夏祭りの夜の夢(上)
突然降りだした雨が急激に粒を大きくしつつ、激しくアスファルトに打ち付ける。
勢いを増した風は、街路樹の枝を揺らすだけでなく、大きな雄叫びをあげ始め、道路脇の水田の未だ穂はつけぬものの青くまっすぐ伸びる稲が荒々しく揺さぶられ、濁流のようにその体をうねらせていた。
傘を持って居なかった。
けれど雨宿りをするつもりもなかった。
編み込んだ髪はかろうじて、いまだささっているかんざしに植物の様に巻き付いていた。
履き慣れない下駄が靴擦れのように小指の付け根の足の甲や親指の付け根の辺りをキリキリと痛め付けてきていた。
思い切って下駄を脱ぎ、両手で持って素足で歩いた道路は波打っているかのようで昼間溜め込んだ熱を打ち付ける雨で冷ましているのか生温かさえ感じられる。
浴衣の裾が足首に絡んで歩きにくい。
見上げた空は厚く黒い雲に覆われて、先ほどまで夜空を彩っていた花火はもとより、星一つ見えなかった。それどころか雨粒がコンタクトを入れている目に染みて、それが何故かむなしい笑いを誘う。
街灯が降り注がせる光の槍が飛べない惨めな羽と化した浴衣の袖を突き刺し砕け散り、美咲の歩みを止めた。
今宵美咲は、夜空に生まれ散る星の子供のように青白く美しい花火を見つめた時、奪い取りたいという爛れた感情が自分の中に有るとこを知った。
それは驚きとか傷付きとかを添付することもなく、また大きくその存在を華美にアピールする事もなく、ああ、そうなんだ。とすんなり自分の心の中に展開し、フォルダを作ってストンと収まっている。
けれど、美咲は昨今流行る物語の己の道をひた向きに歩み続ける主人公の様に害がない程度に煤汚れた清らかさも持っていないし、暗く辛い事情を抱えた悪役の様に純粋なままの穢れも持っていないと自分を評している。
では、今の美咲は何なのか?
立ち止まったままの美咲の胸を、相変わらず街灯が生み出す冷たく白い光の槍が何本も突き刺ささり砕け散るっていく。
綺麗なそれは痛みを伴わない。けれど、先ほどまで見つめていた大輪の花火のように熱い血潮を勢いよく循環させ激しく鼓動していた美咲の心臓をただ、ただ静かに冷やし宥める。
打ち付けるというよりは浴びると言った方が表現が正しそうな雨に、まさに頭を冷やせば、美咲には今の自分の姿がとても滑稽に思えた。
口元だけに浮かぶむなしい笑いと共に、心に平常を呼び起こせば、今まで見えなかったことが、いや、あえて見ないようにしていた事が、ここぞとばかりに、はっきりくっきりとが形作っていく。
ああ、そうだ……これは、あの大きな音を響かせ生まれ出でる星のように煌めく火花にも、この静かにけれど許すことなく打ち付ける光の矢のような雨粒にも、似ていて非なるものなのだ。
そんな壮大で綺麗な刹那でもなく、残酷で脆い無色透明でもない。
「ああ、そっか……私も硝子玉だったんだ……」
掠れた声と共にほろりと美咲の頬を零れ落ちた温もりのある水滴は空から降り注ぐ平等で冷たい雨と混じり姿を隠した。
*****
「愛してるよ」
たっぷりめのマスカラだか付け睫で手入れされた長い睫毛の下のカラコンで黒目がちであろう瞳を潤ませ耳を真っ赤にしている少女の、まさにその耳に甘噛みしそうな雰囲気で囁く男の姿に、美咲はあーまた始まったよ、と天を仰ぎたい気持ちで一杯になった。
肌に突き刺す痛みさえ感じそうな日差しの下、蝉が短い命を懸命に伝える鳴き声の中、その声は実際にはそんな状況下では聞いたこともないのに美咲の耳元に熱い吐息を感じさせる。
さらさらの前髪をわしゃりとかきあげながら潤んだ大きな瞳を女子さながらに長い睫毛が彩る目蓋でかくしながら、今、目の前で囁かれる隼人の『愛してるよ』は、学食のA定食の日替りメニューに対し彼から発せられる『このおかず、好きだよ』と同レベルだ。
