漂っている。
それは、衣川の戦いにて、身を挺して主君・源義経を守った、武蔵坊弁慶の「仁王立ち」を彷彿させた。
突風を受けて、大蛇の目の部分で二つの赤い炎がユラユラと揺らめく。
口が大きく開いた瞬間、鉄骨が軋むような、不快な金属音が響き渡る。まるで大蛇が甲高い雄叫びをあげたようだった。
白い蒸気を纏った、どす黒い炎が清志郎目掛けて襲い掛かる。
特殊消火剤から白い霧が湧き上がった。しかし、それは強大な炎に何らダメージを与えるものではなかった。
清志郎は、静かに目を閉じた。
脳裏にカズワリーの四人の顔が浮かぶ。
『畜生……』
自分の不甲斐なさに薄らと涙が浮かんだ。
どこからか女性のものと思しき歌声が聞こえてきた。静かなメロディーラインに乗った、透明感のある声が、清志郎の身体を優しく包み込む。気怠いような心地良さが身体の隅々に広がっていく。
『俺は……死んだのか……』
清志郎は、自分に死が訪れたと思った。
女神の歌声が自分の魂を天に導いているのだと思った。
意識が少しずつ遠のいていく。
不意に、子供の泣き声が聞こえた。
ゆっくり目を開けると、ベランダの隅で身体を寄せ合う姉妹の姿が見て取れた。
姉の里奈が清志郎の方を向いて、必死に叫んでいる。
清志郎は、自分の身体に目をやった。
全身には、どす黒い炎――瞬時に人を消滅させる、炎の大蛇が絡みついている。にもかかわらず、清志郎は生きている。
清志郎の身体を、無数の水の滴からなる、半透明の膜が覆っている。どうやら、清志郎を炎から守ってくれているようだ。
清らかな心を彷彿させる、澄みきった滴は、憎しみが凝縮したような、どす黒い炎の対極に位置するもの。相まみえない二つの存在が、清志郎の目の前で凌ぎを削っていた。
呆気にとられたように眺めていると、水の滴が大蛇の全身を覆い尽くした。苦しんでいるかのように炎がユラリと揺らめく。
次の瞬間、どす黒い炎は跡形もなく消え失せ、時を同じくして水の滴も消えて無くなった。
清志郎には、何が起きたのか全く理解できなかった。「考える気力が失せていた」と言った方が正しいかもしれない。
ローターの回転音とともに、白いヘリコプターがベランダへ近づいてくる。
その姿を目の当たりにした瞬間、清志郎は、その場に崩れ落ちるように気を失った。
つづく




