召喚
ロキは、体ごと曾祖父である霜司に向き直り、無言のまま見つめた。
「よくやった」
「あのさ、ここ、何? なにしてくれてんの?」
「さあ、渡しなさい」
ロキの問いには答えず、穏やかに微笑みつつ自らに差し出された左手を一瞥して、ぐっと見返すと、浄土と呼んでいた地で会った時のまま、二十代の容姿の曾祖父はさらに口の端を上げて目を細めた。
「渡せって、何を?」
「覇天を、渡しなさい」
「やだね」
「ほう」
「これは、清羅が俺にくれたんだ」
「季実、お前はわかっていない」
手を差し出した姿勢は変えず、口元にだけ笑みを残して、神はそう告げた。ロキは穏やかに笑って返した。
「じゃさ、わかるように話してよ」
「話せば、覇天を渡すか?」
「さあね、聞いてみないとわかんないだろ」
神は差し出していた手をおろし、痛みに耐えるように眉を寄せ、視線を外した。苦々しげに息を吐き出し、見据えるようにロキへ視線を戻す。
「厳しい、話しになる」
「いいよ」
「この星は、我ら一族が創造した。
この星だけではない。この星系に元からあったのは、お前らが太陽と呼ぶ、あの恒星のみ。他の惑星も、月も、我らが。地球が今の環境にあるためには、全て必要なもの。月の重力が海水を撹拌し、命を産んだように、全てが影響し合う。
この星は、神の箱庭だ。我らが棲む星によく似せられ、よく似せられた、ヒトという生き物が住まう。他者より強きヒトを作り、より美しい容姿の者を愛で、そういった者たちに特別な加護を与え、楽しむための」
神は言葉を止め、探るようにロキを見て、続けた。
「古の昔、魔獣を地に放ったのも、我らが一族。それは、ヒトにあえて試練と畏怖を与え、神を崇拝させるためのもの。
時が過ぎ、神々は、この地にも、ヒトを愛でるのにも飽いた。危険を伴う魔獣の数を減らし、この地を去った」
「けど、またでてきただろ」
ロキの静かな言葉にきっぱりと頷いて見せる。
「神々は、思い出したようにこの星の現状をみて愕然とした。
かつて緑と清き水に溢れ、澄んだ大気に満ちていたこの星は、ヒトが譲り合い、思いやりを持って暮らしていたこの星は、神の介入がなくなった途端、こんなにも荒れてしまった。
何とか立て直させようと啓示を降したが、神の声を聴く者も減り、しかも、彼らの言葉は狂者の戯言と聞き流されるばかり。
神は決断した。この星を、ヒト以外のすべての生き物を守るためには、もう、これ以上、人類を蔓延らせるわけにはいかぬ、と。極力生態系を狂わさず、ヒトのみをこの星から消し去る方法がいくつかあった。ヒトにのみ感染する病魔もそのひとつ。そして」
「魔獣に、ヒトを襲わせる」
呟くようにいって自身を見るロキに、口の端だけわずかにあげて目を伏せた。
「そんな、さ、急すぎない? 人間にだっていいヤツはいっぱいいるし、俺たちは、まだ」
「過去にもあった事だ」
ロキの言葉を遮って、神は言った。
「幾度となく、悪意は人々の間に満ち、その度、我ら一族は人を間引いて来た。
一気に絶滅まで追い込まなかったのは、改心を信じての事。
けれど、人は増えすぎるといつも過ちを繰り返す。
最後の審判は、もう目前だ」
神が口を閉ざし、ロキを見る。話を聞き、なお、表情を変えないロキを、どう思ったか。さらに言葉を続けた。
「儂は、他の神々が去った後も、この星を愛でてきた。
これでも、なんとか自然の保護や、環境の改善に尽力してきたつもりだ。儂一人でできる事は、少なかったが。
ある時、ヤツラの決断に気付き、なんとかしてヒトを生き延びさせる方法を考えた。ヒトは、確かにこの星を蔑ろにしすぎた。けれど、まだやり直せるはずだ。儂は神で、人類よりはるかに強大な能力を持っているとはいえ、神々の間にあっては力弱き若造でしかない。
が、そんな儂がただ一つ、神々に対抗できる手段がある」
二人の間に沈黙が降りた。その沈黙の中に、一振りの刀が横たわる。覇天。
「覇天は、歴々たる宇宙の神秘、生命の本質、この星の根源に触れる事ができるモノだ。神の定めた秩序を切り裂き、作りかえる事ができるただ一つのモノ。
谷城の山を守る風魔が所有しているのを知り、渡すように告げたが、ヤツは拒否した。通常、魔族が神の言葉に異を唱えるなど、天地が入れ替わり、頭上から重力が働くほどに有り得るはずもない。が、ヤツは覇天の力を使った。それほどに力を持つ武器だ」
「覇天を清羅が持っていたら、人類は神に絶滅させられるっていうの? そんな事、清羅が黙って見過ごすわけないだろ」
「季実。覇天は、神殺しの刃だと、かの風魔は言わなかったか?
