なぜトランプデモは消えたのか?日本人の知らない理由
去る2016年11月8日、アメリカで大統領選挙が行われ、ヒラリー・クリントン氏を破りあのドナルド・トランプ氏が当選した。
このニュースはアメリカに住む多くの人々を驚かせた。
選挙当日の朝、クリントン氏の当選を確信しホクホクの笑顔で家を出た私の上司(アメリカ人)は、仕事場でトランプ氏の当選を聞き人目もはばからずに泣き崩れた。
ボストンに住んでいる日本人の友人はトランプ氏の当選が決まった瞬間「このままではどうなるかわかったもんじゃない。俺は日本に戻るぞ!」と私に電話をしてきた。もう少し様子を見るように言ってなんとか落ち着かせたが、パニックに陥っているのはどうやら彼だけではなかったようだ。
12日、マンハッタンではトランプタワーをめがけて1万人もの人々が大規模なデモ行進をした。ニューヨークはこの日、人種の坩堝ではなく混乱の坩堝と化してしまった。私が勤める会社ではこの騒乱に対応するためニューヨークで会議が開かれることとなり、なぜか私も現地へ飛ぶことになってしまった。
トランプタワーのある5番街はデモのために集まった人・人・人で埋め尽くされていた。その人波を世界中のマスメディアが撮影しトランプ批判を繰り返す。他州では同様のデモが発砲事件に発展した事もあり、あらゆる場所に警察が配置されていた。
体感では5度を切っているのではないかと思うくらい寒い日だったが、人いきれで私の頭は妙にぼうっとなっていた。気付けば何かの列に並んでいたようで、いかついおじさんに身体検査をされることとなってしまった。
「私はこの人波とは関係ありません。観光客です」
「目的地は?」
「む、向こうのティファニーですよ。だから身体検査は必要ないでしょ?」
「そういうわけには……規則だからな」
そう言い終わるが速いか、その男は私の体中をまさぐった。
身体検査が終わりほっとしていると、私はいつのまにやらトランプタワーの真ん前に立っていた。タワーの入り口にはここ数日ニュースで見るようになった黒人のいかついSPが鋭い眼光を光らせている。これ以上のトラブルはごめんだと私は急いでティファニーに逃げ込んだ。
17日には日本から安倍首相がトランプタワーへ会談をしにやってきたが、それでも人々の群れは引く事が無かった。日本では大きく取り上げられたこのニュースも東海岸ではほとんど報道される事も無く、デモをおさえる理由にはなりえなかったのである。
ところが週が明けたとたんに街の空気が一変した。たしかに人は大勢いるのだが、先週までの殺気立った雰囲気が全く感じられない。それどころかとても和やかな空気が満ちている。よく見れば街には巨大なオーナメントが出現し観光客の目を楽しませていた。
逆に警察は警備をさらに厳重なものにしていた。ホテルを出てすぐのところをいかつい警察のお姉さんが警戒していたので、どうしてそんなに物々しい空気を出しているのかを訊いてみた。
「デモの警戒にしてはなんだか物々しいですね」
「ああ、この警備はデモとは関係ないの。私たちが警戒してるのはこのお祭りに乗じて起こるかもしれないテロの方よ」
「お祭りですか?」
「ええ。あなたは外国からの観光客?だったら感謝祭は知らないのかしら?」
そう言われた瞬間、私の頭の中にむかし感謝祭で食べたおいしいカボチャのパイが想起された——。
アメリカでは11月の第4木曜日を感謝祭の祭日としており、学生もビジネスマンもこの日の前後1週間ほどを休暇に充てる事が多い。かく言う私もアメリカに住んでいたころ、学校を飛び出しホストファミリーの家で大量のごちそうにありついたことがある。
「……あれ?でも感謝祭の時期ってみんな故郷に帰ってターキーを食べるんじゃありませんでしたっけ」
「ええ、そうね。だから先週までデモに参加してた人たちはいっせいに帰郷していったわ。この賑わいは観光客によるものがほとんどね」
なるほど、どうりで街の空気ががらっと変わってしまったわけだ。
その日の午後、社長から感謝祭のお祝いに参加するよう電話があった。社長の奥さんが私の好きなパンプキンパイをもう既に焼きはじめているそうで、それを聞いただけでよだれがあふれてきた。どうして私がニューヨークの対策会議にわざわざ呼ばれるのだろうと思ったが、どうやら本当の目的は感謝祭のパーティーに私を呼ぶ事だったらしい。なんとも心憎い演出である。
社長の家族にお土産を買っておこうとマンハッタンの街をブラブラしていたら、またトランプタワーの前で身体検査を受けることになってしまった。全く迷惑な話である。検問を抜けトランプタワーの前に出ると、やはりあのごつい黒人SPが玄関の前で睨みをきかせていた。しかし怖がっているだけなのも癪なので私は彼に話しかける事にした。
「やあ。いつもテレビで見てますよ。ここ数日であなたは確実に世界で1番有名なSPになりましたね」
「オウ、そう思うかい?実は俺のワイフもそんなこと言いだしてさ、テレビに映るんだからもっと身だしなみに気をつけろって注意されちまったよ」
「それは大変ですね。ところであなたは感謝祭の休暇は取らないんですか?」
「これだけ忙しくなると休みを取ろうにもな……おっと。俺のスケジュールなんて聞いてどうするつもりだいブラザー?さてはよからぬことを……」
不審者と思われているのかと一瞬心配になったが、どうやらそれはSPなりのユーモアだったらしい。私が彼と気軽に話すのを見て、周りにいた観光客が彼と一緒に写真を取り出したのには笑ってしまった。
感謝祭当日、事の顛末をおもしろおかしく社長の家族に話し終え、ついでにトランプ氏のことについて話そうと思ったら、奥さんに「もっとパイはいかが?」と遮られてしまった。社長がこっそりと「この場で政治の話はタブーなんだ」と教えてくれる。聞けばアメリカではどこの家庭でもこんな感じになるそうだ。私はパイを受け取り心ゆくまでお腹の中に詰め込んだ。
感謝祭の翌日はブラックフライデーと呼ばれる大規模なセールがアメリカ全土で執り行われるが、有給休暇を使い切ってしまった私は何も買わずに日本に帰ってくることになってしまった。アメリカでは国民の大半が買物にうつつを抜かしていることだろう。実に羨ましい。
帰りの飛行機で「日本でもブラックフライデーを取り込んだらいいのに」と冗談めかして話していたら、一部のショッピングモールで本当に実施するらしいと聞いて驚いた。
もともと感謝祭のプレゼントの売れ残りセールから始まったブラックフライデーが果たして日本に根付く事はあるのだろうか?
時期的にそろそろ感謝祭の休暇も終わり、多くの人たちが都会へと戻って行く。ひょっとしたらまたトランプデモが発生するかもしれないが、おいしい食事と買物に満足した人たちだ。きっとこれまで通りの生活を取り戻すんじゃないかと私は楽観視している。
もっともあのトランプ氏の事だからすぐに新しい問題をこしらえてしまうのだろうけれど……。