第九話 僕とヴァンパイアの逃避行
「この資料を読んでいるあなたがヴァンパイアと遭遇する可能性は限りなくゼロに近いですが、常に油断しない事を心がけましょう」か。
「うん? どうかされましたか、主様?」
僕はローズ教会から逃げ出した時に、武器や食料と共に拝借し何度も読み返した資料の一つ。新人の聖職者のために作成されたと思われる『新人研修資料』を一通り読み終わり、やはり何度も読んでも、一番印象に残った一文を思い返しました。
「この資料によると、ルーチェって凄く珍しいと言うか特別な存在みたいだよ?」
僕の発言にルーチェは、さも当然のように胸を張って答えてくれました。
「当然です。私は、偉大にして至高である主様の忠実なしもべです。主様が特別な存在である以上、しもべである私も特別なのは当然のことでしょう」
いや、君が世界に七体しか確認されていないヴァンパイアだから特別なんだよ。
と言いたかったのですが、僕の顔を見て、僕の事を偉大な主と信じて疑わないルーチェの顔を見て、その言葉は喉の奥に引っ込みました。
それにしても、この少女は何故ここまで僕の事を崇拝しているのでしょうか? 自分の記憶がないにしても少々異常な気がします。
この資料に記述されている「死霊術士について」と書かれている章によると、『死霊術士』の手によって復活した人工のグールは、ほとんどの場合、最初は主の命令に拒絶するばかりか、主を殺そうとさえしてくるみたいです。
確かに、いきなり見ず知らずの人間に体の支配権を奪われ、人肉しか食べれなくなり、したくもないことを強要されれば、必死になって抵抗するというのは理解できます。
『死霊術者』はそう言った反抗的なグールを、最初の内は自我を奪い使用するそうですが、徐々に、拷問や凌辱などあらゆる手段を講じて調教し、体だけではなく心もへし折って、最後には、自我のある状態で自分に従順な奴隷にするそうです。
アンデットを忌み嫌う教会が作った資料なので、多少は盛られているでしょうが、正直言って、こいつらは最悪の種類の人間達だと思います。できれば、一生お近づきになりたくない人達ですが、情報を得るために一度くらいは接触すべきでしょう。
そのために、現在、この街道の先にある交易都市を目指しているのですから。
今更ですが、司教様があそこまで、『死霊術士』を嫌っていた理由がよく分かりました。世の中の全ての『死霊術士』が歪んだ性格の人物ではないことを切に祈ります。
「主様! 主様!」
「ん? えっと何か用、ルーチェ?」
考えに耽っていたので、相手にされなくて不満を抱いたのかと思いましたが違いました。
ローズの街を飛び出して一週間、普段は常に真面目で凛々しい顔をしているルーチェですが、打って変わって一日に一回、顔を赤らめて恥ずかしそうな顔になりつつも、僕にある物を求めてきます。
「またですか?」
「は、はい、真に申し訳ありません。本当は主様のお手を煩わせるなど従者にあってはならない行いですが、こればっかりでは………」
いつもは、できる従者オーラ全開のルーチェに、こういう顔をされると、普段とのギャップの違いからこちらまで体が熱くなるのを感じますが、彼女の言う通り、こればっかりは僕にも責任があるのを自覚しています。
「じゃあ、人目につかない場所に行こうか」
「……はい」
これから、行う事を誰かに見られると少々面倒なので、僕達は、街道を離れ森の中に入っていきました。
現在、ローズの街を飛び出して一週間が経ち、幸いにも追手も現れず、街道ですれ違う人達もルーチェの美貌に振り向くくらいで、特にトラブルもなく二人で逃避行を続けていますが、今行っていることは、毎日一回欠かさず行っています。
「じゃあ、いくよ」
「はい」
僕は、ナイフで自分の手首を浅く切りつけます。当然、切り口から血が溢れてきます。それをルーチェが舌を伸ばして舐め取ります。
最初の内は、ほんの少し年上の可愛い女の子に自分の肌を舌で舐められて、少しだけ興奮のようなものを覚えましたが、今ではそう言った感情は絶無です。
