あの空を目指して……
深海にある岩場の陰のなか――。
「よし、やっとできたぞ……」
海上から放り投げられる餌にも気付かず……。
稚魚だったころの魔王は、執筆することに夢中になっていました。
「楽しみだなぁ、誰か見てくれるかなぁ……」
いつものように作品を海底ポストへと投函し、海面へと昇っていく虹色の泡を見送りながら……ほほえんだ魔王は、岩陰に戻り執筆をはじめます。
「いつか大きなお魚さんたちがいる水面に……。
ううん、この海のさらに上にあるという空に……お前と一緒に行けるといいな」
魔王は生まれたばかりの自分の作品を愛でます。
評価やブックマーク……そんな小さなことは、どうでもいいことでした。
いまはただ、一歩一歩成長していこう……。
僕らの旅は……まだ始まったばかりなのだから――。
「僕、たくさん頑張るよ。だからいつか……」
――いつか一緒に……あの空に行こう。
× ×
「俺の、影だと……」
『そうだ、私はお前が生み出した影――お前の魂そのものだ』
その影は――ただそこに在るだけで周囲の空気を凍りつかせるような、禍々しい瘴気に包まれていました。
『どうした? 魔王らしく奴を滅ぼしてやらないのか? ――いつものように水増しすれば、簡単に突き放せるだろう?』
影は赤い眼を輝かせ、龍に怖気づいた魔王を嘲笑いながらささやきます。
「それは……」
『ふん、完全に戦意を喪失したか。まあ仕方ない。なんの努力もせず、ウケ狙いのお前の実力などその程度なのだから。――まともにやりあったところで、奴に敵うはずがない」
歯に衣着せぬ物言いに、苛立ちを覚えた魔王は反論します。
「ふざけるなッ! 俺は努力してきた! 何もしなかったわけではない!」
『ほう……?』
「少なくとも俺は底辺レベルではない。上級……いや、中級以上の実力は持っている……』
『アハハハハッ!』
「!?」
その言葉を聞いた影は魔王を指差し、腹を抱えながら大笑いします。
『素人に毛が生えたかも微妙なお前が……よくもそんな大口を叩けたものだ。――ああ、そういえばお前が大好きなオンラインゲームの中にもいたな。そういう自称・上級者さまとやらは……ククッ!』
「きっ……貴様ぁッ!!」
自分を馬鹿にする影に向け――魔王は殴りかかります。
「おりゃーっ!」
魔王が放った――”必殺の拳”は、まっすぐに影の顔面を捉え――ギャグ漫画のように見事にめり込みました。
「グギャッ!?」
ですが無様に鼻血を吹き出し、後方へと吹っ飛んでいったのは魔王のほうでした。
『ククッ、自分で自分を殴りつけて、どうするつもりだ? ……ちなみにそんなしょぼい右ストレートでは、世界は獲れんぞ』
「う、うるせーッ! ふ、ふざけやがって……」
魔王は涙目で鼻にティッシュを詰め込みつつ、挑発する影を睨みましたが……すぐにビビッて視線を逸らします。
影の目が……恐ろしいまでの憎悪の光を放っていたからです。
――努力……か。
『そういえば、お前は別の意味で努力していたな』
悲しみを帯びた影の声……。
『作品を書くための筆など放り投げ、ずっと営業努力だけをしていた。
複垢や相互評価でランキングを不正に操作し、邪魔な相手をおとしめ、成長するための時間を浪費しながら努力してきた』
「ち、違うッ! 俺は……ッ!」
『なにが違う? お前は他者より高い場所に立ちたかったのだろう?
そして祈りを忘れ、承認欲求を膨らませ――この玉座に座ったのだろう?
それとも……「自分は芸術性を求め、表現できるチャンスが欲しかった」とでも、模範的な言い訳をしてみるか?』
「黙れッ!」
『黙るのはお前の方だ! 餓鬼ッ!』
「……ッ!」
影は魔王を睨みつけたまま、両手の拳を強く握り締め……。
黒い波動と共に、冷たい言葉を放ちます。
『地獄の餓鬼道に堕ちた、強欲な亡者……。
いつも腹を空かせ、死んでもなお三途の川に転がる石をかじり続けている。
他人から食い物を奪ってでも、己の欲を満たそうとする今のお前は――醜悪極まる餓鬼と同じだ。犬畜生にも劣るどうしようもない存在だッ!』
「やめろ……やめてくれ」
心に突き刺さる言葉に、魔王は両手で耳を塞ぎます。
ですが影の言葉は、耳を塞ごうが変わることなく聴こえてきました。
『あの龍が稚魚だった頃の姿を思い出してみろ!
