お別れ喪服譚
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
こーちゃんは、ちゃんとした「喪服」を持っているかい? 僕はまだ学生ってこともあって持っていない。ブレザーの制服姿だよ。
一応、黒色ではあるんだけどさ、他の喪服を着た人と比べてみると、やはり色の明度が違うんだよねえ。僕のブレザーは、周囲に比べて薄めの黒。灰色に近い感じがしたのさ。
他にも社会人っぽい人がスーツで来ていたけど、喪服が持つ深い漆黒には及ばない。聞いたところだと、喪服はスーツとは違う、特別な素材が用いられているとか。
そういえば、どうして喪服は黒色が使われるようになったか、こーちゃんは知ってる? 僕も疑問に思って調べてみたんだけど、黒が幅広く主流になったのは、かなり最近のことらしい。それまでの日本では、白い喪服が多かったとか。
その調べ物の時、ちょっと興味深い言い伝えを発見してね。こーちゃん、この手の話が好きだったろ? ちょっと聞いてみないかい?
江戸時代の、庶民というにはいささか大きい家でのこと。つい先日、この家の主人が亡くなり、家族は通夜と葬儀の準備に取り掛かった。
生前に、仕事でひと山当てて大いに儲けたという主人は、旅が好きだったという。年の中で仕事が落ち着いた時期がくると、ふらりとお伊勢参りに出かけたりして土産を買って帰り、「どこそこへ参ってきたぞ」と、周りの家へ配ってまわっていた。
お土産という、ただで手に入るものをもらって、嬉しくない者はそうそういない。みんなからの感謝の言葉を受けると、主人はほくほく機嫌が良くなり、家に帰ってもにこにこ笑いっぱなしだったらしい。
「何であれ、俺がやることでみんなが喜んでもらえるのが嬉しい。自分が受け入れてもらっていることが分かって、胸の奥がすっきりするんだ」
ごきげんな理由を尋ねられた主人は、そう答えたらしい。
仕事で成功するまでは、何をやっても軽んじられ、蔑まれる日々ばかり重ねてきたという彼。その期間が長かっただけに、自分が認められることに飢え、こうして成功を収めた後でも、誰かが喜ぶ姿は自分が受け入れてもらえたようで、心地よくなるのだとか。
そう語って止まない彼の弔いの儀。きっと多くの方に参列してほしいと、願っているだろう
たくさんの人に見守られながら、この世に別れを告げたい。きっと主人もそれを願っていると、遺族は多くの方へ参列を願ったそうだ。
それに際し、親族が参列者へ依頼したことのひとつに、喪服の着用願いがあった。当時、喪服といえば近親者が身に着けるのみで、弔問客に関しては、普段着での参列が通例とだったんだ。
「主人は生前より、人に認められることに情熱を注ぎ、また切望していた。それが普段着で参加する人々を目にしては『所詮は俺の死など、皆にとって日常の延長、どうでもいいことに過ぎなかったのだ』と、化けて出てしまうかもしれない。
主人の魂を安んじるためにも、なにとぞ、曲げて承諾していただきたい」
当時の庶民にとって、喪服は借りるものであり、普段から家に置いてあるものではなかった。主人の遺族もまた、思い込んだらやり抜く熱意を持っており、用意が難しい弔問客に対しては、費用を工面したりして前もって用意をしてもらう、周到ぶりだったという。
そして通夜の当日。遺族から訪れる者たちに至るまで、喪服に身を包んでいるという、異例の儀が執り行われた。
そもそも、通夜や葬儀は大変な金がかかるため、身内や周りに住まう者たちのみでひっそりと行うことも、珍しくなかった。それをここまでの規模で行うのは、いち庶民としては異例の出来事だったという。
家の前では白装束が長い列を成し、ゆっくりと進んでいく。たまたま通りかかった者は、このすべてが通夜の弔問客だと分かると、気味の悪ささえ覚えてしまったらしい。
その白い列の中に、とても目立つ格好をしている者が、点々と混じっている。彼らは周囲と対照的な真っ黒い衣服に身を包んでおり、いずれも亡くなった主人と同等以上に、歳を重ねていたという。
並んでいる他の弔問客には、ちらちらと目を向けられ、玄関では遺族にも見とがめられる。
何しろ、当時の黒い色というのは、めでたい色として認知されていたんだ。それを通夜で着てこられたとあっては、とても穏やかな気持ちでいられないだろう。
その際に、彼らはこのように申し開きをしたんだ。
「白は清めと、出立の色。確かに死出の旅に出る者を送るに、ふさわしい色のように思えよう。だが、『受け入れること』を考える、今回の儀であれば事情は異なってくる。
