変事
「海龍、出ます」
「大きい」
モニター室の空気が一気に冷えたように感じられた。
「被害状況は?」
「家屋の倒壊が、数件。このまま、海龍が渦を起こせば、どのみちこの地区は」
「地区住民の避難は済んでいます。
避難指定施設内の、地下シェルターへの移動を開始しています」
イギリス北西部とアイルランドが襲われて以降、世界各地が、こいつに喰われた。
パターンは研究し尽くしたはずだった。
今まで、こんな大地震を引き起こしたことはなかった。
これまでの報告によると、数か月ほど特定の海域に留まり、
様子を見るように陸地に近付き、その尾が海底を叩く振動だけを残し、
姿を見せずに深海へ帰る事を繰り返す。
ある日、その姿を海上に現し、咆哮を上げる。それが、合図。
やつは再び海に潜り、渦を作り、巨大な渦潮は竜巻となって陸を襲う。
スリランカとインドの南半分を水没させた後、奴が次の標的に選んだのは、
この日本だった。
海龍が太平洋側のとある海域に留まるようになってから、監視と警戒を強めてきた。
「いよいよ、か」
モニターの中で、白銀の龍が吼える。
学校、病院、その他様々な公的施設の内部が映し出される。
職員に誘導され、非常用エレベーターで地下へ運ばれていく人々の不安げな表情。
生き延びてくれ、と、ただ祈る。
「吉井さん、人です」
「なに」
「モニター、拡大します」
瓦礫の街を、走る人が映し出される。
紺色のパーカー。十代か、二十代の男。胸に布を丸めたものを抱えている。
「撤収、間に合いません」
「吉井さん、オンディーヌを出させてください」
「だめだ」
「でも」
「避難は、完全に済んでいる。街に人などいるはずがない」
「吉井さん!」
二十代半ばくらいの女性が、悲鳴に似た声を上げる。
「やつらの存在は、トップシークレットだ。民間人に知られるわけにはいかない」
「見殺しにするんですか」
「人など、いなかったと言っているだろう。
オンディーヌを出したところで奴は止められん。
その可能性が少しでもあったなら、とっくにそうしている」
モニターの中で、少年はたまに背後を振り返り、
転びそうになっては辛うじて体勢を整え、息を切らして駈けている。
苦々しく黙り込んで、その姿を見詰めるしかできなかった。
「海龍、動きます。上陸する気か?」
「なんだと!」
モニターが切り替わり、海上を映す。
巨大な白銀の生物は、滑るように空に浮き、陸地の上を飛んだ。
「何をする気だ」
今まで上陸した事などなかった。
吉井と呼ばれている男は、思わず席を蹴って立ち上がる。
「彼を、追っているのでは」
「そんな。今まで、街に人が残っていても、海から出た事などなかったはずなのに」
海龍の尾が、建物に当たり、粉塵をまき散らす。
確かに、海龍の向かう先には、逃げる少年の姿がある。
少年は、建物の間を縫うように逃げ続け、その姿は時折モニターから消える。
追う海龍の口元が、咆哮の形に開き、
うねりながら上昇し、下降し、少年の行く手をふさぐように前に出る。
と、その肢体が再びビルにぶつかって、倒壊させた。
モニターに、崩れたコンクリート片が少年を襲う様が映し出される。
誰もが息をつめ、海龍の動きを見守っていた。
その視線の先で。
海龍は、少年がいたあたりに数秒留まり、すう、とその姿を変えた。
水色を帯びた長髪を持つ青年の姿になった海龍は、
容易く巨大なコンクリート片を投げ捨て、何かを抱え上げる。
それは、さっきまで駈けていた少年だった。
人型のまま、流れるように高台まで飛び、山頂の、海を見下ろす公園に着地する。
モニターが切り換えられる。画像のみで、音声は入って来ない。が。
「彼ら、会話、していないか?」
信じられない思いで、だれもが言葉を失くしてモニターに見入った。