#1 日常
2019年 6月 9日
空に、気持ちよさそうに鯉が泳ぐ季節。ここ信州の地ではそれらは都会に比べて1ヶ月遅れて泳ぎ出す。
こんなにも自然が豊かで、煙もない、泳ぎやすそうな空なのに、近年ではちらほらといるかいないか。
どうやらお空の鯉達は乱獲されてしまい、絶滅危惧種の仲間入りのようだ。
長男である俺は弟よりも大きい鯉を上げてもらい、自慢げにしていたのを覚えている。
今考えれば着々と家の跡取りとしての長男という役割の大きさを刷り込まれていたのかもしれないが。
今になってはすっかりその路線を走らされている。一昨日なんてまだ入学もしていない大学卒業後の土地分配の話をされ、登記1枚あたりに1万円が掛かるのなんのと言われ驚かされていたところだ。
そんなことより俺にとっては大学に無事入学出来るかどうかが問題であり、今、このように教室の窓際の席でボーッと外の景色を眺めている訳にはいかないのだ。
そう、そんなことをしていては行けないのだ。
「おーい。鎌田。そろそろ帰ってこーい。」
黒板に年号を書きながら、振り向きもせずに野太い声を教室に響かせたのは担任の宮川だ。
「先生、鎌田、反応ありません。」
クラスのおちゃらけ担当の木内が軍隊ばりの報告をしている。うるさい、聞こえてるわ。
「鎌田、そろそろお前の好きなテストに出るとこタイムだぞ。」担任は何気ない感じで呟いた。おっと、もう、そんな時間か。
担任が板書を終えるとほぼ同時のタイミングで俺は授業に復帰する。といっても、左に向いていた頭を正面に回しただけであるが。
宮川は俺と目が合うとふんっと鼻を鳴らし、満足気に眉を上げると、予告通りテストに出そうなところの説明を始めた。
正直に言おう。この世界はつまらない。1945年、この国は大戦に負け、平和のはじまりを宣言した。
インターネットの普及、科学技術の発達、今や衛星写真によって誰もが世界の隅々までを見ることが出来る。
そんな世界に面白さは果たしてあるだろうか。コロンブスが偉大な冒険家だったことを俺達は知っている。
なんせ今、黒板に書いてあるからな。彼は世界を旅し、新大陸の発見という偉大な功績を残した。
その感動と興奮と言ったら、この世の何物でもない程であっただろう。
比べて現代はどうだ。決められた道を先導者の言う通りに進み、発見のない人生じゃないか。
コロンブスは勇敢で偉大な冒険家だった。だが、忘れてはいけないことがある。
彼は同時に大勢のインディアンを虐殺し、奴隷とした狂気を持ち合わせていたということを。
そう、人は誰しも心の中に抱えている...。
「おーい。慎也」
今度はなんだ、せっかくいい所だったのに。
今までピンポケしていた視界が少しずつクリアになっていく。
「昼休みだぞ。飯食おうぜ、飯。」
目の前にあったのは、親友である竜也の顔だった。
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「お前いつもボーしてんのな。どこに行っちゃってるわけ。」
「いつもじゃないよ。ときどき。」
野上竜也は高校に入って直ぐにできた友だちだ。基本的にマイペースな俺につっこみつつ、それでもなんだかんだ付き合ってくれる良い奴だ。
「そう言えば、知ってるか? 」
「何が。」
「今日の夕方、18:00からシルバーホールでファクティスのライブがあるんだってよ。」
「マジか。それは激アツだな。」
「だろ!もちろん行くよな。」
「あー、いやでも、チケット買ってないし。もう売り切れだろ。」
「実はここにあるんだなー。2枚。」
「マジかよ!神様仏様竜也様だわ。」
「代金はちゃんと払えよ?」
「もち。」
こうして俺の予定がひとつ増えたのだった。
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「あ!いたいた!探したんだからね。」
放課後、教科書をカバンにしまいながら、あと1時間ちょいに迫ったバンドのライブに想いを馳せていると、明日香が廊下からひょいと現れた。
「お、明日香。わりぃ、今日はこの後ライブ行くんだ。」
俺はそう言うと、今出来る最大限の申し訳なさげフェイスでフォローする。
「えー。なんだつまんないー。」
小さく整った顔が頬を膨らます。可愛い。
「明日は一緒に帰ろうぜ。そう言えば、先週オープンしたとこのクレープが絶品らしいん...」
「行く!それ行く!絶対に!」
おいおい食い気味ですか。
まぁ、そこが可愛いんだが。
日高明日香。俺の自慢の彼女だ。