「絶対に、牙、いや歯を立てないでね」
「は、はい」
ヴァンパイアであるルーチェの犬歯は獣の牙のように尖っています。その牙が僅かでも、僕の皮膚に食い込んだら、僕は即死して、人肉しか食べれない理性のない天然のグールの仲間入りです。
もし、最初にルーチェが血を欲した時に、例の資料を読んでおらず、何も知らずにルーチェの牙を受け入れたと考えるだけで、ぞっとします。
「ありがとうございました。もう充分です」
しばらくすると、ルーチェは満足した顔で、自分の舌を僕の皮膚から離しました。そして、僕はロイスさん達に使えるからと無理やり習得させられた光属性の下級回復魔法を血が流れている自分の手首に掛けます。
「キュア!」
この魔法は、切り傷程度の小さな怪我を治す魔法です。光属性に適正がないためか、これ以外の光魔法は習得できませんでしたが、覚えていて本当によかったです。
失った血液も戻れば、なおよかったのですが、
「このままだと、死ぬかもしれないなあ」
「本当に、本当に、申し訳ございません。従者の身でありながら己を律するために主様の命を危険晒すなど、どうお詫びすればいいのか……」
充分な量の血液を確保して吸血衝動が消えたルーチェは、普段の真面目な性格に戻り、頭を地面にこすりつけ、僕にひたすら謝罪してきます。
一応、失った分の血を補えるように、ルーチェが毎日、動物を狩ってきてくれるおかげで、僕は普段よりも多く食べれているで、多分大丈夫だと思いますが、それでも少し心配です。それに何より、毎日体にナイフを入れるのは辛いです。
ですが、最初に蘇らせたのが、元からヴァンパイアであったルーチェで僕は本当に幸運だったと思います。
生前?というのは、何だかおかしな気がしますが、死者隷属で蘇るアンデットは人工グールとなって復活します。
人工のグールは、知性も外見も生きている人間と変わりないそうですが、ただ一つ、人肉を食べないと、理性を失って暴走し肉が腐り、最後にはスケルトンに成り果てるそうです。
死者隷属させたグールに、僕を食べろとも言えませんし、教会から追われる身になっても、その辺にいる人間を適当に食べてきてと言えるほどの外道には堕ちたくはありません。
あの資料によると、収納中は捕食衝動が起こる間隔を伸ばすことができるコフィン・ボックスと呼ばれる『死霊術士』専用の魔法道具もあるそうですが、そんな代物持っていませんし、なにより、僕は、ルーチェを定期的に餌を与え、使える時だけ使う、道具にはしたくありません。
そう考えると、間接的に自分の血を与えるだけで理性を保てるヴァンパイアであったルーチェとの出会いは、『死霊術士』になった僕にとって運命の出会いだったと言えるでしょう。
もし、ルーチェが人工のグールであったのであれば、ルーチェの捕食衝動を抑えるために、取返しの付かない所まで、いったでしょうから。
僕は、今もひたすら謝罪を続けているルーチェに、ありがとうの一言くらい言おうと思いましたが、延々と謝罪の言葉を垂れ流し続けていたルーチェの体がピタリと停止しました。
「どうしたの?」
僕の問いに対し、ルーチェは立ち上がり、僕を守るかのように背を向けて、森の奥深くを向きました。
「何者かが、森の奥からこちらの方に来ます」
!?
その一言を聞き、ついに追手が来たかと反射的に身構えましたが、頭を冷やし冷静に考えてみれば、追手が来るならば、街道の方から来るはずです。
なので、追手ではないかもと気を緩めましたが、森の中から陽気な声を上げて姿を現した黒いローブに黒髪の長髪で、今までに数人しか見たことがない獣人族の男を見て、
そしてなにより、男からあふれ出る邪悪なオーラに当てられ、僕は一瞬で警戒レベルを最大にまで引き上げました。
「ひゃっはあああああーー!! ん? 何だ?てめえ、見たことのない面だな」
理由は分かりませんが、僕はこの男の天職を一目見ただけで察することができました。
そうです。想像よりも早く、僕は自分以外の『死霊術士』と出会ってしまいました。