勘違いせざる終えない状況で、今まさに勘違いしているに違いない見知らぬ少女に美咲は同情はするものの、隼人をそこまでしか理解出来ていないのだから仕方がないかと諦めにも似た感想しか持たない。
取り敢えず、面倒事にまきこまれたくはない。
過去の経験から美咲は学食のテラス席で周りの視線を集めつつ一見リア充をしている隼人に気がつかない振りをして、中庭を通り抜ける算段を頭の中で手早くたてると、繋がってもいないスマホを耳にあて、真っ直ぐ目的外である図書館を見つめ歩みを早めた。
いつもの二倍は早かった。
早めた。
早めた筈なのに。
さも当たり前の様に先ほどまでリア充オーラを発していたテラスにいたはずの男は、いつの間にか美咲の隣をさも当たり前の様に闊歩しだしていた。
「隼人、彼女は?」
簡潔に話すものの、視線は決して合わさない。スマホだって当てた耳から離さない。
「あ、あれは友達」
何でもないように、いや、実際彼にとっては何でもないようなことなのだろうけれど、語る隼人はここでは出来るだけ発して欲しくなかった無駄に優しい笑顔を美咲に向けてきた。
「デスヨネー」
あぁ、これは巻き込まれる。確実にあの初見の少女の名前を知ることになる展開だと目眩にも似たふらつきを覚えた美咲は少なくとも先ほどまでエアコンがガンガンに効いた研究室にいたのだから熱中症ではないはずだった。
突き刺さる視線を背中に感じながらも決して振り向かない。怖いからではない。ただただ巻き込まれる状況をより軽く出来ればというコピー用紙よりも薄い希望からだ。
隣を闊歩する隼人の周りはその姿や性格を裏切ることなく、非常に人間関係が華やかで艶やかで修羅場だ。
本来なら一般人に紛れることを苦にしないくらい平凡な美咲なら近寄ることも接することもない、第三者視点でしか見ることのない種類の人間だ。
では、なぜそんな別世界の住人であるはずの隼人と、キツイ視線を送られながら美咲は今一緒に図書館に向かうのか?
それは、コイツ……いや隼人が同じ研究室の仲間の一人だから……だと、美咲は思いたいと常々思ってる。願ってる。
もともと……というか、それ以外ないのだが、隼人は美咲と同じ大学の同じ研究室に属する一人だ。
直接的接触のある付き合いは研究室を振り分けられた約半年位前の研究室の顔合わせという名目の飲み会からだった。
一部の学生からは不快に思われるというか毛嫌いされ、一部の学生から尊敬されるというか慕われるという良くありがちな、個性的という表現だけでは言い表せない教授の研究室は、学部内において人気があるような無いような微妙な位置付けだった。そして、やはりというべきか、そういう教授のもと集まった同期の面子も、教授の人としてのあり方に比例して、かなり個性的というか、それなりに奇抜というか、ぶっちゃけ変人奇人の集まりだと基礎教養の頃から親しい美咲の、学部を越えた付き合いをする友達は評している。
しかし、だ。見た目も行動も一般人の範囲から逸脱しない美咲だってその研究室に入ってしまったのだから変人奇人の一人という扱いになってしまうではないか?以前そう美咲がその友達に問えば、『美咲は普通過ぎるところが、逆に目立たないけど個性になってるパターンよね』とケーキをつつきながら大笑いしてみせられた。
学部の違いなのかもしれないが、普通が個性と言われても美咲には意味がわからない。
まぁ、取り敢えず、そんな変わり者だらけの研究室は隼人だけが目当てという色恋沙汰に励む少女達にはかなりハードルが高かったらしく、研究室内の女性陣は外野から変に羨ましがられることが非常に多い。
また内部でよくつるむ研究室だったこともあるのだろうが、その関係性をこれまた非常に懐疑的に見られることも多い。
特に、だ。
恐らく一番一般人に感じられ見えてしまう美咲だからということもあるだろうが、こんな風に事前に危機を感じとれ慣れる位には、美咲は研究室メンバー内でも最もやっかみとか嫌がらせを受ける事が多い。
