潮騒
夜の砂浜を歩くのは、何年振りだろう。遠い海鳴り。波が砂浜を洗う音は近いのに、手前の白い波頭以外、ただひたすらに暗黒だ。駐車場から砂浜までは、わりと距離がある。革靴が砂の上で滑って歩きにくい。小さな崖の向こう、木立の陰に、焚火のオレンジの灯りが見えてきた。焚火を囲む、三つの人影。そこから、黒い小さな影が飛び出して駆け寄ってくる。満面の笑顔で出迎えてくれたアキの頭を撫でる。飛び掛かった前足で汚れたズボンは、後でクリーニングに出さなければ、と心の中で苦笑を漏らす。
三人の青年の視線に迎えられながら、焚火に近付いた。コンビニの袋が無造作に砂の地面に置かれている。醤油、紙皿、割りばし。アルミホイル、炭の入った段ボール箱。大槻はそれらの物を見て、ぎゅっと胸が詰まり、湧き上がる切なさに涙が溢れそうになった。なぜかとても、哀しいと思った。
彼らの向かい合う中央、焚火の周りには石が積み上げられ、簡素な竈が作られ、小さな網が乗せられている。網の上には貝がいくつか乗せられていて、周辺にはアルミホイルに包まれた魚の骨や、貝殻がいくつか置いてある。食事の終盤なのだろう。
「随分と豪華な夕食だな」
「よくここがわかったね」
特に驚く風でもないロキの言葉に、ふふ、と笑って肩をすくめる。
「君には、発信装置が埋め込まれている」
「えー、マジで? いつの間に?
こっわいなあ、ストーカーっすか。きめえ」
言葉とは裏腹に、楽しそうに笑う。金髪の青年が、その見た目とは似つかないような穏やかな仕草で立ち上がり、ここ、どうぞ、と大槻に席を譲り、傍らの無表情な青年に、木、拾いに行こうぜ、と声を掛け、アキを伴って闇に向かって歩き出した。
「レヴィ君とエン君も、もうすっかりいいみたいだな」
「うん」
寄せては返す波の音と、炭の爆ぜるパチッという音が二人を包む。遠い、昏い空から、夜の大気がゆっくりと降りてくる。
今日一日、ロキの軌跡を辿ってきた。彼の生まれ育った家は、すでに人手に渡っていたが、近所の人は彼を覚えていた。幼少期の彼は、おとなしくて目立たず、きちんと挨拶のできる、照れ屋で本が好きな少年だった。母の死後引き取られたという施設では、予想通りの話が聞けた。やはりロキは、父親からひどい虐待を受けていた。清潔さなど皆無、体中痣だらけで、栄養失調で痩せ衰え、虚ろな目をしていたという。幼い子供たちの面倒をよく見て、ケンカなどもほとんどなく、何物にも執着を見せず、基本的には来るもの拒まず、去るもの追わず。人当たりはいいものの、本心を見せたがらない、影の薄い、手は掛からないけれど、その分、掴みどころのない子だったと。
「今日は、すみませんでした」
「ん?」
「あいつの事さ、相手にしないって思っていたんだけど、キレちゃって」
網の上の貝を、手元の紙皿に移す横顔を、焚火の火がオレンジに照らしている。熱いよ、と、紙皿を大槻の方に差し出すので、ありがたく受け取った。
「菅原君の言い方も、大概だっただろう」
「や、でも、誰でもキレるわけじゃないっしょ。俺の問題だから」
夜空を見あげて、しばらく何かを考えるように黙り込んで、話し始めた。
「母さんが死んで、親父も帰って来なくなって。
食うもんとか給食しかなくて。
でも、あんまりガツガツ食うのも恥ずかしくて、おかわりとかできなくて。
たまに親父が、弁当買って帰って来て。
それ食い始めるとさ、親父、俺の事殴るんだよ。
そしたら、弁当ぶちまけちゃうでしょ? それ、這いつくばって食えって。
そんなもん、食いたくないんだけど、他に食うもんないし。
殴られたとこ痛いし、すげえ、惨めで。
で、また殴られるんだよ。メシ食わしてやってんのにその目はなんだって。
いつか殺してやる、こんなじじいの買ってきた飯なんてって思うんだけど、
腹、減って。
菅原さんばっかりが、悪いんじゃない。むかつくけど。あの人には関係ない。
俺が、食わしてやってんだからいう事きけ、みたいなのが、だめなだけで」
大きく炭が爆ぜて、カラリ、と崩れ落ちる。
「これから、どうするんだ?」
「これから、っすか。別に、なんも。
住込みのバイトでも探して、十八になれば夜も働けるし。
今までは、学費と、大学、いけたらいいなっていうのもあって、
少しでも貯金しようとか思っていたから、生活きつかったけど、
どうせ後何年かで地球に誰もいなくなっちゃうんだったら、
学校でても意味ないし。
あ、そっか、そのうち、働く先もなくなっちゃうのか。
ま、そん時はそん時、かな」
「月や火星への移住には、反対?」
「反対って言うか。他の人は別に、行きたければ行けばいいよ。
でも、俺は行かない」
「なぜ?」
「あいつらさ、宇宙へは行けないんだって」
「エン君と、レヴィ君?」
「うん。あいつら、ここのエネルギーがないと消えちゃうんだって。
地球を離れようとしていくと、どこかエネルギーが届かない所で消えて、
気が付いたら、また地上とか海の中にいるだろうって。
だったら、俺もここにいるからいいんだよ」
「彼らと、共に?」
火の中の炭をいじっているロキの横顔を盗み見ると、炎の熱のせいか目が潤み、泣いているようにも見えた。
「また、メシ繋がりになっちゃうけど。
施設に入って、はじめはワケわかんなくて。
給食以外でもメシ食えて、いいのかな、さっき食ったばっかなのにって。
