親愛なる、歪で優しい同居人さま
だいぶ前から書いてた話で、もういいだろうと思い投稿しました。
たぶん、あまり面白いみのある話ではないです。
ふーん、程度で読むことをお勧めします。
大きくて優しい掌が額に掛かる髪をそっと撫でる感覚で目が覚めた。
真っ暗なリビング、帰ったそのままのスーツ姿でソファに転がった気だるい身体。どうやら疲れすぎて、倒れ込んだそのまま眠ってしまったようだ。
「ただいま」
彼の耳なじみの良い穏やかなテノールが鼓膜を小さく揺らし、覚醒したはずの頭はまた眠りという揺りかごに戻りたくなる。
「…寝てた?」
「疲れてるんだろ」
それに抗うようにノロノロと身体を起こし、視界を遮る髪を手で抑える。そんな私の様子を見ながら、彼がゆったりとリビングの端へと歩いて行き、オレンジ色に暖かな光を放つフロアライトに明かりを灯す。
「休んでな。今日は俺が作る」
彼はそれだけ言うと、スーツの上着を脱いでソファの背もたれにかけると、ワイシャツの袖をめくりながらキッチンへと歩いていく。
「でも…」
「ユイがいつも俺より早く帰るからお願いしてただけで、別に食事当番は固定なわけじゃないよ」
それは悪いと立ち上がろうとする私に、彼は困った子を見るように笑い、そう諭した。その言葉で手持ち無沙汰になってしまった私は、仕方なくソファに取り残された彼の上着を胸の前で抱き込む。
「…ハンガー掛けなくていいの?」
「掛けといてくれる?」
私の問いかけに、彼が包丁で野菜を切りながら何でもないことのようにさらっと言葉を返す。だけど…
「…私が部屋入っちゃって平気?」
「いいよ。隠すものなんてないし」
3LDK、そのほとんどが共有となっているこのマンションの一室で、唯一互いに立ち入らないのがそれぞれの私室だ。私たちが一緒に住むようになったこの1年で、私は数えるほどしか彼の部屋に入ったことがない。それも全て、彼がいるときだけ。
それ以上もう話すことはないという風に真剣な表情で手元に集中し始めた彼を尻目に、私は仕方なしに上着を持ち、彼の私室へと続く廊下を歩いていく。
お目当ての部屋へ繋がるドアノブに手をかけ、ほんの一瞬、いけないことをしているような背徳感から固まってしまう。
「…いいって言ってたし」
そんな言い訳めいたことを呟きながら、扉を開ける。モノトーンでシックと言えば聞こえがいい、殺風景な部屋だ。休日に仕事をするときくらいにしか使われないこの部屋は、本当に生活感のない、シンプルすぎる部屋だ。その部屋の壁に取り付けられたスライド式のクローゼットを開け、空いているハンガーにスーツをかけ、扉を戻す。カタリッと閉まるクロゼットの音がやけに響く。普段よく観察することのないその部屋をついでとばかりにぐるっと見回してみる。
ぞくりと、立ち上るのはじわじわと侵食していくような孤独の恐怖。それから逃げ出すように、足早にそこから部屋の外へ出た。
昔から、人のいない静かな部屋は苦手なのだ。
「ねぇ、なんであの部屋あんなに生活感ないの?」
食後、それぞれに本を読んでリラックスしているタイミングで、ふと不思議に思い、聞いてみた。
「必要ないから」
そんなことをさらっと言う彼。その横顔はよく見せることのある穏やかな微笑み。しかしこの男、その柔らかな外面に対して意外と内面はドライだ。考え方も基本体育会系だし、落ち着いた物腰に見せかけたそのフットワークはあまりにも軽すぎる。
「…でも、人の温もりがないのは苦手なんでしょ?」
「仕事するときはむしろいらないの」
そんなことを言いながら彼は手元の文庫本から目を離すことなく、ページを一定にめくり続けている。私の座っている横にピッタリとくっついたまま…
「お前だって苦手なのに私室に時計置いてるだろ?」
「…まぁ、支度するのに必要だからね。それにそれくらいしか私室使わないし。」
「同じようなもんだよ」
よくわかるような、わからないような理屈でそう話を終わらせる彼に、ちょっと腹いせでわざと寄りかかってみる。
彼、井浦啓介と私、内山由依はそれぞれの理由から同居、ルームシェアしている。啓介は「人の温もり、気配がないところだと落ち着かない」から、私は「誰もいない密室に長時間いると具合が悪くなる」からと。私たち2人は決して付き合ってるわけでも、結婚してるわけでも、恋愛関係にあるわけでもない。互いの利害一致と偶然が重なった結果、この1年ほどずっと奇妙な同居人の関係を続けているのだ。