そして、それは今まさに具現化されかけている。多分確実に。
おそらく……いや確実に明日か明後日、美咲はあの女子の名前を聞かされ、頬に一発食わされる。
『隼人はリア充じゃなくて絶滅危惧種リア獣』とは同じ研究室のメンバー真帆の名言だ。
ちなみに研究室内部は変人奇人だらけではあるが、秩序もあり穏やかだ。それなりに。
たとえ、愛を辺り一帯に振り撒く隼人から、ただ一人だけ愛を与えられないという訳がわからない特別席を美咲が与えられているとしても、だ。
夏休みに入ったばかりの大学構内はまだ人気が多い。中庭の人工的に植えられた鮮やかに繁る緑が作り出す自然な木陰の下、芝生に座り込み夏休みのBBQの計画をたてているものもいれば、スーツの上着を脱ぎスマホで就活のエントリー中のものや、サークル活動の合間に学食にきたものもいる。様々な、けれど外の世界より行動と年齢層にかなりの偏りがある光景が広がっている。
日射しは今まさに今日一番の輝きを見せ、空の片隅には白く厚い綿菓子のような入道雲雲さえ顔を覗かせていた。
「あのさー、何度も言うようだけど、『愛してるよ』の大安売りはやめた方がいいよ。てか、こっちの身が危ないからやめて、お願い」
皮膚がピリピリするくらい暑い中、後ろから送り続けられる氷の刃の様な視線に鳥肌をたたせながら美咲はスマホを耳にあて続けることを諦めジーンズのポケットにしまうと、隣を歩く隼人の少し高い位置にある顔を見つめた。
「何いってんの、美咲?」
訳がわからないよと首を傾げてくる隼人はそれでなくとも人目を引くそこそこのイケメンの部類だ。普通の女子なら一目で恋に落ちるレベルだそうだが、あまりにもずっと一緒に居すぎて免疫がついてしまったのか、はたまたその奇人っぷりを見すぎてしまった為か、今の美咲には実際よくわからない。
「だって隼人の『愛してるよ』ってただの『好きだよ』と同じ意味でしょ?」
諦めにも似た口調で責めても意味は無いことくらい美咲にだってわかっている。偶然同期で偶然研究室が同じ。それだけの縁なのだと思えば踏み越えられないラインはかなり手前に在りすぎてどうにもならない。
「やだな美咲。それは誤解だ。俺は本気でみんなを愛してるよ。そうだな、さしていうなら、雨と同じだよ。誰か一人に偏ることなく皆に平等に降り注ぐ愛だから違和感を君は感じるのかもしれないけれどね」
暑さのせいか白ささえ感じさせる青い空を仰ぐ隼人の笑みは、空の白さのせいか色を失い、珍しく少し寂しそうに美咲には見えた気がした。
「意味がわからない。じゃ、なんで私には言わないの?」
明るい日射しの下から一転、影を落とす図書館のエントランスホールに足を踏み入れると背後からの突き刺さる視線は消え去った。いや、彼女の位置からこの場所が見えなくなっただけだろう。とりあえず隼人が隣に居る今は、あの女子も美咲を追ってこないだろうと変な安堵感に浸ると、ついつい、いつも思っていたことをふと口にして訊ねている自分がいた。
「美咲に雨は必要ないと思って」
図書館の少し重い扉に手をかけた隼人が一瞬驚いたような気配を見せたあと、少し儚げに笑い、一言そう語った。
何時もと少しも変わることない、美咲にふざけて笑いかけているような話し方だった。しかし、その前の寂しげな笑いがどうにも気になった美咲は、真っ直ぐ隼人の表情をその目で追う。だが陽気な夏の日差しから涼やかな日陰へと歩みを進めた急な光の変化に美咲は隼人の表情を見ることがかなわなかった。
「なに、私は砂漠化していいとでも?」
先程感じた違和感をとりあえず放り投げ、美咲が頬っぺたをまさに蛙のように膨らませて怒った素振りだけを見せても、隼人の笑うような気配は変わらない。それどころか
「いや、美咲は雨を呼ぶ雨蛙だから」
