第5話 入梅と珍客
(今日も雨が降るだろうな)
時間然り、天気然り、はたまた感情も然り。
流動的なものに、いつでも僕たちは振り回される。
もしもこの世界が予定調和だけで構成されていたなら、誰も傷付かない、そんな優しい世界だっただろうか。
時間は流れ、今は6月の上旬に差し掛かった。
どうやらつい先日に梅雨入りしたらしい。
今朝のお天気お姉さんが言っていたから間違いない。
間違いないったら、間違いない。
燻んだ白の空を見上げた。
使い古した座布団を裂いたら、こんな色の綿が飛び出すだろうか。
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「皆さん! 明日の図工の時間で使うので〜、おうちからわたを持ってきてくださいねぇ〜! 」
不自然なくらい間延びした先生の声が、教室に響き渡った。
そして先生は言葉を付け足した。
「わたは別に買わなくても、おうちで捨てちゃう座布団の中身で大丈夫ですからねぇ〜! 」
この言葉を聞いた僕はその日、祖母にお願いをして、祖母の家の納戸に仕舞われていた古びた座布団に、ハサミを差し込んだ。
取り出した綿は純白と言い難いし、イメージしていたふわふわな感触とは程遠くて、目が詰まったというか、とても硬い感じがした。
その有り様を見て僕の頭には不安がよぎったが、先生の言葉を頭の中でグルグルさせて、怯えを飲み込んだ。
後から思い返すと、この時に母親にでも泣きつくべきだったのかもしれない。
僕が物心ついた辺りで、父さんは他界した。
詳しくは知らないけど、病気だったらしい。
母さんは僕を見るたびに、いつも笑顔を浮かべ「幸せだよ」なんて口ずさむけど、その笑顔の裏には絶望が潜んでいたはずだ。
でも母さんは、今の生活が苦しいとか一度も口にしなかった。
それどころか「欲しいものはなんでも買ってあげる」なんて、僕に言い出すこともしばしばだった。
けれど、隠しきれない部分がもちろんあった。
僕に着せる服よりも、明らかに薄っぺらで安っぽい生地の服。
少しごつごつしてて、いつもヒビ割れてて痛そうな手。
化粧品や美容品の類を、我が家では見かけたことが殆どなかった。
年齢不相応に賢しかった僕は、ほんの少しだけ想像をしてしまった。
母のどうにもならない、悲しみの一節を。
当然、ワガママなんて言えるはずもない。
次の日の朝に学校へ行くと、パッケージングされた綿の袋がいくつも視界に入った。
中にはランドセルと同じくらい、大きなものまである。
量が特に指定されていなかったせいか、大量に持ってきた人も居たらしい。
「おいみんな!わたを欲しいやつは、俺のとこに来ればやるぜー! 」
1人の声を皮切りにクラス中が騒ぎ出した。
その中には、「私もみんなにあげるよー」なんて声も、ちらほら聞こえてくる。
時計の隣に貼られた、大きな掲示物に視線を移す。
『クラス目標 : みんな仲良く、助け合うクラス! 』
先生はいつも、「みんな仲良く」や「みんなで協力して」なんて言葉を口にする。
純粋で、優しい人だったのだと思う。
目の前で教え子が助けを求めたら、きっとすぐに身を呈し手を伸ばせるような、そんな理想的な先生だった。
けど一点だけ理想と違ってしまったのは、子供の純粋さを疑うだけの、教師の経験が足りなかったことだろう。
──おい! 今日から『みんな』で『ゴミ』のことは無視だかんな!!
皆が唱える『みんな』という言葉には、
いつも『僕』だけが含まれていなかった 。
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本当にくだらない過去を思い出した。
こんな些細な出来事を未だに覚えているのはどうしてだろう。
きっと割り切った振りをして、実のところ目を覆って忘れようとしてるだけだからだ。
過去は偉大だ。
『過去があるから今がある』なんて言葉もある。
過去の一つ一つが、僕という人間を形作ってしまったというならば、ロクな人間に育ってくれないのも納得だ。
過去は偉大だ。そして強敵だ。
過去は人を殺せる。
どうやって過去に立ち向かえばいいのだろう?
どうすれば過去に殺されずに済むのだろう?
「おいスズ〜!あんた今日、日直じゃなかったぁ?」
「私としたことが、完全に忘れていました……!」
「大丈夫? あんた最近おかしいわよ……?」
「五三君! 日誌を取りに行って来ますので、しばしのお別れです! なるべく早く戻ってきますね! 」
ドタドタと、何一つお嬢様らしくない足音が遠のいていく。
この人は、どうして飽きもせずに毎日毎日、何も反応しない寝てるだけの僕に話しかけてくるんだろうか。
授業中でも御構い無しに何度もこちらを見てくるので、常に監視されているようで落ち着かない。
正直言って鬱陶しく感じていた。
何が彼女をここまで突き動かすのだろう。
自分の過去の行動をどれだけ振り返っても、納得のいく答えは出ない。
まぁ何はともあれ、とりあえず今日も1日平和で暮らせますよう……
──バァァン!!!