使いようによっては、神の意志に反逆し、害なす力。
当然、そこには風魔を創造した神も含まれる。魔族は未来永劫、己の創造主の忠実な眷属となる。その事は、お前もわかっているな?
魔族は、神の言い付けや下賜された宝物を全てにおいて優先させる。その対価が、人命であったとしても」
ロキの脳内に、己の眷属たちの姿が浮かんでいた。
エンは、ロキの血によって目覚めた。レヴィは、薄いとはいえ、ロキの中の神の遺伝子に仕える。その忠誠心は、疑うべくもない。ロキが心から命じるならば、もしくは、ロキただ一人の命を守るためであれば、この地球上全ての人命を見捨てたとしても不思議はないかもしれない。清羅が同じように、ロキの古い、遠い祖先の神を思っている事は、充分に有り得る。
神は、再び左手を差し出した。
「かの風魔がヒトを気にかけているというのなら、充分な葛藤があったはずだ。
お前が儂の近い後裔である事は、当然知っている。使い方も、その価値もよく知りもしないお前に覇天を渡したのは、なぜだ? お前を通じて、儂に覇天が渡る事を秘かに願っての事とは思えぬか?
さあ、季実、覇天を渡せ。もう、時間はあまり残されてはいない」
魔獣の襲撃は、日々激しさを増してきている。こうしている間にも、この星のどこかで誰かが襲われ、命を落としている事だろう。
奥歯を噛み、差し出された曾祖父の左手をじっとみて、すいと顔を上げ、正面から真っ直ぐに顔を見た。
「わりいね、じいちゃん。俺、やっぱり、覇天を渡す気にはなれない」
自らが発した言葉に、心臓が不穏に高鳴る。
何を信じればいい?
脳裏で、清羅が穏やかに笑う。己の直感に従いなさい、と。
「時が過ぎゆけば、その分人命は失われ続ける。重いぞ、季実」
「うん、重いね」
それでも。
母が死して以降、誰も信じられずに生きてきた。他の誰の事よりも、自分自身に価値を見いだせず、ただ、己の影を引きずるように歩いて来た。あたたかく名を呼ばれ、顔を上げた先にいたのは、眷属たちだった。
自分の決断に、自信などない。けれど、逃げるわけにはいかない。裏切るわけにはいかない。
ロキの決断を察してか、神が諦めたように手をおろすと、その姿は徐々に薄れていった。
「気が変わったら、儂を呼べ」
すっかりその姿が消え去り、ただ白いばかりの空間のいずこからか、神の声が聞こえた。
その空間に足を踏み込んだのと同様に、空気が変わった。
駅のホームの雑踏。後ろから、とん、と誰かがぶつかり、迷惑そうにロキを見ながら通り過ぎて行った。さっきまで乗っていた電車が、まだそこにある。人の流れを乱して、急に立ち止まったような格好だった。あの空間にいた時間は、「こちら」では、なかったことになっているらしい。
俯きがちに唇を噛み、足早にその場を去った。