啓介は私にとって空気のようで、水のようで、蝋燭の火のような人だ。一緒にいていい意味で存在感がなく、そこに居てくれると乾きが潤うようで、その存在が燈るだけでホッとする。
社会人になってからの付き合いで、同じ建物に入っている違う会社の人同士。私の同僚の子と同じ大学の出身で、それ繋がりで何度か一緒に飲んだことがあるという、なんとも薄らぼんやりした第一印象の男だった。それが、私が酷く酔った時に吐いた「誰もいない部屋が怖いから一人暮らしできない」なんていう言葉に、彼がルームシェアを持ちかけてくるなんてあの時は夢にも思わなかった。
一緒にご飯も食べるし、土日もよく一緒に出かける。寝るのも互いの心の安定のために寄り添うように一緒に寝る。でも、互いに恋愛感情は一切ないし、過ちが起きたことは一度もない。私たちの関係は、互いに都合の良い傷の舐め合いのようなものなのだ。
チラリと、隣の啓介を盗み見る。サラサラとした癖のない黒い髪に、優しげな顔立ち、男らしい喉仏…そこまで見て、何か見てはいけない気がしてきて視線を手元の本へと落とす。
彼は間違いなくモテる。実際彼と同じ大学の私の同僚ちゃんは、彼のことが好きだった。でも彼は、この1年間好きな人も、彼女も作ってはいない。
『この間別れた子のことがまだ忘れられないんだよね…だから、しばらくはそういうことはしないよ』
同居し始めて早々に、私にそう答えた彼は少し寂しそうに笑っていた。私も長いこと恋の痛手から抜け出せずにいたので、なんとなく気持ちは分かる気がした。
でも、もう1年…そろそろこの関係も終わるかもしれない。
「なぁ、」
「ん?」
考え事をしながらの虚ろな読書中。啓介が私に声を掛けてくる。
「俺たちさ、同居生活して1年じゃん」
「その言い方、誤解されそうだけど…まぁ、確かに1年経ったね」
私の素直じゃない肯定に動じた様子もなく、啓介は次へとページをめくりながら事なさげに言葉を続ける。
「結婚でもする?」
…予想外すぎる斜め上の提案。思わず本から顔を上げ、彼から距離をとった私とは違い、彼は視線すら上げず手元の物語へと視線を巡らせている。
「…冗談にしてもタチ悪いよ。どうしたの?」
互いにわかっているはずだ。私たちの関係では親愛は成り立っても、最愛にはなり得ないと。
「…振られたの?」
ここ数ヶ月、たまに香る違うシャンプーの匂い。いつも生活を共にしていたのに気がつかない訳がなかった。
「他の女と同居してる男なんて、信用できないってさ」
私の問いを肯定するように、啓介はしれっとそんなことを言って、とうとう耐えかねたように本を閉じる。そこに浮かぶのは自嘲するような、少し無理矢理な笑顔…
「そう…」
「うん、そうなの」
それしか答えられない私と、意味もない肯定をする啓介。互いにこれしか答えられないのは重々承知していた。でも、私たちはわかっている。これが居心地が良いだけの、続けていい関係ではないことを。
「…私、啓介好きだよ」
「…知ってる」
「でも、それは異性とか、恋人とか、結婚したい人への好きとは違うの」
「それも知ってる。だって、俺もそうだから…」
一回だけ、2人でべろべろに酔って悪戯にキスをしたことがある。けど、その時目にした、目の前にある互いの表情に、それぞれ困ったような、納得したようなものを感じ取ったのを強く覚えている。「なんか違う」という漠然とした感覚。だけど、確実に自分の中でその感覚ははっきりと輪郭を持ち、ストンと認識に落ちてきた。
私たちはどんなに気が合って、気心知れてて、穏やかに過ごせていても、互いに「器が噛み合う相手」ではない。
「まぁ、でも…30年後まで互いに独り身ならそれもありかもね」
そう言って、少し寂しそうな啓介の横に、今度は背中で寄りかかるようにして座り直す。
「30年後かぁ…まぁ、それもいいかもな」
啓介もそんなことを言って、納得したような声を出し、また本を開く。ペラ、ペラと、互いの紙をめくる音だけがまたリビングに響く。
「明日さ、何か用事ある?」
「ん?ないけど?」
「じゃあさ、山行かない?」
「…いいけど。じゃあ、日曜は買い物付き合ってね?」
「わかった」
できるなら、この穏やかな時間が、
その終わりの時まで優しく貴方を包みますように。