変化
数日前より陽が昇るのが早くなった。
朝方はまだ冷える。
麻乃亜は鞄に自作のお弁当とパステルピンクのバックを詰め込み、登校準備を進めていた。
バックの中身は小学生の時に買って貰った裁縫セットだ。
可愛い表装を見るだけで心がふわりと華やぐ。
使うタイミングを失ったと思っていたバックが、再び日の目を浴びることが、嬉しくてたまらない。
まるで、遠足を待ち侘びている子供のように、学校指定の鞄を見つめていた。
「おはようまぁちゃん。もう友達ができたの? やけに楽しそうじゃない」
父が眠け眼をこすりながら麻乃亜に声を掛けた。
「うん! 二人も出来たよ。だからもう心配しないで」
どこか棘のある態度は、思春期特有のものだけではなかった。
「そう…。持ち物ちゃんと確認した? またウサちゃん人形入れてないだろうね。そんなに鞄パンパンにして」
心配性の父は麻乃亜の気持ちを苛立たせる。
「もう持って行かないし! バカにしないでよ」
「麻乃亜はだいじょぶヨ。お弁当も作れた。心配なし!」
母がコーヒーを啜りながら父の言葉を一蹴する。
父は母より母らしく、母は父より父らしい。
両親は服飾デザイナーとしてオリジナルショップを持っている。色味が明るくふわふわとしたデザインが母。ちょっと堅めなフォーマル系のデザインは父。
無論、麻乃亜は母の方が好きだ。
「ママ、昨日ね、演劇部に入ったの。だから、服とかたくさん作るかも。余ってる布とかある?」
「パパの方が知ってるヨ。おい、布どこに置いてる?」
父に話を振らないでよ、と母に見えない角度で顔を歪ませた。
「おい、だけはやめなさいって何回も言ってるでしょうが。子供たちが真似したらどうするの。…服を作るなら型紙から準備しないとね。どんな服作りたい?」
「…一番簡単な奴は?」
「下着かな。デザイン無しで、型紙通り縫うだけ」
「ふざけないでよ! 気持ち悪い」
麻乃亜は父に汚らしいものを見るような目線を送り付けた。
やっぱり父は嫌いだ。
現実主義の父は、夢のようなふわふわした服は作らない。
麻乃亜が小さいときに描いたフリルとリボンたっぷりのドレスも、目がちかちかするだのすぐに型崩れするだの、夢を壊しにかかる。
現実に作れなくても、夢見るくらいいいでしょう⁉
そんな時、母はよく余った布でミニチュアのドレスを作ってくれた。麻乃亜の夢だけを詰め込んだ傑作だ。
高校生になった今、それを見ると確かに馬鹿らしい。
どこで変わってしまったのか、どうして今頃父の意見に納得できるようになったのか。
理由が何であれ、今でも父が苦手だ。
「アッハッハ…最初から服はハードル高いヨ。アクセサリー作るか? サイズ気にしなくてもデキル」
「そうしようかな。ありがとう」
着る人のサイズが分からなければ、どれだけ頑張っても着てもらえないかもしれない。
その点、アクセサリーであればあまりサイズを気にしなくても良い。
練習にはもってこいだ。
「それよりまぁちゃん、時間は大丈夫?」
時計は七時四十分を指している。
「あっヤバイ! 行ってきます!」
焼いてもらったトーストを急いで食べ、バス停まで駆けだした。
日多輝駅前に着くと、駅前に真尋の姿が見えた。
「おはようございます!」
バスの降り口からでも聞こえてくる声は、麻乃亜の身体を突き動かした。
「真尋ちゃん⁉ おはよう。もうあいさつ運動しているの?」
「麻乃亜ちゃん、おはよう! 実は牛田先輩に捕まっちゃって…。生徒会入ったからには、早めに体験しておかないとね」
「偉いね。私には出来なさそう…。また学校でね!」
「うん。またねー」
真尋は楽しそうに、電車やバス通学をする日多輝の生徒へ挨拶を続けている。
「真尋ちゃんすごい…。あ、一音にも見せちゃお」
挨拶をする真尋を、遠くから隠し撮りをした。
凛とした立ち姿は、他の生徒会メンバーよりも輝きを放っているように感じる。真尋特有の高貴さを醸し出し、見とれてしまいそうになる。
真尋ちゃんは透明感のある、青い服が似合うだろうな。
すらっとしたシルエットにチュール素材のスカート。
赤でも似合うかも。中間の紫は…違うかな。
淡い海の色で、人魚の様な堅い鱗と、柔らかな肌を融合させて||
考えているうちに、教室が至近距離まで迫っていた。
教室には既に数人の生徒が距離を保ちながら着席していた。
「おっはよ麻乃亜! 聞いてよー、昨日母さんにブレザー引っ張られてさぁ、第一ボタン飛んで行っちゃったの。最悪でしょ。うちの家族無駄に力強いから、嫌になるわ」
