契約(1)
バケモノが追ってくる。これは、マジで現実じゃない。
けど、幻でも痛みってあるのだろうか。
血のにじむ指先が、胸が、呼吸がこんなに苦しい。
タオルの中で、時折ちびが動いている。こいつだけは、死なせるわけには。
さっと影が過り、天空で何かが煌めき、激しい音がしてはっと見上げると、
建物が崩れて落ちてきた。
次に気が付くと、目の前に誰かが立っていた。
淡い水色の長い髪、深く澄んだ青い色の目。見た事もない服を着た、背の高い青年。
「この地は、私がこれから海に沈める。そなたはここにいろ」
どこか機械音のような声でそういう。
「海、に? なんでそんな事」
「その答えの、対価は?」
え。対価? 金とんのか? 思わず無言になる。
その不思議な男は、すっと背を向け、公園の柵を海側の断崖に向かって飛び越えた。
驚いて飛び起きようとして、全身の痛みに悶絶する。
見れば腕や足にはガラスが無数に刺さり、血が流れ落ちている。
なんでだよ、幻覚なら、痛みなんてリアルじゃなくていいだろ。
滲む視線の先で、不思議な男は宙に浮いて海に向かって降りていこうとしている。
「お、おい、待てって」
呼びかけると、空中でゆっくりと振り向く。
ああ、やっぱり、毒ガスでアタマがやられてる。
けれど、このまま黙っているわけにもいかない気がした。
「あのさ、海に沈めるとか、なんなの? 本気? そういうの、やめてくれない?」
「その願いを叶えるための、対価は?」
また対価かよ。
体がドクドクと脈打ち、痛みのせいか、自分が大きく腫れあがっているように感じる。
「いくらいるんだよ。俺、金なんて、ないよ。
親もいないし、給料だって学費払ったらやっとなんだって。
ほんとはさ、大学も行きたいけど、俺、バカだし、奨学金とかよくわかんないし。
金なかったら、将来とか、マジやばいんだよ。
でもさ、少ししかない貯金だけど、それ全部やるから。
この街を海に沈めるなんて、やめろよ。
ナツだってちびだって、ばあちゃんちの下敷きになって死んじゃってんだよ」
痛みと、自分の言葉に涙が溢れる。情けなさと、哀しさと。
ナツと、幼い子供の片割れは死んでしまった。それも、幻だったのなら。
気づくと、腕の中のちびが動いていない。
脂汗が額を冷たくして、考えがまとまらない。
「金持ちの奴なんていくらでもいるだろ。
なんで俺みたいな貧乏人にそんな事言うんだよ」
「金、とは、貨幣の事か? そんなものは、いらない」
「なら、何が欲しいんだよ。俺は、何も持ってないよ。
欲しいものがあるならなんでもやるから、助けてよ」
思わず叫び声をあげると、胸に鋭い痛みが走り、耐えられずに苦痛の呻きが漏れる。
すうっと、その男が近づいてくる。
「そなたの、血をもらおう」
「血、なんてあげたら、俺、死ぬだろ」
けど、まあいいか、きっと、どうせ死ぬ。情けないけれど、涙が溢れて止まらない。
「死ぬほど寄越せとは言っていない。ほんの数滴」
「なら、勝手にしろよ。こんなに流れてるだろ」
男がすぐ傍らに跪き、しばし考えるように黙り込む。
「今なら、お得な契約パックというものをお勧めできるのだが」
「好きにしろよ、契約でもなんでも! って、え、なにそれ、待って」
痛みを、奥歯を噛みしめてやり過ごす。
はあはあと呼吸を荒くして、視線だけ動かして空を見る。
自棄になりながらも土壇場で冷静になったのは、物心がついてからずっと、
後ろ盾もなく、一人で自身を守りながら生きてきた警戒心ゆえ。
空に透ける男が無表情に見下ろしている。
「宗教とか、保証人とか、勘弁だよ。何の契約?」
「私が、そなたのモノになるという契約」
「対価、が、いるんだろ」
「週に一度、汚染されていない真水を」
「水?」
「然り」
「もし、忘れたら? 俺、そういうの、忘れちゃうんだよ」
「こちらから督促してもよろしいか」
「うん、よろしいよ。えっと、もし、忘れていたら、そうして」
頭がひどく痛み、意識が途切れそうになる。
全身が、冷たいのか熱いのか、細かい針に刺されたように毛穴の全てがジリジリする。