と、さらりと告げてレディファーストって何?的な早さで一人先に建物の中へと足を進めていった。
「はぁ?!いくら不細工顔の私でも蛙顔って言われたらキレるよ?」
慌てて隼人の後を追い美咲もだてに内部に駆け込むが、床のタイルが冷たい光を放つエアコンが良く聞いた図書館の入り口に美咲の思わず出した大声が響き、カウンターの内側の女性が睨み付けてくる。
「蛙顔は飛躍し過ぎ。美咲は雨を呼ぶ雨蛙だって言ってるだろ?仲間外れはイヤ?」
必死に非難の視線に頭を下げる美咲の耳元、何故か嬉しそうに隼人は囁きかけてきた。こんな仕草が誤解を生むのだ。
そう、美咲は隼人のお気に入りだ、と。
現実はもっと残酷で、本当は一番、隼人の大安売りの愛の言葉から程遠い所にいるはずなのに、だ。
「嫌じゃない。それどころか、そんな硝子玉みたいな言葉いらない」
美咲は欲しいとも思わない。求めてもいない。必要ともしてない。
あまりにも軽すぎる、自分だけには放たれない言葉は既に美咲の中で重みを無くすどころか、危険物にさえ思えている。
「硝子玉?僕の言葉が?」
何のことかわからないと綺麗な二重の中、飴玉の様に甘さを漂わす瞳を大きくして、隼人は首を傾げてみせた。
「そう、硝子玉。無害なふりしてキラキラしてて綺麗なのに手を触れたら最後、鋭く傷付けてくる」
多分隼人にしては、その言葉通り純粋で平等な愛情は、彼の瞳同様に透明で、淡いサイダー色をしていて、何でも透かし見えるように思わせるのに、独占欲に溺れ手を伸ばし触れたモノを拒絶し容赦なく傷つけていく。
「やっぱ美咲だけには言えないねぇー」
少しきつめかとも思われた美咲の言葉に、とても嬉しそうに笑う隼人は研究室でよく見かける、面白い実験結果を目の前にした子供の様な無垢な表情だった。
「お好きにどうぞ。言われても嬉しくないし」
そんな隼人の表情を目の前にすると、美咲はなぜだかいつも自分の方が酷く惨めで汚れているように錯覚してしまう。その気まずさから逃げるように美咲が隼人から目を背けると、隼人の少し指の長い手のひらが美咲の頭をわしわしと撫でてきた。
「うん、知ってる。だから美咲には言わない。……ところでさ、今朝、教授が言ってたあの数式のパターンなんだけどさ?」
「あ、あれね。私も図書館で資料を探そうと思って、わざわざこの溶けそうな暑さの中、研究室から出てきたの」
美咲が興味を持っていることを知って故意に話をそらされたのか、それとも、純粋に隼人自身も興味を持った話題だったのか。
一般人な美咲が研究室で交わされるコアでハイレベルなトークについていくには予習と復習は欠かせれないし、今の美咲はそんな地道な努力の上に成り立っている。
流されたなとは頭の片隅で思いながらも、気がつけばいつもの研究室のメンバートークそのままに美咲と隼人は求める分野の書棚を求めた。きっとこんな美咲の行動も問題があるんだろうとは美咲自身も思わなくはないが、こんな雑音レベルなことに割く時間も勿体ないという意識が強かった。どうせ早ければ明日の午前中にもあの女子が美咲の頬を激しく打ち付ける音が構内に鳴り響くだろうという予想もあった。
愛情はもちろん、友情もない、おそらくはただの同期研究生というくくりにしか縛られないはずの二人はまるで息を合わせたかのように要らない音がしない季節感さえ忘れさせる図書館を闊歩しはじめていた。
*****
「学食の日替り食べ損ねたー。なんか昼飯残ってるー?」
多数の立ち上げられた演算用のパソコンの為、少し強めにエアコンが効いている研究室に戻ると同時に隼人は研究室の余り冷たさを感じられない冷蔵庫を開けて中を物色しはじめた。
「ミサちゃん達が茹ですぎたお中元の残りの素麺ならその辺の水槽の中にあるよ。ケイちゃんオススメのつゆは三角フラスコに、粉わさびを溶いたのはシャーレに余ってるはず」