さっそく一音はブレザーを脱ぎながら母への文句を早口で連ねる。
「それでボタンが取れちゃったんだね。どこかに引っ掛けたとかじゃなかったんだ」
麻乃亜はくすくすと笑いながら一音のブレザーと取れてしまったボタンを受け取った。
「そういえば…真尋はまだなのかな? 生徒手帳交換したかったのに」
「ううん。駅前であいさつ運動してたよ! ほら!」
麻乃亜は得意げにアルバムを立ち上げ、真尋の姿を一音に見せた。
「すご。もう生徒会になじんでるじゃん。駅前通らないから気づかなかったわ…」
「ねー。偉すぎて眩しいよ」
徐々に教室内の人数が増えていく。いくつかのグループもでき始め、平穏な日常が確立されようとしていた。
「おはようございます。まだ早いけど、結構そろってるみたいですね。始めましょうか」
字野は、教室に入るやいなや教卓に資料を積み上げた。ねっとりとした視線は教室内を嘗め回すように巡回する。生徒らは何も言わず指定の場所で着席した。
「オリエンテーション二日目の今日は、自己紹介と校則の確認、学校設備の案内をします。昼休憩を挟み、体育館で担当教員の紹介。えー二時から、クラブ活動の紹介もあるが、こちらは自由参加です。体育館とグラウンドで行われますので、興味がある人は参加してくださいね」
字野先生は黒板に予定表を書いていく。
時計の針が丁度八時四十分を指した瞬間、始業のチャイムが鳴り響いた。
「それでは時間になりましたので、不要物の回収をしていきたいと思います。不要物とは、携帯、音楽プレイヤー、イヤホン、ゲーム機、その他学業に必要がないと判断されるものです。校則の説明でもやっていきますが、この学校では生徒一人一人に専用の袋が配布されます。その中に不要物を入れていって」
「遅れてすみません!」
先生の説明を中断させるように、息を切らせた真尋が教室に入る。たった数秒の誤差だが、事情を知らないクラスメイト達は真尋に冷ややかな視線を投げつけた。
「大丈夫です。花瀬さんは生徒会に入ったと報告は受けております。今日も朝からあいさつ運動に参加したそうですねぇ。すぐに行動に移れることは良いことです。早く席に着きなさい」
真尋は先生に歓迎されたことに驚きを隠せずにいた。名前を憶えられたこともそうだが、理解のある人物であったことに意外性を感じつつ、着席した。冷ややかな視線は暖かな畏敬の視線へと変化していた。
「えー、先ほどの続きですが、簡単な荷物検査を行います。袋に名前が書いてありますので、自分の分を取ったら後ろへ回すように」
配布されたのは大きめのジップロックだ。フルネームが刻印されたテープが貼ってある。
「みんな回ったか? そこに携帯やらなんやらを入れて、前へ回すように。電源は切るように」
各々が貴重品を袋に入れ、前へ回していく。先生の前に着いた物から順に大きなショルダーバックへ片づけられていく。
「おい、えーと、一か。結構荷物が多いみたいだが、それはなんだ?」
字野は麻乃亜のやけに膨らんだ鞄に目を付けた。
「えっと、これは裁縫道具です。ちょっと用事があって…」
麻乃亜はおどおどとした態度で鞄を隠すような仕種をした。
「なんで隠す必要がある? 内職でもしてるのか。回収するからな」
メタボリックな体を横向きにさせ、席と席の間を通り抜ける。麻乃亜の鞄から無理やりそのバックを取り上げ、教卓で広げた。そして公開処刑のように一つ一つつぶさに確認していく。
その数秒の時間が麻乃亜にとっては数時間にも感じられた。
「ふむ…特に隠している物はなさそうだが、不要物であることは変わりないな。皆さんもこういうことはしないように」
パステルピンクのバックを見せしめの様に人差し指で持ち上げた。
「あの! それを持ってくるようにお願いしたのは私です。この子だけを責めないでください…」
一音が立ち上がり、麻乃亜を庇う。
「高村か…あまり変なことをするなよ。周りの人間を巻き込んで内申点を落とすと自己責任では済まないからな。今日はオリエンテーションなので、咎めませんが次は気を付けるように」
字野は長いため息をつき、貴重品の入ったショルダーバックを肩にかけ、教室を出た。
「…麻乃亜、ゴメンね。こんなことになるとは思ってなかった」
一音は麻乃亜に向かい、両手を合わせて必死に謝るポーズをする。
「いいよ。一音ちゃんは悪くないから」
麻乃亜は一音に振り向き、取り繕うような笑顔で向き合った。しかしすぐに前を向き、遠くを見つめ静かにため息をついた。
