覇天
清羅は、ロキの正面に向き合って立ち、すっと地面に片膝をついた。両手を何かを捧げるように頭上に挙げると、その手の中に、一振りの刀が現れた。
黒い鞘には護符が貼られ、純白に輝く下緒、同じ色の柄。鍔には、息を呑むほどに美しい装飾が施されている。その、圧倒的な存在感は畏怖の念を呼び起こす。全体が薄っすら光を放ち、僅かに宙に浮く。
「清羅殿! それは」
レヴィが怯えたような声でロキの前に立とうとするのを、ロキ自身が遮る。狐面の男は、その漆黒の髪を揺るがせて刀をロキに差し出した。
「この刀の名は覇天。神殺しの刃。望むのなら受け取られよ」
エンからもぴりぴりとした空気が伝わってくる。ロキはゆっくりと左手を伸ばし、鞘を掴もうとした。
「ただ」
清羅の声に、ぴくり、と、伸ばしかけた手を止める。
「この世の全ては、善悪だけに分けきれるものではありません。神も、神に仕える我々も。
われらが守護するは世の秩序。
一所が大きく綻びれば、他所にその歪みが現れる事は必定。
神殺しは世の秩序と均衡を破壊する行為。一度崩れ始めた均衡は、人に支えきれるものではない。
やがてそなたは、天に仇なす者としてその身に余る罪を背負い、永久の苦しみの中、この世の終わりまで生き続け、己の罪を見る事となりましょう。
受け取るのは、その覚悟を持ってからになさるがいい」
ロキは目を見開き、その言葉を噛みしめて、ふっと肩を落として手を引いた。
「まーったく、イイトコ突いてくるよね。命が惜しいとか、思った事ないけど、死ねないのは困るなあ。
エン、レヴィ、どう思う?」
「どうせ、答えは出てんだろ」
「主様らしからぬ事を。決断を支えるために眷属になったと申したはず」
僅かに目を伏せ、口角をあげてくすりと笑う。今度は迷いなく左手を伸ばして冷たく滑らかな鞘を掴んだ。
「だよね。迷ったところで、どっちにしたって、選択の余地はなしだ。
秩序なんて、生き残ったやつらでどうにかすればいい。
それでダメだったら、そこまでってことでしょ」
右手で柄を持ち、引き抜こうとしたが、びくともしない。清羅が、清々と笑う。
「まだ刻ではないのでしょう。やがて刻が来れば、刃もそなたに仕えよう。
それまで、わが証に封じておかれては如何か」
清羅の言葉に、左手を胸元の黒い石に近付けると、手の中の妖刀がすっと姿を消す。
「便利なもんだなあ」
ふふ、と、微笑んで頷く清羅に、眷属二人が複雑な視線を向ける。
「清羅サン、いいの? こんな事して」
「エン殿、と、レヴィ殿。そなた達は?」
「俺らは、コイツの無茶には慣れているし、眷属だしさ、とっくに覚悟はできてんよ。けど」
「神殺しに直接関わったとあっては、清羅殿のお立場が」
二人の言葉に、さらりと黒髪を零して俯き、すっと顔をあげる。
「打ち捨てられたように忘れ去られて幾星霜、このまま命のみ長らえて何になりましょう。
谷城の家の者が使命を帯びたのも、何かの縁。
血気盛んな、野望持つ若者に命運を預け、神に消されたとてそれもまた一興。
この身が消されても、別な風魔が生まれ、天狗となりてこの地を治めるというだけの事。眷属にはなれぬこの身なれど、力を貸すくらい、お許し願えませんか」
「清羅」
「御当主、よき眷属を得られましたね。
これもそなたの人徳あってこそと、心に留めお置きくださいますよう」
「うん、ありがと、ごめん。……ありがとう」
ロキの言葉に、清羅はふわりと笑みを深くして再び頷いた。
自分は、この世の秩序を壊そうとしている。神とはなんだろう。それすら、わかりもせずに。魔族にとって、神とは絶対的な存在だ。自分の眷属であるエンやレヴィでさえ、その声を聞く事も、姿を見る事もできないくらいに尊い。清羅は、もうずっと、ここを護ってきている。きっと、すごくまずい立場になるはずだ。それを、自分のために。
「あのさ、本当に、いいの? 俺、清羅に、すげえ色々してもらっていて。
なんも返せないのに。
俺、本当は」
「本当は? 力を貸すなどと言う私に、遠慮しないと言い、利用しようとして、その実、ずっと申し訳ないと遠慮しそうになる自分を、隠そうとしていた、と?」
目を見開くロキの両肩に、正面に立つ清羅が手を置いて、首をかしげる。思わず、狐面の奥を覗き込むと、ふっと笑みをこぼす。
「気付いていましたよ。もっと早く、遠慮など不要だと話すべきでした。
人に望まれるはわれらが歓び。ましてやそなたは谷城家の当主。
この地は、本来そなたのものと言ってもいい」
「俺、さ。もう、帰る家、ないんだけど。
家族も、みんな死んで、家も、土地も、親父が売っちゃって」
「そなたには眷属たちがいる。家族がいる場所が、帰る場所です。
それでも、帰る家が欲しいというのなら、ここを我が家と思えばいい。
さすがに私なぞが、御尊父の代わりになどなれぬでしょうが、こんな茅屋でよければ、我が家がごとく振る舞えばいい」
暖かくかけられる言葉に、涙が流れた。哀しくて、情けなくて、悔しくて、嬉しくて。
「きよ、ら」
「ん」
「ぼうおく、って、なに」
「主様……」
「ロキ、お前さあ、今。ああ、もう」
「え、え、なんだよ」
呆れた様子の眷属たちを、真っ赤になって睨むロキをみて、清羅が高らかに声をあげて笑った。