眼鏡越しの呆れ顔で、それでも丁寧に答える友孝の隣、美咲は苦笑いしながら自分の定位置に座る。すると、その後ろに並べられた会議用テーブルに隼人はよいしょよいしょと美咲が茹ですぎてしまった大量の素麺の入った丸い水槽を運び三時間遅れの昼食を準備し出した。
「ビーカーで食べる素麺って、なんか大学生ぽくない?」
隼人が一人食べ始めれば、空腹具合なんか関係なくやはりみな気になるようで、気がつけば研究室の面々全員がそれぞれのサイズのビーカーにつゆをそそぎ、少し水っぽく延びた感もある素麺を囲み、顔を付き合わせすすり出す。
「そりゃー私達大学生だもん」
農学部からわけてもらったというネギを箸でとりながら隼人が発した言葉にロングヘアーが美しい真帆が、当たり前よと笑って答える。
「後一年ないけどな」
そこに、強面の圭二が水槽の中、泳ぐ素麺を捕まえながら、ぼそりと発した言葉に四年生組はみな一瞬動きを強張らせた。
「あー、就職組は、お盆開け位から面接とか始まるんだっけ?」
院生の堀田さんが少し長めの前髪をかきあげ、割り箸に染み込んだつゆをぺろりと舐めながらたずねてくる。お行儀は悪いが少し色っぽくて羨ましいなと時折美咲が思う仕草だ。四年生みんなが自分のこの夏のスケジュールを脳内で展開していると
「もう早いところは八月はじめから始まってますよ」
俺、もう一社受けてきたし、と友孝が言うと周りがおおっとざわめいた。
「社会人やだーー!!」
友孝の言葉を聞いた、今時珍しいパンクファッションの東海林が天井を見上げ奇声をあげる。いまだ髪の毛の色は明るい……というか派手な東海林だって、先月、かなり遅めではあるが友孝とスーツを買いに行ったのを美咲は知っている。
「じゃ、院に残る?」
院生の進藤さんがずり落ちぎみな眼鏡を中指でずりあげながらにったりと東海林に笑って見せると
「頭も金もねーーー!!」
と東海林はわざとらしくパイプ椅子から転げ落ち床をごろごろと転げ回って見せた。
「そーいや、せんせーは?」
東海林が床掃除を終わらせ、一通り素麺を胃袋に片付けた所で隼人が脱力系の声でここの主の不在をたずねた。妙に団結力というか結託心があるこの研究室の教授は校内の権力争いより学生と戯れながらその若さをパワーに研究を意欲的に進める事を好む。
ようは、学生がこんな感じにわいわいやっていれば、ニコニコと寄って来ないわけがない人だ。
「あ、隣の仮眠室?」
常に寝不足な顔をしている話題の主に対し、騒がしくしちゃった?という心配を伸せ眉間に皺を寄せた真帆が院生の面々にことりと首を傾げてたずねると
「あ、いい忘れてた。……先生、奥さんからの呼び出しで午前で帰ったから、今日、最後に研究室を出るやつは鍵かけて帰れよ」
という、多分研究室に住み着いているであろうと噂される進藤さんにもっとも重要な情報を、彼と同い年で、一緒に院生になった筈なのに年代が一つ位上に見えてしまうほどの貫禄を持つ住谷さんが、まさに今思い出したと手をぽんっと打って研究室の皆に伝えた。
「珍しい!!」
「どうした先生?!」
院生も四年生も関係なく発せられた率直な感想に
「酷い言われよう」
と堀田さんが女子高生の様に大ウケしてテーブルをバンバン叩いて笑う。そんな研究室のメンバーをぐるりと見回した無表情気味の住谷さんはたった一言述べた。
「夏祭り」
住谷さんの一言に皆、頭の中が真っ白になる。なったと思う。
「は?」
呆けた声を出したのは誰だったのか。
「世の中は今夜、祭りだから」
「祭り?」
一番その単語から遠そうなイメージの住谷さんが面倒くさそうに繰り返した言葉に友孝が首を傾げてオウム返しをする。
「夏祭り」
「夏祭り?」
続けられた同意の単語に次は進藤さんがずれた眼鏡をそのままにオウム返しした。
「そそ」
「「「あ……」」」
一人だけではなかったことがせめてもの救いだったような呟きがポロリとみんなの口から転げ落ちた。
