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黄昏のエッダ  作者: 羽月
風魔
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修練

 それから十日間、日の出から日の入りまで、ほとんど休みなく稽古は続けられた。

 口にするのは、清羅に与えられた黒い小さな丸薬と水のみ。不思議と全く疲れず、むしろどんどん体が軽くなっていくのがわかる。エンとレヴィも体術を習っており、ロキから見ても見違えるような動きをするようになっていた。剣道とボクシングを始めてまだ数か月だったが、どうやら元々よかった動体視力がロキも気づかぬ間に鍛えられていたらしく、筋がいいと褒められた。

 こんな時に、不謹慎かもしれない。けれど、楽しい。

 穏やかで、決して妥協を許さぬ指導者の元、エンとレヴィと一緒に稽古に励む。成果は目に見えてあがり、行き詰ると清羅が導いてくれる。その厳しさは、やがて戦乱の地へ赴くロキを案じての事だと知れた。

 こんな風に、誰かが気にかけてくれた事はなかった。親身に根気強く導いてくれる事も。そして信頼できる仲間。ずっとこの時が続けばいいと思った。


 そろそろ下山した方がいい、という清羅の言葉に、胸が締め付けられるようだった。わかっている。しばらく戻れないとことわっては来たが、いつ妖魔の襲撃があるかわからない。これ以上長く留守にはできない。肩を落として俯くロキに、清羅が笑いながら言う。


「ここは神に与えられたわが居空。そなたの住む世界とは時の流れが違います。

 現世では、夕刻を迎える頃合い、宿坊に戻らねば心配を掛けましょう。また明朝、我らが出会った山道でお待ちしております。今日の所は下山なさるがよいでしょう」


 ぽかんとするロキの肩に手を置き、頷いて見せる。ロキも満面の笑顔で頷き返した。


 翌日、宿坊の朝食さえ断り、まだ霧のたち込める山道を駈け上った。針葉樹の爽やかな香りを含んだひんやりとした山の空気が肺を満たす。

 この辺りだったかと周りを見回し、黒い証をそっと握ると、不意に起こった風が落ち葉を波らんで舞わせ、小さなつむじ風の向こう、清羅が立っていた。自らの背後に、眷属たちも姿を現した気配がする。


「おはようございます、今日も、よろしく」


「はい、おはよう。精が出ますね」


 狐の面越しではあるけれど、慈しむような目を向けてくれているのがわかる。暖かなものが、胸に満ちていった。


 清羅の家で剣術を教わりながら数日過ごし、休憩がてらお茶を飲みながら話していた時だった。清羅がふと、寂しげな表情でつぶやいた。


「百年も前であれば、もう少し力もあったものを」


「え、なんで? 今でもすごいっしょ?

 けど、百年で、力が落ちる何かがあったの?」


 ロキの知りたい何かに関係する事かもしれない。神の秘密に、迫る何か。

 清羅はちらりとロキを見て逡巡し、微笑みを浮かべ、お見せしましょう、と、立ち上がった。清羅が右手を差し出すと、その前の空間が色を変えていく。ちょうど、レヴィが海水のレンズを作り、遠い景色を映し出すのに似ている。

 そこに見えてきたのは、初日にロキが参拝した、麓の本殿。景色は、参道、ロキの母を含めた祖先の眠る墓地、そして、土産物屋と食堂の並ぶ駐車場と移ろいで行った。

 清羅は何を見せようとしているのだろう。視点がぐんと空に引き上げられ、その周辺の景色が画像の中に入ってきた。商店街、住宅地、駅、幹線道路、細い川。ロキには、見慣れた街の景色。その中に、清羅の守る山が切り取られたように緑濃い。視点は下がっていき、川辺へ降りた。ロキは、清羅が見せようとしているものを理解した。空き缶や、様々なゴミが積み重なっている。排水溝からは濁った水が流れ続け、川の色を変える。視点は上流へ向けて飛ぶ。よくもここまでというくらい、ゴミとヘドロに埋め尽くされた景色が続く。

 やがて景色は山へ戻ってきた。本殿と参道の反対側の山は重機が走り回り、崩され、均され、何かが建設されようとしていた。清羅の守ろうとしている山は、切り取られ、消えようとしている。じん、と、目の奥に痛みを覚えた時、映像は途切れた。


「私の力の源は、風であり、山の生命力、といえば、伝わるでしょうか、山が持ち、溢れだす力強い気であり、小さき者たちの感謝の祈り。

 あの地には、様々な野鳥の巣がありました。ムササビやヤマネ、ウサギやタヌキ。みんな、死に絶えてしまった。

 川も命に溢れていた。今となっては、どんなに清流を作っても、毒水の勢いは止められません。

 河川も削られ、コンクリートで固められ、清流が川辺を洗う事もない。

 社を参る者たちも、命を尊び、感謝を伝えるために訪れるものは減りました。人は皆、己の欲望を垂れ流す。神域は穢され、わが力は衰えるばかり」


「そんなやつら、追い出せばいいだろ!

 もう守ってやらないって、見捨てたって」


「ロキ殿は、どうです?」


 激昂して叫ぶロキに、穏やかな笑みを湛えて清羅が問う。


「私は、それでも人を愛しております。

 愚かで哀しく、弱く、自らの目の届く範囲の事に気を乱され、溺れそうになってもがく姿は、一層憐れだ。時に、非情で醜い。

 けれどね、それでも、愛さずにはいられない。見捨てるなんて、決して」


 狐面の奥で、どんな目をしているのだろう。堪えきれず涙が溢れた。人として、どんなに詫びても、取り返しがつかない。

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