あの岩陰でずっと寂しい思いをしながらも、ひたすらに自分の作品を愛し、抱きしめながら育ててきた。
それが我欲に囚われ、己を満たすことしか考えなかった――お前と奴との本当の差だッ!』
「もういい……もうやめてくれ……」
魔王は涙目で、影に懇願します。
これ以上、影の言葉に耳を貸してはいけない――。
これ以上聞けば――二度と筆を持つことは出来なくなってしまう。
『もう一度言ってやろう……お前がやってきたことはなんだ?
ポイントを稼ぐために水増しをしたり、感想や評価依頼をしたり……いつも喉が渇いた腹が減ったと喚き散らすばかりだった』
「もう……やめてくれ……」
『だがお前は……心の奥底で己の行いを恥じていた』
呆然となった魔王から視線を逸らした影は、
『もともと……そんなことが続けられる奴ではなかったのだ』
まるで名残り惜しむように……はるか彼方にある空を見つめます。
『運営はお前の不正に気付いている。
間もなく、お前が必死に掴んでいた蜘蛛の糸は切れるだろう。
そして……この小説家になろうという世界から、お前は消えることになる』
その言葉を聞いた魔王の顔が……みるみると青ざめていきます。
アカウントの削除……この世界からの消滅。
それはいままでの苦労が、すべて水泡に帰すことを意味していました。
そして、ありとあらゆる信頼を失うリスクも――。
『釈迦になり損ねたお前には、相応しい最後だ。
どのみち何年、何十年続けようが無駄だ。
数字の呪いに縛られる限り……お前は二度と成長できないのだから』
莫迦は死ななければ治らない。
そして、呪われてしまった私も――。
『それが盲目になってしまったあなたにとっての……唯一の救い……』
「お前は……」
変貌していく声に、その姿に、魔王は言葉を失います。
冷たい言葉を放っていた悪魔――自分の影が、両手で顔を覆いながら泣きはじめたからです。
『私は、悪魔になど……なりたくなかった……』
まるで小さな子供のような純粋な目で、魔王に微笑みかける――影。
『どんな誘惑にも決して負けず、成長していくあなたの姿が見たかった。
何度も私を追い越しながら……強くなっていくあなたを見守りたかった」
影の足元には、真っ赤な血だまりができていました。
刃物のような言葉で、魔王を傷つける度に……自らも致命傷ともいえる、深い傷を負っていたのです。
『私はあなたを……あなたを導くための“導”だった。
この暗く冷たい世界で、あなたが自分を見失わず……。
本当に信じている夢を追うための――導だった』
そして縁が砕ける音とともに、
『あなたと共に……生き続けたかった』
影の姿が、ボロボロと崩れおちていきます。
『だけどそれはもう叶わぬ夢……。
冷たく突き放し、見捨てることでしかあなたを救えないのならば……。
私を生み出してくれた……あなたを救うためならば……』
あなたのために……喜んで死にましょう。
「待て、どういうことだッ!?」
無垢な子供のような笑顔で、もう一度だけ影は微笑むと、
『……さようなら……パパ……』
不可解な言葉を残したまま、倒れ伏し動かなくなりました。
× ×
無音となった玉座――。
そこには、呆然と立ち尽くす魔王と、力尽きた魔王の影だけがおりました。
「……」
魔王はおそるおそる、影へと近づきます。
そしてその手が、影に触れた途端……まるで霧散するかのように黒いもやは消え、影の本当の姿があらわとなりました。
そこにあったものは――。
「そんな……そんなッ!」
影の正体は――ボロボロになった魔王の作品でした。
傷つき、痩せ細って力尽きた……。
魔王が一生懸命に生み出した……まだ幼い龍の姿だったのです。
「あ――アアァァァッッ!」
変わりはてたわが子の姿に、魔王は慟哭の叫びをあげます。
いかにポイントを増やそうと――。
いかにブックマークが増えようと――。
それは龍にとって、なんの栄養にもならなかったのです。
本当に必要だったものがなんであるか――。
魔王は、ようやく気付くことができました。
ですが……もはやすべてが手遅れだったのです。
「済まなかった……ずっとお前をひとりぼっちにさせていた……」
大粒の涙がぽろぽろと……。
最愛の龍の顔へと、こぼれおちていきます。
――いつか一緒に……あの空に行こう。
「許してくれ……どうか許してくれ……」
ひとりぼっちの世界の中――。
顔をくしゃくしゃにした魔王は、愛しきわが子のなきがらを抱きしめ続けました。