「なぁ、あれって小学生の時に買ったやつ? 俺の同級生が同じの持ってた気がするんだけど」
声を掛けてきたのは、麻乃亜の前に座っている新敷雄大だ。
「そうです。使おうと思ってて…」
「やっぱりな。俺は黒い龍が描いてある奴持ってたぜ。もうどこにあるか分かんねえけど。結構綺麗に持ってるんだな。さすが女子だわ」
「えっマジ? 雄大俺とお揃いじゃん」
「は? やめろきもいわ」
新敷を中心に少しずつ輪が広がっていく。まるで大きな氷の中心に熱した鉄球を投げ込んだようなスピードだった。しかしそれだけでは氷は全て溶けることはない。一瞬だけ会話の中心にいた麻乃亜はまた静かに息をひそめた。それでも表情はほんのりと明るく、晴れやかだった。
再び字野が教室に戻ると、熱を帯びた教室がすぅと冷え込む。
「邪魔したようですね。ま、仲が良いのは嬉しいです。それでは自己紹介を始めていきましょうか」
時間割通りに進行されていく。
自己紹介中は字野先生も時折笑顔を見せ、名前を言い終わると一人ずつ違う質問をしていく。好きな物、趣味、人物、夢、抱負。それぞれのキャラクターを理解しているのか、物静かな子には簡単な質問を、明るい子には少し難しい質問を繰り出した。そこから新たに会話の芽が飛び出し、和やかな雰囲気で時間が過ぎて行った。
最悪な第一印象を見事に覆していった瞬間であった。
「次」
「うっす、新敷雄大です。趣味は野球で四歳からやってます。夢はプロ野球選手で好きな物はバレンタインのチョコレート、誕プレ、あと漫画も好きです。ちなみに誕生日は」
「そこまで聞いていない。質問することはなさそうだな。次」
「待ってっ」
新敷は明るい性格のようで、すぐにクラスのヒエラルキーの頂点に君臨した。
字野の冷静な判断によって、笑いの化学反応が起こる。
「早く次」
「えと…一 麻乃亜です。よろしくお願いします…」
笑いの渦が出来上がった後の自己紹介程ハードルが高いものはない。
様子を見ながら、麻乃亜は声を出した。
「この前も思ったが、すごく珍しい名前だな。…それはさておき、君は裁縫が得意なのかね?」
名前に触れた瞬間、麻乃亜の表情が暗くなった。
字野は少しの変化も見逃さず臨機応変に対応を変えた。
「はっはい!」
「どんなものを作る?」
「ぬいぐるみとか、です」
「聞いたところだが、高村と演劇部に入ったそうじゃないか。服とかも作れるのか?」
「そのつもりです。両親が服飾デザイナーなので、教えてもらいながら…作っていけたらと思います」
「何それすげぇじゃん。服作れるってやばい。俺のも作ってよ」
雄大が会話の芽をいち早く掴み取り、成長させていく。
「え…まずは一音ちゃんのを作りたい…」
麻乃亜は正直に断りを入れた。雄大が掴んだ小さな芽は茨のように棘を生み出していった。その先の花は全て一音に向けられ、気高く咲き誇る。
「えっ私⁉ やったぜ。見たか」
一音は突然の指名に驚きとニヤけを抑え込めずにいる。
「うおお振られた。んだよー、別にいいけどさー」
「ごめんなさい。私女の子の服が好きなの」
理由をいくら付け加えようと、雄大に刺さった棘は抜けることはない。
明るく振舞うが、その手の内はひっかき傷だらけだ。
「ふむ。一、素晴らしい答えだな。異性交遊は原則適正な範囲で行うこと。先生の前では禁止。分かったか」
「先生、嫉妬ですか?」
「体罰が発生するからな」
雄大の傷ついた手から放たれる煽り文句は非常に鋭く字野に向けられる。だが、それを華麗に避けたうえ、新手の爆弾を投下していく。
その衝撃はひっかき傷を吹き飛ばし、笑いをかっさらっていった。
生徒から次々とツッコミが入る。それらを無視する形で進行した。
「ほい、次」
「はい。花瀬真尋です」
「朝も言ったが、花瀬は昨日の時点で生徒会に入ってるな。多分歴代最速じゃないか? 生徒会でやりたいことはあるか?」
「はい。この学校の様々なイベントに携わり、みんなを笑顔にできるようにしていきたいです」
「そうか。素晴らしいな。ついでに先生の給料も増やして笑顔にさせてくれ」
「私利私欲のために権力は使えません…」
お堅い決まり文句を素早く笑いへ変換する。どこか自身を卑下するような言葉は、昨日の態度からは想像できない変化ぶりだった。
「次―」
真尋は少し前まで嫌っていた先生を、尊敬の眼で見ることができた。
隣のクラスは今日は静かだ。
こちらに集中しているからなのか、本当に静かなのかは分からない。
なんとなく勝ち誇ったような気分だ。