清めの白は、決して他を引き入れようとしない。その証拠に、わずかな汚れを浴びただけで元来の色を失い、浴びせてきた色に染まってしまう。
あるがままを受け入れるといえば聞こえがいいが、実際には、場に流されただけの、自己なき日和見。形のみの受け入れよ。そのような、うわべだけの受容など、底が知れるもの。
だが、黒は違う。飲み込まんばかりに、すべてを受け入れてくれる。
地面や山肌に穿たれた穴を見よ。あれらの中身はどこまでも黒く、通ることができる大きさならば、何人たりとも妨げない。かの白もまた、光の届かぬ闇の中では、黒に染まらざるを得ぬ。
黒こそ真の受容。受け入れの意を示す色。身にまとうこの漆黒こそ、わしらが彼に表す、哀悼の意なのだ」
熱弁を振るう彼らではあったが、大勢から見れば、清浄に整えたはずの一端を汚す、墨汁の染みに過ぎない。
結局、彼らは「白い服をまとってから、改めて来ていただく」と告げられる。線香をあげることも、故人の顔を見ることも許されず、追い返されてしまったそうだ。
長い弔問客の列が切れた時には、すでに夜が更けようとしていた。ここから一晩、故人のそばで思い出話をしながら、寝ずの夜伽を行わねばいけない。
長い時間、主人と共に過ごしていた大人たちは、次から次へと話題を提供する。口を動かしている限りは、ほとんど眠気はやってこないもの。
けれども幼子たちにとっては、実感が湧かない話の、聞き役に回ることが増える時間。どうしても眠たくなって、座りながらうとうとしたり、場合によっては足を崩したまま、畳に身を横たえたりしてしまったそうだ。
大人たちはそれに気づくたび、「寝てはいけない」と、子供たちを無理やり起こす。たいていの子は声をかけられ、肩を叩かれれば眠たそうに眼を覚ました。だが、一番年下の子が寝入ってしまった時は、なかなか起きてくれなかったそうだ。
気持ちよさそうな寝息を立て、いかなる妨害も受け入れず、小半刻(約30分)ほど眠り続けた子。それが突然、高炉に立ててある線香の一本が燃え尽きると同時に、かっと目を開いて飛び起きた。
親たちが注意する前に、その子は息せき切って、みんなに話をする。夢の中で、主人に会ったと。
「おじさん、ここで寝ている服装そのまま、両目を押さえて苦しそうにつぶやくんだ。『まぶしい、まぶしい』ってさ。
けれど、夢の中はすごく真っ暗。僕は『何がそんなにまぶしいの?』と訊いたんだよ。そしたら『みんながまぶしい。身に着けているものがまぶしい。みんなが私を避けている。みんなが私を嫌っている』って、悲しそうな声で答えたんだ」
一同は少し動揺したけれど、所詮は夢で見たことだ、と深くは考えないことに決める。きっと昼間の黒い服を着ていた老人たちとのやりとりが、夢に影響しただけなのだ、と。
翌日。夢のことを少しは気にかけていた遺族だが、いざ取り掛かってみると、入棺前の湯かんから埋葬に至るまでが滞りなく完了し、ほっと胸をなでおろした。でも、初七日に入ってから、少しおかしなことが起こり始める。
一切の外出をせずに、慎んだ生活を送る彼らだったけど、日を追うごとに、白い喪服のあちらこちらに黒い染みが出てくるんだ。初めは気にも留めない小ささだったが、三日も経つと、各々の胸の部分がすっかり黒くなってしまう。
試しに脱いでみて、遺族は驚きの声をあげた。彼らの着ていた喪服の裏側は、元々が表面と同じ白い生地が使われていたんだ。それが今は、完膚なきまでに黒が裏地を占領してしまっている。更に、指でその箇所を触れてみると、「ぬちゃり」と音を立てるくらいに湿っていた。
慌ただしく別の喪服に着替えた遺族だったが、そのいずれもが一日も経たないうちに、同じ末路をたどる。脱いだ後でも服の黒化は止まらず、初七日を終えた時には、最初の喪服は真っ黒になってしまっていたという。
それはちょうど、自分たちが追い返した老人たちがまとっていた衣服と、大差ない格好と化していたんだ。
弔問客が借りていた喪服も、同じ目に遭っていた。すでに、ほとんどの喪服が返却された後での変化ということもあり、貸した方もあまり強くは追及できなかったらしい。
しかし、遺族に関しては別。四十九日が過ぎるまでの間、まとった衣服は緩やかに黒色を帯びてしまい、ほとんどが雑巾への道をたどることになったそうだ。
あの追い返した老人たちは、二度と姿を見せないまま。まぶしがっていた主人が夢枕に立つことも、通夜の日以来、とうとう訪れなかったとのことだよ。