契約(2)
ロキは、痛みに抗う事もできず、ただ耐えながら思った。
あー、これ、マジで死ぬわ。幻覚も、なんかもう、シャレにならないし。
だって、バケモノが追っかけて来て、きれいなおにーちゃんになって、
街を海に沈めるとか言って、契約パックをお勧めされて、
そいつが今、俺の左腕から、血を飲んでるし。なにこれ。
夢の中のような感覚で、傍らに座って左腕をとり、傷口に唇を当てる青年を見る。
男はゆっくりと顔をあげると、血に濡れた唇を笑いの形にして、
どこからか水色の薄いプラスチック片を取り出した。
直径三cmほどの、ほぼ丸い涙型をしている。
「それ、ギターのピック? ちょ、何。うあ」
パーカーを捲られ、ズボンを半ば下されて、さすがに抵抗しようとしたが、
痛みに体が言う事を聞かない。
男は構わず、その薄い膜のような物を、左の腰骨あたりに押し当て、
聞き取れない言葉を囁く。
「了承しろ」
「え」
「私の言葉を肯定しろ、と言っている」
「いいよ。了承する。これで、いい?」
力なくつぶやくように言うと、左の腰のあたりから、ふわりと暖かなものが広がった。
チャリチャリと音を立ててガラス片や太い針金のような物が地面に落ちる。
全身の痛みが消えていく。
呆気にとられてゆっくり起き上がる目の前で、
男が自らの唇の、乾いた血をぺろりと舐める。
「これにて、契約完了。我はレヴィアタン。ただ今より、そなたの眷属になりし者。
用向きがあれば、何なりと」
「あのさ、水をあげるのって、水曜日でいい? あんた、なんか水色だし」
「御意。他になければ、これにて」
そういって恭しく額づいて、すうっとその姿を消した。
「え、あれ、どこいっちゃったんだろ。おーい?」
(お近くにおります。
が、呼び出しにはその任の重さに応じて特別手当が発生いたしますゆえ、
使役の際はよくお考えを)
毎週の真水は、ただの契約料ってわけか。
小さく息を吐いて、改めて腰骨あたりに視線を落とす。
水色の膜が張りついていて、そこに、何か文字らしいものが書き込まれている。
ぐっと左手で拳を握ってみると、違和感も痛みもない。
あれだけの怪我をしていたのに。やっぱり、幻だったんだ。
けれど、どこからどこまでが、幻?
安堵と不信感に首をかしげる。
この、破れた衣服にこびりついて固まっているどす黒いものは。
周囲に散らばっているガラスの破片を、赤く染めているものは。
腕の中に抱いたタオルの存在を思い出し、慌てて、震える指でそっと開く。
ナツの子は、目を閉じて、少しだけ口を開いている。
おそるおそる耳を近づけて呼吸を確かめると、すう、すうと規則正しい音が聞こえる。
寝ていただけだったのか。
安堵に、軽い笑みと、さっきまでとは違う涙がこぼれそうになる。