好物
翌日から、クリスはロキと行動を共にした。イフリートの用意した食事をとり、朝のミーティングに参加し、僅かながら時空の歪みが確認された地区へのパトロールに出向く。特に変わったところはなく、人々の普通の生活がそこにあったが、ロキは真剣な眼差しで市役所員にいくつか質問をし、地図にメモをとったりしていた。
夕方も近くなった午後、大槻がロキの自室を訪れた。キッチンからは、包丁とまな板が触れる軽快な音が聞こえてくる。コトコトと湯気を吹く鍋、やがて、シュワ、と、フライパンで何かを炒める音が加わる。イフリートが手際よくコンロの前に立つ。凛として暖かく、心地よい景色。クリスがキッチンへ近づき、何か手伝う事はある? と問うと、金髪の青年姿の彼は、へーきへーき、ありがとねと笑顔で返す。手伝いを断られて手持無沙汰になり、ふらふらしていると、キッチンの入り口に置かれた、高さ約一m、一・二m×〇・七mほどの浴槽のようなケースに気付いた。
「これ、なあに? からっぽ?」
「ああ、それ、弄らない方がいい。レヴィに怒られんぞ?」
掛けられた言葉に、びくっとして一歩下がると、エンはおもしろそうにクスクス笑いながらワインの栓を抜いてフライパンに廻し入れる。
「レヴィ君は?」
「出かけいてるっぽいね」
大槻の問いにさらっというロキに、そうか、と返す。ロキ達の関係は、他のジェーナホルダーと眷属のそれとは全く異なる。主従でありながらどこか距離があり、自由。
「そういえばさ、クリスちゃんも俺の事、ロキって呼んでよ」
「あー、俺はエン、な」
主の声を追うように、キッチンからも声が掛かる。
「ロキ、に、エン? そう呼んでいいの?」
クリスが目を丸くして二人の顔を見比べると、もちろん、というように肩をすくめる。彼らは乱暴で意地悪だけれど、悪い人じゃないのかもしれない。ううん、でも、まだ油断は禁物だわ、と秘かにこぶしを握った。先程の浴槽のようなケースの脇に、さあっと霧の渦が湧き、水色の青年が姿を現した。ロキと大槻が、おかえり、と声を掛けると、恭しく頭を下げる。と、浴槽の中で何かが水音を立てた。
「おー、すげえ」
「今日はカニ? ずいぶん豪勢だね」
クリスもロキと大槻に並んで覗き込むと、膝くらいの深さに水が張られ、中には大きなカニが五匹、足やハサミを動かしている。さっきまで空っぽだったのに、まるで手品のよう。
「北陸へ出向いたので、先日の、吉井殿への礼も兼ね。
大槻殿も、よろしければ」
「お、いいねえ。これだけあるんだったら薗田ちゃんと高岡ちゃんも呼ぼうぜ。
大槻ちゃん、こいつ、何でいきたい?」
どれどれ、とキッチンから出てきたエンがそう声を掛けると、大槻は笑いながら、うーんと腕を組む。
「お勧めは?」
「ボイルが一般的だし食べやすいけど、鮮度がいいから刺身もいいし、
さっとだし汁に通して花咲かせんのもいいね」
「う、どれも旨そうだな」
「クリスちゃんは?」
突然にエンから問われてびくっと顔をあげる。見回すと全員が自分の顔を見て、言葉を待っている。どうしよう。
「あの、焼いたの」
「おー、焼きガニか、いいねえ。生でいくより、甘みとうま味が引き立って。
甲羅ごと味噌もあぶって、ちょっとつけて食べると、これがまた。
この前、海で使った備長炭も残っているし」
「吉井さんたちに、声、掛けてくるよ」
大槻はもう堪えきれないというように、いそいそとロキの部屋を出て行った。私も、仲間に入っていいのかしら。戸惑いつつ、エンと話しているレヴィを盗み見る。この人は、私が彼の採ってきたカニを食べても怒らないかしら。やっぱりなんだか苦手で怖い。と、レヴィと視線が合った。慌ててそっぽを向くと、なぜか彼女に近付いてくるので思わず身構えた。
「飛龍を呼び出してはもらえぬか」
「え」
「私に、飛龍と交渉する許可を」
ちらりと視線を移すと、ロキとエンは夢中になってカニと格闘していて、自分たちの事は気にも留めていない。怯えているのを覚られるのは、悔しい。何事もないように自らの眷属に意識を向けて心の中で名を呼んだ。いつもの定位置、クリスの左肩に現れたワイバーンは、なんとなく萎縮して見えた。レヴィは小さく頷くと、棚からガラスのコップを取り出し、手近なテーブルの上に置く。その中に、彼の手から緑色の半透明の、小指の先ほどの大きさの小石がさらさらとこぼれて落ちる。小石の量は、コップの半分ほど。それを、彼女の肩の飛龍の目前に掲げる。
「ジェイド!」
ワイバーンが思わず漏らした声に、クリスは驚いて青年と眷属を交互に見た。
「後に、いくつか聞きたい事、協力を頼みたい事がある。
対価は、これで。対価以上の無理は頼まぬ」
「我デ、ヨケレバ、ヨロコンデ」
視線は緑の小石から外さず、そわそわと羽を小刻みに動かす。青年は満足そうにうなずいて、クリスにコップを手渡した。ほぼ無意識に受け取ったコップの中の小石を、一つつまんでじっと見詰める。
「これは? なあに?」
「ジェイド。この国では、翡翠と呼ばれている。玉とも言う」
飛龍に聞いたつもりだったので、目前の青年の答えに動揺してしまった。
「龍は、だいたい宝玉を好む。飛龍の一族は、特に翡翠を。
自らの眷属の好物を知って、損はない」
試しに肩の上の眷属に翡翠の小石を近づけると、イイ匂イ、といって、うっとりとした様子で鼻先を彼女の手に擦り付けてくる。背後でロキが、へえ、と声をあげる。
「エンの好きな物って?」
「酒だね」
「レヴィは?」
「pikari」
「うちのは安上がりだなあ」
ロキの楽しそうな声に、思わずくすっと笑ってしまった。