そこまできて、美咲もやっと今日が市内最大の夏祭りの日だったことを思い出す。
そういえば家を出るとき母親は妙に道が混んでるからと繰り返していたし、高校生である妹の美幸は昨夜から必死にスマホの動画片手に浴衣の着付けを練習していたような気がする。
高校生の頃は絶対に忘れなかった夏の一大イベントは、大学生活最後の慌ただしい夏にはそのインパクトをかなり薄めていた。
「忘れてたのかよ」
この人だけには言われたくない代表のような住谷さんが哀れみを存分に含ませ一言言えば
「忘れていたのね、可哀想に」
とからかい笑う真帆の声も重なる。
そのとなり、お前だって忘れていただろうとしか思えない東海林が訳知り顔でうんうんと頷いて見せるものだから
「お前もだろ」
と皆が思ったままに、友孝が肘鉄を食らわせる。すると東海林は
「俺、妹と約束してるから」
と少し自慢気に笑った。
「妹かよー?!」
「俺の妹、めちゃくちゃかわいいんだよ!送り迎えだけだけど」
彼女じゃないの?とこれまたみんなが思った事を隼人が口にし、ちょっかいをかければ、東海林は頬をうっすらと染めか細い声で答える。
「「……かわいそうに……」」
しばしの沈黙の後、東海林のあわれな姿に皆の同情の視線と隼人と友孝の声が重なった。
「声揃えて言うな!余計に切ない!!」
自分の立場が一番わかっていたのであろう。ぷるぷると震えた後、再び床掃除を始める東海林をそのままに、
「私、今日浴衣持参で来た!」
と、堀田さんがやけに力強く宣誓の様に手を上げて宣言した。その足元には勢いよく踏みつけられた東海林がひくひくしている。
「ここで着替えて行く気かよ」
堀田さんの足元にしゃがみこみ、東海林の頬をぺちぺち叩きながら大丈夫かー?とたずねていた進藤さんが堀田さんが指差していた方向を訂正しながら、みんな思った事を口にする。どうやら街の中心部はホワイトボードと窓の間の方らしい。
「いや、みんなで行くかな?と」
堀田さんが年上には思えぬ可愛い素振りで小首を傾げてみせた。もちろん東海林は踏みつけられたままだ。
「あ。ここの研究室の恒例行事ですか?」
友孝がなるほどとたずねると
「そんな感じ」
と堀田さんはハイビスカスの花のような鮮やかな笑顔をみせ、
「今年もいくの?」
心底嫌そうな進藤さんの声が低く響く。
何が去年はあったのか?!
四年生の間に探る雰囲気が広がった。
ここの研究室は気が付けば皆で行動する色々な雑事が多い。それは入ってから美咲も知った事だった。そして、そんな色々な雑事に対し付随する伝説級の出来事も反比例する事なく多いらしい。それらの噂は差し入れを片手に現れるOBやら隣の研究室の先生や先輩から色々と耳を両手で押さえていても流れ込んで来るレベルだ。いつもなら誰かしら知っている伝説の真相は、しかし、今回は誰も知らない様子だった。
「いくの」
動揺を隠せない四年生を目の前に、場の雰囲気なんて関係ない決まり事だと堀田さんははっきり言い切り、その後ろ住谷さんが珍しく
「もちろん」
と笑って答える。
「拒否権は?」
東海林が堀田さんに踏みつけられたまま、恐る恐る床の上から頭をあげたずねると
「あると思うの?ここで君たちがふざけたおかげで三日間寝ないで打ちこんだ私のデータを一度パソコンごと破壊したのはいつのことかしら?」
と、まるで冷凍室に入ったかのような冷気を漂わせ堀田さんが黒い笑顔でひひひと笑った。
とても失礼なことこの上ないことは承知だが……真夏のホラー映画の方がまだ怖くないレベルだ。
「「ゴメンナサイ。ゴイッショサセテイタダキマス」」
東海林となぜか隼人が声を重ね、更には床に土下座までしだし、ああ、こいつらなんなかしたな、とみんなが心のなか手を合わせる。
その姿に満足したのか堀田さんは真冬日の吹雪から輝く夏の太陽のような笑顔になると、美咲と真帆の顔を見つめる。