先生たちはたくさん食えって言ってくれて、他の奴は、ガンガン食うのね。
でもさ、おかわりする時、たまに、先生、ため息つくんだよ。
まあ、食い盛り多かったしね、わりとメシ代とか、きつかったと思うし。
施設でて、ばあちゃんちで暮らすようになって、
俺、スーパーで働いていたから、俺はニッパイだったんだけど、
惣菜部のおばちゃんたち、めっちゃいい人たちで。
これから学校でしょ、大変ね、偉いねって、惣菜、安くして持たせてくれて。
はじめはさ、すげえうれしかったんだ。
誰にも気兼ねしないで、好きな物、好きな時に、好きなだけ食えるって。
けど、夜中に学校から帰って、一人で惣菜食っているとさ、
たまに、異様に、なんていうんだろね、空しくなるんだ。
施設のさ、ぎゃあぎゃあうるさくて、たまに、超絶まずいおかずとかでて、
なんか、悪くて残せなくて、無理して食ったりしていた飯が懐かしくて。
どうしろって話だよね。自分でも、わがままばっかりって思う。
あいつらと出会ってから、部屋に帰るとさ、
いい匂いするんだよね、入った時。
大根の味噌汁とか、カレーとか。全然、普通のメシなんだけど。
おかえり、メシ、できてんぞ、って。それがさ、全部、俺だけのためなんだ。
誕生日とか、記念日とか、そういう、特別な日のお祝いも、うれしいと思う。
けど、なんでもない毎日に、
あいつら、俺の事を喜ばせようとしてくれるんだよ。
シャツにもハンカチにもアイロン掛かっていて。
俺が喜ぶように、なんかしてくれて。
記念日のお祝いは、友達でも知り合いでもできるんだよ。
けどさ、毎日、ちょっとずつ喜ばせ続けるのって、
家族じゃないとできないんじゃないかなって思うんだ。
ヴォルケーノがアキの事、家族かって言っていたけど、アキだけじゃない。
俺にとって、あいつら、家族なんだ。
離れていても家族、とか、そんなんねえよ。永遠に会えないなんて。
あいつらのいない所なんて、行ったって意味ないよ」
そう言って、両手を後ろについて、思い切り天空を見る。大槻も、それに倣って見上げると、降り注ぐような、満天の星。小さな輝きが、チラチラと瞬いて煌めく。
「これから、どうなっちゃうんだろうなあ。宇宙かあ。遠いよね。
本当に、何十億もの人間が、宇宙船に乗って行っちゃうのかな。
きっと、何人かは、絶対行かない、地球に残るってやつがいるよね。
でも、自給自足しないといけないから大変だろうね。
電気とかもないかもだし。
ばあちゃんも、宇宙に行くのかな。大丈夫かなー?
ふらっと空気がないトコに出て行っちゃいそう。
嵐の日でも、ナツの散歩行こうとした人だから、心配だなあ。
ばあちゃん、俺の事は、もう覚えてないんだろうね。
てか、宇宙行ったら、もう、誰も俺の事は思い出さないよね。
慣れるまで大変でイッパイイッパイだろうし、俺、親戚とかいないし。
最後の宇宙船が飛んで行っちゃう時、
俺が地球で最後で、たった一人ってなった時、
あいつらはいてくれるだろうけどさ、
俺、やっぱり、ちょっと泣いちゃうかも」
ロキの話を聞き、涙が、止まらなくなった。大槻は、自らが神の遺伝子を継ぐものだと知らされ、現実味を感じぬまま、ただ、日々を過ごす事に懸命だった。大槻自身、これまで意識したことはなかったが、この地球を愛している。かけがえのない、生まれ育った故郷。すすんでこの地を離れたいなど思うはずがない。ここを訪れて、紙皿などを見た時に湧き上がった切なさの意味を理解した。これは、誰もいなくなった後の地球の、ロキの日々の縮図だ。彼らと、アキと、海辺で炭を焚き、食事をとる。もしかしたらロキ自身、これらの物を買う時、それを意識したのではないか。幼い頃からの日々、これからの日々、その全てにおいて、彼は孤独だ。その不憫さに、涙が溢れた。
「ちょ、大槻さん、やめてよ。
あー、あれだよね、自分語っちゃって、うざいよね。ごめん」
「いや、こっちこそ、すまない。年甲斐もなく」
なぜ、世界はこんな事になってしまったのだろう。どこかの宗教家が言うように、地球を蔑ろにしてきた人類への、神々の怒りなのか。我々は、その罰を受け入れるしかないのだろうか。
「ロキ」
俯いたままそう声を掛けると、ん? と振り向く。
「家族と言えば、菅原君。彼には、妹さんがいたんだ」
「いた?」
ロキに、無理やり作った微笑みを返しながら頷く。
「優秀な妹さんだったそうだ。自慢の妹だった、と。
けれど、イギリスに留学中、海龍の渦にのまれて。
菅原君は、妹さんの無念を晴らすんだといって特務に志願したんだそうだ。
今でも、誰よりも熱心に研究を続けている。
君が悪いわけではない事は、彼も、頭ではわかっているはずなんだ。
けれど、感情が追い付かないんだろう。彼も、家族を亡くした一人なんだ。
許してやってくれとまでは言えないが、せめて、心に留めておいて欲しい」
「そう、だったんだ」
その時、大槻のケータイが鳴った。本部からだ、とロキに告げ、通話の操作をする。
「はい。え。なんだって! わかった、すぐに向かう」
思わず立ち上がった大槻を、ロキが驚いたように見上げている。気配に振り向けば、焚火の灯りの照らす少し先に、彼の眷属たちが立っている。
「大ムカデが、再び現れた。そして今回は、それだけでなく」