「ぎゃああああーー!!!!」
(これは誰の声だ!? 僕の声だ!! )
突然の出来事。
本当になんの前触れもなく、僕の右足に激痛が走った。
感触的に間違いなく、誰かに足を踏まれた。
しかも相当なパワーで。
痛みに悶絶しながら顔を起こすと、すぐ目の前で女の子が腕を組んでいた。
いかにもイケイケって感じの、ギャルっぽい見た目だ。
僕なんかと到底関わり合いそうもない人種だが、浮かべる表情は、何故かめちゃくちゃキレていた。
わけもわからず戸惑う僕を睨み付けつつ、彼女は口を開いた。
「五三くぅん? スズのことで話あンだけど、ついてきてくれるよねぇ?」
優しそうな猫なで口調と、教室のドアへと顎でしゃくる姿が、酷くアンバランスで不気味な印象を抱いた。
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『壁ドン』という言葉をご存知だろうか?
今や少女漫画の定番である、あの壁ドンだ。
ざっくり説明すると、イケメンがヒロインの女の子を壁際へと追い詰めて、壁に手を突いて追い詰めるという、一見して外道にしか思えない行為だ。
もしも現実でイケメン以外がやったら、通報されてたちまち殺されてしまうらしい。
今まさに壁ドンをされている人間が1人いた。
それはヒロインでもなければ、まして女の子ですらない、紛れもない僕だった。
先導されるまま連れてこられたのは、三階と屋上を繋ぐ階段の踊り場だ。
そして気付いた時、僕は壁と女の子に挟まれていた。
咄嗟に逃げようとしても、左右に張り巡らされた彼女の手が許してくれそうにない。
これは壁ドンの中でも特に凶悪な、『両手壁ドン』ってやつだ。
相手は女の子だし、羨ましいって思う人もいるのかもしれないけど、この時の僕には恐怖という感情しか湧かなかった。
「率直にきくけどさ、なんでスズのこと無視してんの? 」
彼女は口を開いた。
まさか、この体勢のまま話をするのだろうか?
流石にそれは難易度が高すぎる。
「と、とりあえず、離れ…」
「さっさと質問に答えてくんない? 」
一瞬で願いは却下され再度質問が投げられたが、ここで簡単に答える僕ではない。
普段から人との関わりを苦手とする根暗な僕が、こんなに至近距離で他人と会話することはまずないし、まして異性への耐性があるわけがない。
要するに、僕はもう限界だった。
「ちょ、ちょっと!? 」
突然ペタンと座り込んだ僕に、驚きを含んだ声が落とされた。
そしてしゃがみこんで「大丈夫!?」なんて言いつつ、肩を揺すってくる。
第一印象は最悪だったが、根は優しい人なのかもしれない。
「だ、大丈夫なので、とりあえず、離れて頂きたく……」
「離れてもいいけど、絶対逃げないでよ? 」
壊れた玩具みたいに首をブンブン振るうと、ようやく解放された。
この短時間で、心に深い傷を負った気がする。
「繰り返すけどさ、貴方はなんでスズのことを無視してんの? 」
「えっーと……」
返答に困る。
『スズ』とは、恐らくは来栖川さんの愛称だ。
そこから推測するに、この人は来栖川の友人か何かだろう。
きっと自慢の友人が、僕程度の人間に連日無視され続けてるのが、鼻持ちならないに違いない。
「無視してるというか、そもそも話しかけられる理由がないというか……」
「スズから、貴方たちの出会いのことは、ざっくりとだけど聞かせて貰った。話しかける側には理由があるみたいだけど? 自分さえ良ければいいって考えなわけ? 」
いちいちガンを飛ばすのはやめてほしい。
なんて返せば、この場を穏便に済ませられるだろうか。
僕が悩み始めたところで、彼女は再び口を開いた。
「そうやって貴方が逃げ続けることで、スズが泣こうが、知ったことないってことね 」
「えっ……?」
咄嗟に困惑の声が漏れた。
泣く……? なんで泣くんだ?
別に僕に無視されたところで、ほかにいっぱい仲のいい友人とかいるだろう。
たった1人と話ができなくても、他にたくさんの友達が居れば楽しいはずだろう?
「貴方に無視されることで、スズはめちゃくちゃ傷付いてんのよ! それくらい想像できないわけ? 痴漢から助けてくれた人にお礼なり伝えようとしたら、肝心の相手は何度話しかけてもふて寝してるだけ! 傷付かないわけないでしょうが!!! 」
彼女は早口でまくし立てる。
その言葉には、確かな正当性が有った。
人と関わることを嫌い始めて数年が経ったが、他人の感情を慮る能力が、絶望的に退化していたらしい。
無視することで、何も起こらずにお互い平穏に過ごせると、勝手に思い込んでいた。
気は進まないが、元はと言えば僕が蒔いてしまった種か。
「わかりました。今日の放課後にでも、来栖川さんと話してみます」
望んだ回答だったのだろう。
その言葉を聞いて、彼女は満足げに頷く。
そして間髪入れずに呟いた。
「なんで敬語?」