「真帆ちゃんは、アパート、すぐそこだし、ミサちゃんちだって市内だから一回帰ってすぐ着替えてこれるよね?」
「浴衣前提ですか?」
「持ってないとかいう選択肢は?」
ニコニコと笑う笑顔はまぶしい、がその裏に見え隠れするないはずのない思惑に美咲と真帆は二人揃って冷や汗をかきながら作り笑いで答えた。
「先月、ミサちゃんちの妹が浴衣を買いに行ったって話の時、二人とも持ってるっていってたよね」
「あちゃー」
「ちっ」
しまったという美咲の後悔の呟きと同時に真帆がついた低い舌打ちに友孝がぱしんとそのロングヘアーが綺麗な頭を叩く。
「先輩こえー」
そんな友孝を横目にしながら隼人が発する怯える声に堀田さんは隼人に軽い蹴りを決めた。
「はい、そこの二人!見るからに分量を間違えた結果茹ですぎた素麺を、綺麗に片付けてくれたみなさんにサービス!」
「えぇぇぇぇ!?」
「ごめんなさいぃぃぃ」
「てのは冗談にしても、女子三人、浴衣で揃えて写真とか撮りたいじゃない?」
この夏のメンバーの記念にさ。
美咲と真帆の研究室内での調理ミスはよくあることだ。いつも笑って済ましてもらっている。だが他の院生も何も言ってこないところをみると、今回の浴衣の件での堀田さんへの反論はみなさんも許さない方針らしかった。ようは今日のそうめんは印籠がわりだったのだろう。
「女子三人って、真帆、こう見えて男だろ?」
友孝が苦笑いをして堀田さんに重要だろ?とみんな既に認識済みであることを確認すると
「男の娘だからいいの」
と堀田さんはうふふと少し含みを持って笑った。
「いいんだ……」
その、堀田さんの仕草に少し驚いた表情を見せたあと真帆はにっこりと笑って堀田さんの支持に従う旨をつたえた。
「じゃ、今日は18時30分に親水公園東入り口前集合で。遅刻した奴は全員分のかき氷と唐揚げを奢らせるから」
言葉と共に研究室のホワイトボードにでかでかと書かれた文字は、その時からこの研究室の破ってはいけないルールとする。というルールを作ったかつての先輩方に少し恨みがましい気持ちを持ちながら、けれど、満面笑顔の堀田さんに逆らえる訳もなく
「こえー」
と四年生の男子達は声を揃え、それ以外の面子は心の中、同じ言葉を叫びながら了承した。
「俺、かき氷よりビールがいい」
「だめよ、何本も空けるつもりでしょ?みんなのお財布がお盆を迎える前に裏がえっちゃう」
珍しくノリノリの住谷さんが嬉しそうに堀田さんにおねだりしてみせる。しかし、そんなこと許すわけないでしょ?と猛獣使いの如く住谷さんを宥める堀田さんの姿に
「こえー」
と四年生の男子全員がもう一度、小声で怯えそろって身震いをした。
*****
フロントガラス越し見える街中を走る車は、確実に気のせいだろうがカップルが多いように感じられた。
エアコンが効いても日射しの暑さは変わらない車内で、真帆が急ぎ自宅に寄り持ってきてくれた氷の冷たさがハンカチ越しの頬に気持ち良かった。
熱い。
焼けるような痛みだった。
直後、ぱしこーんという音が美咲の耳を抜けていった。
まだ高い位置に鎮座する白い太陽の日射しが意識を吸い込んで行きそうな感覚が体を包み込む。
『あぁ、まただ』と思った美咲は無意識に笑みを溢していたのだろう
「笑ってんじゃないわよ?!」
ヒステリックに叫ぶ甲高い声が大学の駐車場に響いた。
明日かなと予想していたが、今回は以外と早かったな、と美咲は冷静な頭の中で考えていた。
浴衣を着るからと、いつもより早めに研究室から退室した美咲は、車で送ってあげるから真帆の部屋で一緒に着替えようと提案してきた彼女の案に乗っかって、彼女の大学近くの自宅に停められている車を目指し、校内の駐車場をショートカットしていた。
夏の大学の駐車場は思っているほど車は少なくない。赤と黒の車の隙間からその女子はふらりと美咲達の前に現れ、一通り彼女の自己紹介と主張を発言すると、物理的接触を行ってきた。
