ぬりかべ
「直人さん、思い直して、私は健康よ。私の方が、あなたにふさわしいわ。」
「ふざけるな。二度と祐子に近づくな。会社でも、話しかけないでくれ。」
引っ越しの時に祐子と二人で選んだクリーム色の食卓椅子ごと、彩夏を引っ張って玄関の外へと追いやった。目を真っ赤にして、涙をぼろぼろと零しながら必死に腕にすがりついてきたが、苛立ちの方が先に立ち、憐れむ気さえ起らなかった。鍵を降ろし、チェーンをかけて振り向くと、祐子の平手が頬に飛んだ。先ほどまでの冷たい死体のような表情とは変わって、彼女の目の奥は怒りに燃えていた。その火は一瞬の間もなく迫りくる涙にかき消され、溢れる前におれの胸に吸い込まれた。祐子は俺の背に手を回し、体に力を込め、震えながら、爪を立てたり、撫でたり、殴ったりした。抱き留めなければ崩れてしまいそうだと、その薄い肩に手をかけようとすると、彼女はすぐさま身を起こし、もう一度おれの頬を打った。数年ぶりにみる、祐子の泣き顔だった。熱のある顔だった。そして、夏の終わりの線香花火のような、もうじき消えてしまいそうな顔だった。彼女はおれに抱き着き、はなれ、また打った。卒倒しそうだった。彼女をこんなふうにしてしまった悪者はおれ以外にいない。逃げようとする祐子を捕まえ、強く抱きしめた。祐子は強く抵抗したが、次第に落ち着き、俺のシャツに顔を押し付け、嗚咽を漏らし始めた。相応しい言葉が何も浮かばなかった。ただ謝るのでは、あまりに軽すぎる気がした。
「すき。」
泣き声に交えて震える声が聞こえた。
「すきなの。こんなに、憎いのに。でも、すきなの。絶対に許さない。大嫌い。すき。」
「おれもだよ。祐子が世界で一番大切だ。子供の頃からずっと。」
「だまって。そんな言葉信じない。だいきらい。でも、すき。」
祐子は俺の胸を今までになく強く殴った。背中のドアが揺れる。彩夏が強く叩いている。
おれは、祐子のことが好きだった。子供の頃からずっと、絶えることなく、好きだった。
おれは、彩夏のことが、好きだった。顔を真っ赤にして、新卒の挨拶をするのを見た瞬間から、好きだった。こうなった今もやはり、好きだった。