煎茶
被った布団の向こうからノックの音が聞こえ、びくっと体を固くした。泣き声を聞かれてしまったのだろうか。どきどきと大きな音を立てる心臓の音が耳の奥で響く。ドアが開く音が聞こえたが、人の気配が遠い。そっと起き上がると、ドアは閉じたまま。壁越しに隣の部屋からボソボソと誰かの話し声が聞こえる。ノックされたのは隣の部屋だったと理解し、ほっと肩の力を抜いた。
気配を消して、数秒。だんだん気持ちが落ち着いてきた。隣の部屋の声は、その会話の内容は聞き取れないけれど、時折、穏やかな笑い声のようなものも聞こえてくる。私は今、こんなに哀しくて、屈辱に耐えて苦しいのに、と、彼女は思った。キサネには仲間がいて、楽しそうに笑っているなんて、ずるいわ。勝手に押しかけて、無理やり居座っているのは自分。それはわかっている。けれど彼女は、自分が中心にいない世界、周りから注目されていない世界に慣れていなかった。
「こんな、こそこそしているのなんて、私らしくないわ。
そうよ、クリス、あなた、ここへ何しに来たの?
ベッドでパパを恋しんでメソメソ泣くため? 違うでしょ?
先手必勝っていうもの、こっちから攻めるべきだわ!」
小さな声で自分を鼓舞し、寝巻の上にガウンを羽織って、そっと自室のドアを開けた。ダイニングは薄暗かった。隣のキサネの自室を窺うと、ドアの隙間から灯りが漏れている。やっぱり、まだ起きているんだ、と確信を強くしてドアの前まで進んだが、ノックする勇気は出なかった。こんな時間に男性の部屋を訪れる不作法は重々承知している。もし、あの意地悪な眷属たちにみつかったら、またひどい事を言われるのに違いない。特に、青い方。ふいにドアが開き、飛び上がりそうなくらいびくっとして顔をあげ、思わず心の中で、「でたああああ!」と叫んでしまった。
トレイを片手にキサネの部屋からでてきたレヴィアタンは、ちらりと彼女を見て一歩室内に戻り、ドアを引いて待った。入っていいのだろうか。戸惑いつつそっと入り口に立って様子を窺うと、レヴィアタンは、どうぞ、というようにドアを押さえたまま。
「眠れなかった?」
室内からかけられた声に、さらに一歩進むと、キサネが机に向かって本を開き、PCのキーボードを叩いている。そのテーブルの傍らには、湯気を立てているカップが置かれていた。画面を確認し、さらにパタパタと入力を続けながら、
「それとも、起こしちゃった?」
と言葉を続ける。床にはイフリートが座し、目の前のローテーブルの上に並べた、分解された部品を弄っている。詳しい知識のない彼女にも、銃を手入れしているのだと予想ができた。
「少しだけうとうとしたんだけれど、目が冴えちゃって。
これ、キサネの銃?」
「そう。レヴィ、彼女にもお茶お願い」
「はい」
目を丸くするクリスの事は、気にも留めないという風に、静かに退室していく。
「妖魔には効かないって言うんだけどね。何にもないよりはマシかなって。
あ、適当にその辺に座って。もうちょっと、こっちやっちゃうから」
本に視線を落とし、視線で文字を辿り、少し考え込んで、またキーボードに指を滑らせる。傍らに立ち、本を覗き込むと、妖魔のイラストとその特性などが書き込まれている。邪魔をせずに少し待っていようと判断し、ローテーブルのイフリートの対面に座った。所在なくイフリートの作業を見学していると、ちらりと視線をあげた彼と目が合う。気まずく戸惑っていると、くすりと笑ってそのまま作業を続ける。
「器用なのね」
「まあね」
「ニホンって、銃を持っちゃいけないのよね? 軍と警察だけ?
キサネは軍人だから特別?」
「これは、エアガン。
改造してあるから、法律でいいかどうかっていえば、ダメなんだろうけど」
慣れた手つきで銃を組み立て、構えて照準を確かめる褐色の肌の青年をぽかんとしてみる。エアガン。ミサイルですら妖魔を攻撃するのには不十分なのに。弾が当たったら痛いだろうけれど、おもちゃじゃないの。という事は、この傍らに置かれた黒い、直径五mm~一cmに満たない無数のボールが弾というわけか。樹脂製で、よく見ると暗褐色の模様がついている。ノックの音と共に、再び水色の青年が姿を見せた。身構えるクリスの前、ローテーブルの手前側にフェルト製のコースターを置き、湯気の立つカップを置いてくれる。
「あ、ありがとう」
小さく言うと、そのまま身を起こし、退出していく。カップはキサネの物と同じく取っ手がなく円筒形で、その中には香ばしい香りを立てる薄黄緑色の液体が注がれている。カップに触れると、熱い。どこを持てばいいのだろう。キサネのカップは熱くないのだろうか。検討の結果、淵のあたりを両手の指先で支えて持ち、やっとお茶を口に含んだ。刈り取ったばかりの若草の香りと、どこかざらっとしたような渋み。まずいわけではないが、不思議な味だと思った。
「んーーーーー」
キサネが伸びをして首を左右に何度も交互に倒している。
「いつもこんな時間までお勉強しているの?」
「んー? ああ、俺さ、ここに来る前、
昼間働いて、夜、学校に通っていたんだ。
だから、この時間に机に向かうのは慣れっこ」
「日本人って勉強家なのね」
「そっかあ? うーん、って事は、その中にいると、
おいて行かれないようにさらに勉強しないとダメで、余計大変って事だよね。
ま、今の俺は必要に駆られてやっているだけだけど」
そんな話をしながらも、海龍がどこかから突然出て来はしないかと気が気じゃない。
「あの、さっきの人は……」
「さっきのって、レヴィ? さあ、もう寝たんじゃない?
用があるなら呼ぼうか?」
キサネの言葉に、慌てて首を横に振る。テーブルの向こう側で、イフリートが軽く噴き出す。海龍よりはまだましだけれど、見透かされているようで、彼も苦手だわ、と思う。なんとなく負けたくない気持ちで、黄緑色に透けるお茶をもう一度口に含んだ。その慣れなさは、いっそう心を哀しくした。