浄土(2)
次に目を覚ますと、和室に敷かれた布団の中だった。木目の高い天井、太い木の柱、雲の上の建物を彫りぬいた、欄間の透かし彫り。壁の三方は襖で、残りの一方は白く、柔らかく光を透す障子。その向こうから、コッコッコという、リズミカルなニワトリの声と、ピチパチと雲雀の囀りが聞こえていた。ゆっくり起き上がると、さらりとした生地の、作務衣のようなものを着ていた。枕元の小さな盆には、陶器の急須らしいものと、湯呑が置かれている。古い日本家屋のようだけれど、ここはどこだろう。まだ醒めきらぬ頭で考えようとしていると、誰かが廊下を歩いてくる。男性らしい影が、白い光の中を横切り、部屋の前で立ち止まり、障子を引いた。起き上がっているロキを見て、うれしそうに軟らかな微笑みを浮かべ、畳の上を滑るように近づいてくる男は、二十代前半くらいだろうか、涼やかな目と、たおやかな所作が高貴さを感じさせる。初めて会う人のはずなのに、どこか懐かしい。
「起きたか、季実。具合はどうだ?」
「じいちゃん……?」
ロキの言葉に、ほう、と感嘆の声をあげて目を細める。
「よくわかったな。あっという間に、ずい分大きくなって」
「やっぱり、じいちゃんなんだ? って事は、俺、死んだの?」
ロキの言葉に、ふふ、と笑って首を横に振る。
「本来、儂は手を出してはいかんのだが。ひどい怪我をして、凍傷になりかけていたので、止むを得ず連れてきた。まだお前を死なせるわけにはいかん。だが、ここは、お前の肉体が存在する事はできぬ世界。肉体の方は、別な場所で治療している」
「え、じゃあ、俺、今おばけって事?」
「似たようなものだな。飯は、食えそうか? 腹が減っただろう。すぐに何か用意してやろう」
おばけなのに、メシって。唖然としたが、確かに空腹を感じている。どれが本当で、どれが冗談なのか。それとも。
「じいちゃん、相変わらずボケてんの?」
ロキの真顔の問いに、青年は声を出して笑った。
「じいちゃんちは、昔の農家って感じで、ガキの頃に住んでいた俺んちにちょっと似ていた。花がいっぱい咲いていて、雪柳や連翹や、菜の花やグラジオラス、百日紅に沈丁花に牡丹、芍薬、百合、もうどこも花だらけ。季節とか関係なし。
お茶の木の垣根の先は硬い土の道路で、その向こうは田んぼなんだ。村の人たちが、田植えしていた。俺も、ちょっと手伝ったんだ。村の人たちは、じいちゃんが言うのにはさ、みんな働き者なんだって。じいちゃんは、霜様って呼ばれていて、俺は、曾孫って言うとおかしいから、友達が遊びに来ているって事にしていた。
みんないい人でさ、にこにこしていて、畑で採れた野菜とか持って来てくれるんだ。母さんには、会えなかった。じいちゃんは、母さんはここにはいないって言っていた。俺もさ、すぐに帰ろうと思ったんだよ、マジで。けど、じいちゃんは、まだ肉体の傷が治ってないから駄目だって、ちゃんと治さないと、指とか切断する事になるって。
そんなん、マジやべえだろ? だいたい、おばけのままじゃ困るし、帰り方もわかんねえし。そんでも、まだだめか、いつになったら帰れるんだって聞いていたんだ。そしたら、お前、そんなにあそこに帰りたいのかって。そんなん、当たり前だろ? そう言ったらさ、そうかって言って、ここのドアの前まで送ってくれたんだ。
ああ、そうだ、じいちゃん、吉井さんの事知っているって言っていた」
「え、私の事を?」
吉井が目を見開いてさすがに問い返すと、楽しげに頷く。
「うん、なんかね、よく知っているって。そんでさ、うちの曾孫に、つまんない物仕込むな、今回はこっちで消しておくけど、次やったらみーこちゃんに埋め返すって言っとけって」
「みーこちゃん……?」
「実家の飼い猫だ」
薗田がおずおずと吉井の表情を窺うと、苦々しく吐き捨てるように言う。
「あと、俺の血液検査の結果隠していたの、じいちゃんだった。もう少し、隠しておくつもりだったんだって。なんでそんな事したんだよって聞いたら、それはまだ言えない、いつか、時が来たらじいちゃんもここに来て話すって言っていた」
「神が、ここへ?」
「うん。あのさ、悪いけど、俺、めっちゃ疲れちゃって」
思わず夢中になって話させてしまったが、改めてみると、ロキはぐったりと背もたれに身を預け、とろんとした目をしていた。
「具合は悪くないんだけど、じいちゃんが言っていたんだ。怪我が治ったばかりだし、体と魂? が、しばらく離れていたせいで、馴染むまでは疲れやすいって。なんか、さっきから眠くって」
「わかった、戻ったばかりなのに無理をさせて悪かった。後は充分に休んでくれ。エン君、レヴィ君、彼を頼めるな?」
眷属二人は吉井の言葉に頷いて両脇からロキを支えて立たせた。
「マジ、心配かけて、すんませんっした」
ドアの所で振り返り、ロキは改めてそう言って退室していった。ロキが、戻ってきた。大槻は、大きく息を吐いて、にやけそうになる顔を必死で抑えた。安堵と共に、湧き上がる疲労感。今日はきっと、浮足立って仕事にならない。