記憶
ピーという甲高い音。軽快で澄んだ太鼓の音が聞こえる。
よく晴れた空には赤トンボが群れを成し、刈入れられた田は、まだ瑞々しい藁の香りが漂う。
子供たちが駈けてくる。質素ながらも、新しい着物に身を包んで。
向かう先の参道には縁日の出店が並んでいる。子供たちに人気なのは、風車と面の屋台と、水飴を売る屋台。樽から棒に絡めて取り出した水飴に、目を輝かせて手を伸ばす。
子供だけでなく、村人は皆、年に一度の祭りを楽しみにしている。
今年も、稲はよく実った。善き水と、善き風を送り、土を善くしてくれる神に感謝を捧げる。
境内では、能や相撲が奉納される。旅芸人の技に、猿回しの猿の賢さに、わあ、と歓声が上がる。
それを黒い長髪と大きな羽を持った青年が、木の上からにこにこと見下ろしていた。
切れ長の、緑色を帯びた黒い目。面をつけてはいないが、遠き日の清羅。
隣には、光に包まれた、女性の様な姿が見える。二人は並んで太い枝に座り、村人たちの笑顔を見下ろしていた。
視線を移せば、田の間には小川が流れ、畔にはワレモコウやミゾソバの小さな花が見える。
(きよらも、おめん、つけてみて。あの、きつねの。
ああ、にあう、にあうわ)
(ありがとうございます)
顔の上半分を覆う黒い狐の面を付け、照れて小さく頭を下げる。
(みんな、しあわせそう。へいわで、おだやかで。
ねえ、きよら、ここはとてもやさしくて、ゆたかなせかいね。
せかいは、みんなつながっている。
ちいさな、めにみえないいのちが、このみのりをささえているの。
きよら、これからもずっと、まもってね。
やまを、もりを、おがわを、さとを、たを、はたけを。
わたしのつくった、いとしいこのばしょを。
まもってね。
わたしのちをひきつぐ、やしろのいちぞくを)
(はい、この身、滅びるまで、永久に)
(きよらに、かたなをあげる。だれにもじゃまされず、ここをまもれるように)
光は、笑顔を見せたようだった。
柔らかな光の粒が、人々の間から立ちのぼる。
ふわりふわりと数を増し、境内に溢れ、山を包み、空を照らす。
永遠に続くと思われた、穏やかな秋の一日。
「ロキ殿」
あたたかく柔らかい闇の中、わずかに光を放つ、黒い狐の面を付けた清羅が目の前に立ち、微笑みながら自分の名を呼んでいる。目の奥が、じんと痛くなった。
「清羅、ごめん。俺、本当は、すごくうれしかったんだ。
帰る場所にしていいって言ってくれた事も、お土産、持たせてくれようとした事も。なのに」
必死で告げると、笑いながら首を横に振る。
「ちゃんと、わかっておりました。礼を申すのは、私の方。
私は、あの地を育み、愛してきた神に創られた。
けれど昨今、拭い難い思いが芽生えてしまいました。
人さえ、いなければ、と。
その思いを、どんなに否定しようとも、贖罪に明け暮れようとも、拭いきれぬ思いは日毎に強くなるばかり。
けれど、ロキ殿としばし時を共にし、人の愛しさを思い出す事ができました。
やはり、人とはいいものだと思う事ができるようになった。
私はやっと、清き姿に戻り、逝く事ができる」
「やだよ、清羅の所を、自分ちだと思っていいって言っただろ?
証を通して助けてくれるって。そばにいてくれるんじゃなかったの?
俺さ、甘えていた。バカだったよ。
ちゃんと反省するから。お願い、どこにも行かないで」
子供のように泣きじゃくるロキを、腕を広げて包み込むように抱き寄せ、頭を撫でる。
「私になど、もったいないお言葉。
ロキ殿がわが証をお持ちになっている以上、姿は変われど、ずっと傍におります。
それに、ロキ殿の帰る場所ならちゃんとある。
家族のいる場所が帰る場所だと申したでしょう?」
見上げると、黒い狐面の奥で、潤んだ翡翠色の瞳がすっと細まる。
「そなたは、あの方によく似ている。血はすでに遠いのに、こんなにも。
私は恵まれている。
山も、里も、空も、木々も、人も、なにより、ロキ殿、そなたの事が、我が子のように愛おしい。
甘えて突っぱねられる事すら歓びでした」
ロキの頬を伝い落ちる涙を、手の甲でそっと拭って首をかしげる。
「最期に出会えたのがそなたで、本当によかった。
さて、そろそろ、逝く事にしましょう。最良の生涯でした。
そんなに泣かれては、名残惜しくなってしまう」
くすくすと笑う清羅の声が、かすかに震える。
「ごめん、もう泣かない。ありがとう、絶対忘れないから。
清羅、あの、大好き」
(きよら、だいすき)
僅かに目を見開いた清羅の脳裏に過った声を、ロキは知らない。面の下から、雫が伝って流れる。
「人とは、本当に、善きものだ」
くしゃりとロキの頭を撫でた手が離れ、清羅の姿が遠ざかる。
追って駆け出そうとする自らの足を必死で止めたロキに、深々と頭を下げて、満面の笑みで手を振る。その姿が消えていく。
後には、暖かな闇ばかり。