「何すんのよ!」
隣を歩いていた真帆が美咲を庇い、相手のか細く白い腕を掴んだ。少し大きくて骨ばってはいるがネイルまできっちり清楚に手入れされている。そんな美咲の大好きな手のひらが、相手の白い腕に手形を残すのは不愉快だな、と思い、美咲は真帆の腕に手をかけた。
「いいの、真帆ちゃん」
「美咲がいいなら、まぁ、仕方ないわね」
不本意だという表情のまま真帆は、美咲の前に立ちはだかった、昼間、中庭のテラスで見かけた女子、先ほど『レイカ』と名乗った人物を女性としては少し高めの視線から睨み付けた。
「何度も言うけど、私と隼人は付き合ってない。それは本当。研究室のみんなに聞いてもらっても結構」
まだ熱さしか感じさせない頬を擦りつつ美咲は静かに先ほどから何度も繰り返した言葉を口にした。
「うん確かに二人は付き合ってないわね」
隣の真帆が同意を見せるが、レイカと名乗った女子には納得がいかないようで舌打ちの音が綺麗にルージュがひかれた唇から漏れた。
そんなだから隼人からきちんと相手をして貰えないのだとどうしてわからないのだろう。
「私は隼人と付き合ってなんかないし、ましてや大安売りの『愛してる』の言葉だって絶対に貰えない」
どう納得していただくか、いつもの慰めと励ましの方程式を言葉にしようと美咲が唇を動かそうとした時だった。
「あんたが……あんたなんかが貰える訳ないじゃないっ!!」
「は?……え?」
常日頃の定理を外れた発言に、最初美咲は思わず何を言われたのか理解出来なかった。
「あんた、隼人先輩の『愛してる』の意味がちゃんとわかってんでしよ?そんなあんたに隼人先輩が言うわけないじゃない。そんなの当たり前よ!」
今までの女子達とは全く異なった発言に美咲は何も言葉を発する事が出来なかった。今、目の前の女子は何と言ったのか?
「あんだが、由緒先輩の変わりなんて私は許さない」
ギリリとこちらを睨み付けてくる視線が頬の痛み以上に痛かった。
「わざわざ隼人先輩を追って、こんな田舎の大学まできたのよ!あんたなんかに由緒先輩の後釜なんか座らせない」
知らない……いや、本当は自分だけが知っている筈の名前に全身に鳥肌がたった。
「あんたなんかには勿体無くて、一生隼人先輩の『愛してる』の言葉なんか降り注がないわよ!」
少なくとも美咲にとっては激しく頭を殴られたかのような衝撃をその一言は含んでいた。目を反らし続けてきた罰なのかと思った。
ただただ唖然と立ち尽くしていたのであろう。
真帆が手を握ってくれたことで、美咲は目の前から『レイカ』と名乗った少女が既に立ち去ったことに気がついた。
「隼人も隼人だけど、美咲も美咲なのよ……」
五叉路の長い赤信号で、それまで何も聞いて来なかった真帆が真っ直ぐ前を向いたままそう話だした。
今までの隼人がらみの女子達と美咲の邂逅は良く見ていた彼女も、今回の異例さにはどう口を挟むべきか悩んでいたのかもしれない。
「あんたたち頭は良いのに人間関係の構築が不器用過ぎて見てられない」
「隼人はともかく、私は頭良くないし、人間関係もあんなに拗れてないと思う」
少し呆れた口調にも聞こえる真帆の言葉に、美咲が少し拗ねた口調でそう答えると、彼女はあきれた表情を見せた後、再び真っ直ぐ前の赤信号を見つめた。
「最近、研究室で料理を作るとき、美咲、ずいぶん上手じゃない。練習、頑張ってるでしょ?誰の為?」
「誰の為とかないし、恥をかかないためだよ?」
真帆の言う通り、確かに美咲は最近料理の練習を始めた。しかし、それは誰かの為という訳ではないのだ。美咲は特定の感情を持つ特定の相手なんていないのだ。
「隼人も美咲も本当に似た者同士なのよ」
再びそう言って、深いため息を一つつくと、真帆は目の前の青信号にアクセルを踏んだ。